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L’atelier: Bruxelles 1954 (2)

BARBARA à l'Atelier, Bruxelles 1954
を入手した。Merci Jacques !
その内容の16曲はこちら。
Francois Faurant. free.fr
Marie Avilès と Bernard Merle 
(どちらもLes Amis de Barbaraの重鎮)が書いた
34ペイジの小冊子が付いている。
Marcel Hastirの有名なアトリエで行われた
最初のほとんど幻のBarbaraデビュー・コンサート。
場所は51 rue du commerce à Bruxelles
これを録音して今回のレコード化に貢献したのは
Jacques Vynckier氏。
古い古いオープンリールのテイプレコーダーで
Jacques Vynckier氏が録音した。
もしこのテイプが保存されていなかったら今回のこのCDは
そしてそのコンサートは、存在しなかったことになる。
聴いてみると音は驚くほどよい。
Barbaraの声はまだBarbaraではない。
レクリューズで撥ねられた、声楽を学びました、という発声である。
しかし、栴檀(センダン)は双葉より芳し、
の片鱗は、その声に充分感じられる。
Jacques Vynckier氏についてはすでに
Correspondancesで紹介済み。
Correspondances 2007-11-06 ;
Marcel Hastirのアトリエでは現在も
様様なコンサートや展覧会が行われている。
Les Amis de Barbaraでは、3,4年前に
このMarcel Hastir氏の独占インタビューを
行っているので、その資料もある。
Barbaraの自伝にその名が登場した時から
その正体を必死に探してきた
Angèle Guller
果たした役割も次第に明らかになってきた。
このコンサートにはClaude Sluysも勿論深くかかわっている。
全く無名のBarbaraが1955年に
Bruxellesで78回転の幻のとも言える
レコードデビューが出来たのも
実はこのコンサートがきっかけとなったのだった。
このレコードデビューには
Angèle Gullerが深くかかわっている。
Barbara幻の最初の78回転モノラルは
Francois FaurantのSiteで。
2曲歌っている中の1曲「 L'œillet blanc 」は
レクリューズの共同経営者の一人Brigitte Sabouraud
作詞・作曲の作品である。
先に紹介した
Christian MesnilのFilm「Les Chemin de Barbara」
では多くの人が顔出しでインタビューに応じている。
Les Amis de Barbaraにはそれらを文字化した資料も多い。
今回のこのCDを軸にしたBarbaraのBruxelles時代を
Music Cross Talkに記事化したいと思っているが
資料が多くて資料の読み込みに時間を要するので
書き始めるのは再び枯葉の散る頃になりそうだ。

・・・・・
この記事はBlog Correspondances(2008年02月15日),にBruxellesが記入したものをこちらに移動したものです。

L’atelier: Bruxelles 1954 (1)

Jacques 1


≪ BARBARA A L’ATELIER. BRUXELLES 1954 ≫
Un livre-disque comprenant un livret de 32
pages illustrees et un CD de 14 titres enregistres
lors d’une repetition de 1954. La plus ancienne
archive sonore connue de Barbara.
Sortie le 9 novembre

写真の人物はJacques Vynckierという。BarbaraがClaude Sluysと結婚していたBruxelles時代、二人はよくこのJacques Vynckierの家で食事した。BarbaraがMarianne OswaldやEdith Piafの曲と出会って、彼女の歌の世界を少しずつ広げていったのは、このJacquesの家でだった。ベルギーに来たころのBarbaraにはレパートリーも1,2曲しかなかった。
Barbaraは画家のMarcel Hastirのアトリエで1954年小さなコンサートを開いた。1954年10月1日のそのコンサートのリハーサルの模様をこのJacquesが密かに録音していた。半世紀以上たった今、そのJacquesの秘蔵録音が今回CDとなる。
14曲入りのCDと小さな32頁の書物がついて17ユーロ、11月9日発売になる。
表紙のBarbara,1954年,ふっくら顔のBarbara
勿論、Barbaraの音声記録としては、最古のものである。

前頁に書いている、Monsieur MurataにParisで
買ってきていただいた本の中には、Ethery RouchadzeとBarbaraとこのJacques Vynckierが三人仲良く微笑んでいる1953年の写真が掲載されている。Barbara同様、言うまでもなくこのJacques Vynckier氏も上の写真とは違って物凄く若い。

・・・・・

この記事はBlog Correspondances(2007年11月06日),にBruxellesが記入したものをこちらに移動したものです。


Barbara初来日

Barbara初来日の第一回国際歌謡音楽祭の記事を発見しました。
ざっと見て1970年がどんなに昔かということがよくわかる。
Barbaraは21日のショータイムに出演している。同日の出演はほかにイタリア人のGianni Nazaro,そしてなんとザ・ピーナッツ。ヤマハの
貴重な記事をご覧ください。
グランプリはHedva and Davidの「ナオミの夢これは大ヒットした。


・・・・・追記 2008年6月19日・・・・
上の記事は2005年7月26日の記事としてCorrespondancesに編入したものだが、もともとはそれ以前にPLANETE BARBARAに書き込んだもの。覚えている方はほとんどいないと思うので再録してみた。
場所は日本武道館大ホール
このときBarbaraは3曲ほど歌ったという記録があるのだが、タイトルは何だったのだろうか。葦原英了氏がこのときの様子を書き留めておられる。「長身と鋭角な顔に物を言わせて」という表現が強く印象に残っている。「堂々と歌い、1万人以上の聴衆をうならせてしまった」とある。葦原英了氏の「シャンソンの手帖」(1985年3月31日発行)によると同じ日の晩、IBM主催のリサイタルが読売講堂で行われている。ここでは30曲以上も歌ったとある。彼女の魅力にすっかり捉えられてしまった。全聴衆がそうだったと言える。と書いておられる。その30曲あまりはどんな曲であったのだろうか?もしこの時の録音があれば、今のBarbaraの勢いからすればすぐにでもCD化は可能だろう。


・・・・・・・・・・
ナオミの夢」 Hedva ve-David
この第一回大会にフランスからはFrida BoccaraHerbert Leonardが参加している。これだけの歌手を世界中から集める力が日本にあったのは、おそらく1970年の万博の勢いに違いない。
/////////

これはBlog Correspondancesの2008年6月19日の記事をこちらに移転したものです。

Sophie Makhno (=Francoise Lo)

Sophie Makhno

上の写真はとても若い1967年の Sophie MakhnoとRicet Barrier。Ricet BarrierもL'Ecluseの歌手だったので、5 septembre 2009のFrance Musiqueの番組Les Greniers de la mémoireの「Au cabaret de L'Ecluse」に登場して「La Servante du château」を歌っている。(既に紹介済み)
・・・・・・・・・

はじめの頃さんざん紹介した、Sophie MakhnoことFrancoise Loの動画がYou Tubeに登場している。ちょっとした発言がBarbaraの遺族の逆鱗に触れ、責任をとってLes amis de Barbaraを自分からやめていったこともあった。数年前に亡くなっている。
Barbaraの秘書としても最高の働きをし、その後も自ら歌手にもなり、プロデューサーにもなり、そしてBarbara時代から引き続き作詞家としても、いずれの分野においても大成した。Barbaraの伝記には欠くことのできない存在である。
Sophie Makhno "Un Gros Calin" Discorama 07/11/1971
私の記憶ではこの人は来日もしている。日本では、Barbara関連と言うより、Piafを失った後一時霞んでしまったCharles Dumontを再生させた存在としての方が、関係者には知られているかもしれない。歌手としてのCharles Dumont最大のヒット曲「Ta Cigarette Apres l'Amour」をDumontに提供したのが彼女である。
Sophie Makhno自らがYou Tubeで「Ta Cigarette Apres l'Amour」を歌っている。それが彼女の死後にこうして日本で見られるなんて、物凄い時代になったものだ。Charles Dumontの歌うものも、勿論探し出した。
Ta Cigarette Apres l'Amour:Sophie Makhno 1980
Ta Cigarette Apres l'Amour: Charles Dumont

参照: Music Cross Talk
Sophie Makhno (=Francoise Lo): Barbara関連
参照:Toi Le Poete
Ta Cigarette Apres l'amour: 歌詞和訳 
参照 : Correspondances過去記事
No.1
Barbara et Charles Dumont
No.2 Ta cigarette apres l'amour:
No.3 Ta cigarette apres l'amour :
No.4 Quel Joli Temps:
No.5 Monsieur H... : Les Amis de Barbara:

L'Ecluse-6 : Marc et Andre (未完)

L'Ecluse-6

Planete Barbara過去記事: L'Ecluse (1)
Planete Barbara
過去記事: L'Ecluse (2)
André SchlesserとMarc Chevalier はMarc et Andreという二人組みで活躍した。まず彼らの「Trois petites notes de musique」を。
Marc Et Andre のChansons de l'ecluseというアルバムは2007年にCD化されている。信じられないほど有り難いことに40曲全部聞ける。こちらがDeezer.comのMarc et Andreの元サイト。
上の写真はL'ECLUSEでなくコクトーの映画オルフェ」(1950)ではないかと怪訝に思われているかもしれない。この大女優Maria CasaresがAndré Schlesserの妻なのです。初めて知った時は吃驚しました。そしてAndré Schlesserには息子がいて名前をGilles Schlesserと言い「左岸のキャバレー」(PODIUMにリンク)という本を書いています。PODIUMの本の紹介の中にAndré SchlesserとBarbaraのことを書いています。


L'Ecluse-5 et Leo Noel 

L'Ecluse-5

Music Cross Talk過去記事
現在のL'Ecluseの内部でBarbaraを語る濃厚な人たち
(4,5,6場面にMarc Chevalier 氏が登場している)

Leo Noël et son orgue de barbarie - trois chansons
L'Ecluseの共同経営者の一人で、司会者でもあった Léo Noëlは1966年に亡くなっている。彼の死とともに、L'Ecluseの人気にも時代的な陰りも見え始めた。ここでは50年代の曲を3曲歌っている。タイトルは」「
Sur le pont du Nord 」(Jacques Plante et Michael Felkermann作) 「Mon pot' le gitan 」(Jacques Verrières et Marc Heyral作:Yves Montand や Mouloudjiでヒットしたが、最初に歌ったのはBarbara)「 Tout le long des rues」(Robert L'Herbier作)。当時の78回転や45回転のレコードから。音源は Marc Chevalier氏の提供。 Léo Noël に関しては現在のところCD化されたものは存在しない。

Leo Noelが得意とした楽器 Orgue de Barbarie
手回しオルガンの音を聞いてみるペイジ。

Sous les ponts de Paris: Interprète-Léo Noël [1914-1966]
Compositeur : Vincent Scotto [1822-1947]
(Tino RossiでSous les ponts de Paris)
Leo Noelで特筆すべきは交通事故で瀕死の重傷を負ったSerge Lama の復帰に尽力したこと。その際Barbaraを含む多くの歌手や音楽関係者がSerge Lama の再起に協力した。

Léo Noël - Tout ça parce qu'au bois de Chaville
(Pierre Destailles et Claude Rollands作、1953年:Odette Laure, Jacques Pills, Henri Decker, Jean Lumière, Caroline Cler, Luc Barneyらに歌われて大ヒットした。)
 「Tout ça parce qu'au bois de Chaville」を
作詞者のPierre Destaillesで、聞く。

Léo Noëlは戦前から歌っていた。Francis Lemarqueは兄弟のMaurice Lemarqueとコンビで歌っていたがMauriceが抜けてLéo Noëlと入れかわった。従ってLéo Noëlは1938年1939年とFrancis Lemarqueと二人組みだった。戦後手回しオルガンで歌うようになり、それらしい独自のファッションを確立した。いわゆる街角のシャンソン歌手のスタイル。Agnès Capriの店やLapin AgileでMac Orlan, Charles Trénet, Kurt Weil, Kosma等の作品を歌った。1951年のL'Ecluseオープンから彼の死の1966年まで経営者歌手兼司会者としてL'Ecluseの雰囲気、左岸のシャンソニエらしき雰囲気をこのLéo Noëlが作り出したともいえるだろう。すでにLéo Noëlで5曲聞かれたと思うが、さすがに古きよきParisが立ち昇ってくるような暖かな歌唱である。


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この歌手もL'Ecluseでデビューした。Barbaraが去った後誰も手を触れなかったL'EcluseのPianoに最初に触れたのがMarie Paule Belleだった。
36年前のMarie Paule Belle,さすがに大変若い!
Marie Paule Belle,TV初出演。数年前に来日した彼女を思い出される方も多いだろう。すでにBarbaraの妹のような雰囲気がある。
Wolfgang et moi - Nosferatu - télévision 1973

こちらは1964年のBarbara
Barbara chante Trenet - J'ai ta main
Enrégistrée pour l'emission 'Deux par deux',
le 2ième avril 1964.


L'Ecluse-4 et Brigitte Sabouraud

L'Ecluse-4
L'Ecluseは1951年Brigitte Sabouraud (1922-2002), André Schlesser, Marc Chevalier , Léo Noëlの4人のArtistsの共同経営でスタートした。ここではBrigitte Sabouraud の曲を2曲本人が1曲をBarbaraが歌っている。Brigitte Sabouraud はアコーディオンの弾き語りをする歌手であり作詞作曲家でもある。Babarの創造者であるJean de Brunhoff の姪。Suzy Solidorの店でデビューしている。
1曲目は"La marchande de fleurs"(L'Ecluse 1958)
2曲目は"Complainte d'une jeune nonne contre son coeur"
(L'Ecluse 1958)いつか紹介したことのあるYvonne Schmitt がピアノで参加している。
3曲目は"L'œillet rouge"
 Jack SayのオーケストラをバックにBrigitte Sabouraud の曲をBarbaraが歌っている。録音は1954年10月、1昨年Les amis de Barbaraが実現させた例の l'Atelier de Bruxelles における無名のBarbaraの初コンサートから。(3曲全部で8分23秒)
最初の2曲は1998年CD化されたCD "Un soir à l'Ecluse"に収録されている。

Brigitte Sabouraud et Barbara
chantent Brigitte Sabouraud 


Claude Vinciの証言 (3)

Claude Vinci (3)


(2) Gottingen
RemusatのBarbaraの家にはよく行った。彼女は僕にGottingenを歌わせたかったんだ。La Mouffでの僕の最初のリサイタルでGottingenを歌った。その頃Barbaraは他の歌手に曲を与えていたんだ。たとえば、Jean-Claude Pascalとか、Cora Vaucaireとか。65年にChant du Mondeからレコードを出す時、僕はGottingenを入れるつもりだった。BarbaraとFrancoise Loがダメだと言ってきたんだ。Barbaraが録音するから、録音はBarbaraだけがしたほうが良いからと。
でも今、CDの話があって、そこにGottingenが入るかもしれない。
そう、そうなんだ、BarbaraもFrancoise Loも僕に歌えといったのは、僕がレジスタンスの活動家だったから。初めの彼女らの提案には、そういう根拠がちゃんとあったんだよ。
僕の新しいCD?おそらくEPMから出ると思う。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


BarbaraとFrancoise Loからの反対が無ければClaude VinciはCora Vaucaireが「Dis quand reviendras-tu?」でそうであったように「Gottingen」を歌った最初の歌手になっていただろう。最初歌わせておいて、途中からレコード収録はダメ、なんてBarbaraの中に川内康範が入り込んでいたのか?


 参照:「Music cross talk」 : Gottingen :

「Gottingen」は最初はGottingenのCMソングかと思われたくらいに評判は良くなかった。じわじわと評判が高まった曲だ。そのあたりがひとつの原因かもしれないが、決定的な理由は、1964年にClaude VinciのPhilipsとの契約が切れて、65年になっても更新されなかったためだと思われる。Barbaraの中に川内康範が入り込んでいたわけではない。
L'EcluseをやめてからのClaude VinciのエージェントはFrancoise LoとNadine Laikで、同じ時期にBarbaraと両者を共有している。
CBSで「Barbara chante Brassens」「Barbara chante Brel」を出したBarbaraがClaude Dejacquesに連れられてPhilipsにやってきたのはClaude Vinciが1963年にPhilipsから最初のアルバム「Eluard」を出した、少し後だ。Claude VinciもPhilipsでは「Dejacquesのチーム」の一員となり、BarbaraとClaude Vinciは、一時ほとんど同一家族のような身近さにいたことが窺がえる。
彼の最初のアルバムが「Eluard」であったことは注目に値する。Barbaraのあの美しい「Printemps」もEluardの詩作品だ。Claude VinciはEluardを直接知っていたから、その作品の紹介があったのかも知れない。


Eluardについて:
社会思想社刊,現代教養文庫,「帰ろう愛の天使たち」から引用
ー僕はといえば、エリュアールよりブルトンが好きだ。ハハンなんて知る人はすぐに気づくと思うけど、今まで書いた僕の体質の嗜好から何故かは明白だと思うーp.207
「シュールレアリズム宣言」を書いたブルトンの極めて身近にいたエリュアール。内的探求の思考に向かったブルトンと社会的政治思想に向かったエリュアールとは、後に袂を分かつ。Claude VinciとBrabaraが後に疎遠になったのも、似たような経緯があったのではないだろうか。

もっと非文学的に言えば、60年代後半のYeYeの到来と共に、ベビーブーマーの到来と共に、左に傾いていた社会思想そのものが、大衆化し、同時に実は政治色を亡くし、気づかぬままに、大きく変質していったのだ。
憧れと理念の喪失から、行動と幻滅とを経て、ソ連の崩壊にまで到る流れの中で「こんな筈ではなかった」Claude Vinciはずっと浦島太郎のままだったのではないだろうか。(「ハートは左、財布は右」のフランス人の中にあって、それはClaude Vinciの潔癖さに由来することを忘れないでおきたい)


(注):上の写真向かって左がPaul Éluard、右がAndré Breton。Surrealismeの元祖だったお二人。

これはCorrespondances 2008年4月29日の記事をこちらに移動したものです。(Bruxelles記)

Claude Vinci (2)

2008-04-25 Correspondances初出


身近にいた人のこういう発言は波紋を呼ぶ。Barbaraの妹Regineから苦情がくるかもしれない。Claude Vinciの発言をpick upしてみよう。


(1)Une petite cantate
僕のいた頃はYvonne SchmidtやDarzeeがピアノを弾いていた。Liliane Benelliはまだいない。彼女とは、le Theatre de Bourgogneで会った。Serge Lamaと一緒に交通事故にあって、彼女は死んだ。僕はずーっと「Une petite cantate」の作曲はLilianeだと思っていた。Barbaraの作曲だと知ったのは、わりあい最近だ。Lilianeが死んだので、既にあった歌詞を取りやめてBarbaraが新しく作詞した、そしてLilianeがすでに作曲していたと思っていた。...
BarbaraのRemusatの家に行くとLilianeとBarbaraが二人で一緒に仕事をしていた。LilianeがBarbaraに教えていたのをよく見た。


参照: 「Music cross talk
-完成した直後に一発録音され、記録では同日発売されたことになっている-という1行を思い出した。1曲だけ、しかも歌詞だけを発売直前に差し替えた、という可能性も確かに感じる。死を扱った追悼の曲にしては、メロディーに重苦しさが、たとえば「Nantes」に比べ希薄な気もする。すべてそう言えばの話だけれど。
(この曲の著作権がすでにBarbaraにあった、それゆえにBarbaraは歌詞を変更しようと思いついた、とすれば、Claudeの発言に何らかの根拠があったとしても、何の問題もない)
Claude Vinciは主張しているわけではないが、「自分はこう考えていた」という示唆は、大きな誤解を生みかねない。イメージがそちらの方に振れてしまうからだ。一旦振れたイメージはそのまま一人歩きするのが常だ。
参照: Serge Lama & Marie-Paule Belle
     
Une petite cantate 


2008-04-26 : 検証追記


Chalon-sur-Saoneでコンサートを終えたBarbaraに当時の秘書のSophie Makhnoはこう告げた。
「Serge LamaがLilianeと一緒に事故に遭いました」
するとBarbaraはこう言ったという。「彼女は死んだのね」
(祖母の死の時と同じような直感が働いたのか)
Barbaraは直ちに「Une petite cantate」を書き始めた。
当時Barbaraはアルバム制作中で、Philipsの代表達にアルバムの中の1曲をプレゼンする必要があった。Barbaraは他のではない、このpetite cantateを歌いたいと思った。Claude Dejacquesは、あんな状態でBarbaraは歌えるだろうかと心配していた。レコード会社に対するプレゼンなど、心地よい雰囲気の場であるわけも無く、しかも朝の10時という時間からだった。
Sophie Makhnoが手渡したウィスキーをBarbaraは一気にあおって、petite cantateを歌ったが、会議場から出てきた時は、何も覚えていない有り様だった。...
参照:Valerie Lehoux 「Barbara Portrait en clair-obscur」 p.145&146

これだけではBarbaraが、作詞作曲の両方を一気に仕上げたかどうかまではわからない。ただLilianeに対して非常に強い想いがあったこと、そして彼女の死に対して、動転するほどの強い悲しみがあったことは充分推測できる。この曲を生涯、演目から外さなかったことからも、二人の間に強い絆があったことが理解できる。根拠の無いClaude Vinciの推測など、もうどうでもいいことだと思えてくる。


Une petite cantate」(和訳) de 「Du Soleil Levant」

Claude Vinciについて

Claude Vinci

2008-04-24


Claude Vinciに関して
とにかく声を少しでも聞きたいので、まずは歌声を。
Racinesから試聴する。
Quarante ans de chansons 1963 / 2003 から試聴する。
De désespoirs en espéranceから試聴する。
Barbaraより少しあとにL'Ecluseに入店、1958年から1964年までBarbaraとL'Ecluseで一緒だった歌手。Les amis de Barbaraの会報33号でBernard MerleがClaude Vinciをインタビューしている。


追記:4月24日
Marie-Joelle Rupp著のClaude Vinciの伝記
「Vinci soit-it」は2006年「Le temps des Cerises」
社から発行された。
書籍だけでなく彼の伝記映画も存在する。
ゲシュタポに狙われた両親を持つ彼は
僅か11歳でレジスタンス運動に身を投じた。
後にアルジェリア戦争にフランス兵として参加
そこで仏軍の愚行を目撃
人間として義憤に駆られて脱走兵となり
F.L.N.(アルジェリア民族解放戦線)に参加
アルジェリア独立
のために苦闘した。
大手レコード会社は彼の歌手としての才能を高く評価するも、その過激な革命思想に抵抗を示し遠のいていった。
危険人物となった彼はYves Montand、Simone Signoret夫妻の家に身を隠していた時期もある。
彼ほど極端でなくても、フランスのシャンソン歌手達で彼と同世代の者の8割以上はマルクス・レーニン主義者だと思って間違いない。
全世界の著名人、知識人の過半数以上が左に傾いていた時代があったからこそ、50年代、60年代の
旧植民地の独立が達成されたのも、また事実なのだから。
しかしその後の虚無、哲学的とも思えるまでに内省化したエネルギーは、ベビーブーマーの人口爆発と接触し、火花を散らせ、フランスは40年前の5月に、'68 maiを迎えたのだった。(40周年にあたる今年の5月には特集が組まれるだろう)


・・・・・・・・・・・・


ついでながら昨日、貴重なfilmを発見した。
'68 mai :
このDaniel Cohn-Bendit が、かの有名な
赤毛のDanielなのだろうか。
(赤毛のダニーは実はドイツ人でドイツで政治家になっているらしい、これは今日図書館で読んだ本からの情報。
ドイツ人、フランス人という枠を越えたヨーロッパ人的感覚で語られる人物なのだそうだ)
このQuartier Latinでの騒乱は、かつて若者だった日本の日本人のあなたにも郷愁を喚起させるのではないだろうか。あまりにも日常的に見慣れた場面だ。
懐かしいこの曲などをバックに、一杯飲む?
(注:どちらも呼び込みに少し時間がかかります)

2008-04-28: 追記
N氏に以前送っていただいた「るたん」第34号('82-12)を見ているとなんとClaude Vinciについての記述があった。
ー資料未到着のため詳細不明。本アルバムでは、Boris Vian(1920-1959)作詞・作曲の「脱走兵」が収録されているーとある。
彼はフランス軍に銃を向け、命からがら脱走した、本物の「脱走兵」なのだから、この選曲は当然だ...


昨日アルジェリア戦争を調べていて、2006年9月の興味深い記事を発見した。「ハルキ」とは、独立戦争の際に、祖国を裏切ったアルジェリア人達のこと。その人たちを2006年に、表彰する、フランスの国家的心理が全く理解できない。狐に抓まれた気分だ。大昔の汚点を他国から表彰されて、恥の上塗りに戸惑うばかりだろう。
参照: site 1 : site 2 :

Anne Sylvestre & Marie Chaix (5)

参照:Anne Sylvestre : Ecrire pour ne pas mourir:
「死なないために書く」 の
歌詞 & その歌 をきく。
・・・・・・・・・・・・・・

Anneは20歳頃から自作を書き始めた。そしてNicole Louvierを聞いて自分もそんな風になりたいと思った。しかし風呂場で歌って家族に聞かせる程度だった。1955年政治犯の全面的大赦があって父がFresnesから出てきた。父はAnneの最初のファンになり、彼女のデビューに力を尽くした。Anne22歳Marie14歳。その父も1963年に死亡。
仕事を探す羽目になったMarieは最初
出版社?で、そして1966年から(1964年という資料もある)Barbaraの元で働き始めた。Marie24歳。
ある日BarbaraはMarieに家族のことを聞いてきた。ユダヤ人で占領下のフランスを逃げ回ったBarbaraを前に、加害者側の家族のことを語ることは言いようの無い苦痛だった。それでも話した。
「Echangeons nos morts,
ils sont tous pareils」
とBarbaraは言い、Marieにそれをいつか書き尽くすようにと言った。この場合ilsとは各々の父親である。Barbaraは父親がしでかした事ゆえ、苦しみ続けなければならない娘、Marieに自分を見たのだろう。「私の父も、似たようなものよ。死ぬ前も死んでからも、さんざん苦しめられてるわ」
そう言いたかったのだろう。そして言葉には出来ない、父親への深い愛情も、同時に見抜いていたに違いない。
よくぞ聞いたものだ。
よくぞ答えたものだ。
よくぞ許したものだ。
それは、父親の過ちから逃れられずに苦しみ続ける娘をBarbara自身が生きてきたからだろう。

mp3で置かれた3人の長い長いインタビューをお聞きになった方の耳にはJulietteという言葉が聞き取れただろう。二人が共に語るJulietteは、勿論歌手のJulietteではなく、1937年、Marieの生まれる前から、戦前から家に住み込んでいた女中のことである。父がいなくなってからも、母と二人で家族を守ってくれたJuliette。戦後名誉も収入も途絶えて、給料も支払えなくなったと告げた時もJulietteはこう言った。
「奥様、もし私が今出ていったら、誰がお子様達をお守りするんですか」
そう言って不幸を共にすることを表明してくれた。
AnneもMarieも愛の壁に守られて幼い日々を過ごしたと語っている。1937年からいたとすれば、AnneにとってはこのJulietteの存在は非常に大きかっただろうと思われる。AnneはJulietteが彼女を抱いて歌を歌って、暗く落ち込んだ家族を励ましてくれたのを忘れない。(母は病から半身不随になっていたのだった。また天使のようにハンサムだった2番目の兄Paulも後に1962年に病死した。)「
Tout va bien Madame la Marquise」等を歌ってくれたと言っている。(この歌は現代でもフランス人なら誰でも歌える、昔からの歌で最近もある政治の場面で政治家達によって合唱された。)Anneが子供の歌を歌う原点は、このあたりにあるのかもしれない。人生を乗り越え、歌手になり、作家になった姉妹にとって、Julietteの果たした役割は大きい。

最後にMarieはAnneに今度はAnneが父のこと、家族のことをAnneの視点で書くように勧めている。Anneの視点でしか書けない8年間が存在する。MarieにはAnneの苦しみの大きさが、いまこそより深くわかるのだろう。

Marie Chaixの著作を読まずして彼女達の父親、Albert Beugras氏について言及することは、避けたいと考えている。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


参照1:Marie Chaix 
(この資料にNadine Laïkが登場する。Marie Chaixの幼友達として子供の頃のMarie Chaixを細身の美人で、クラスメイトに一目置かれる存在だったと証言している。Nadine Laïkは2年先にBarbaraの秘書になっている人物だ。この人やAnneを通してMarie Chaixの存在をBarbaraはかなり身近に知っていたのだろう。ところでこのNadine Laïkも有能なマネージャーであり、作家であり作詞家でもあったようだ。Marie Chaixをスカウトしたのは、Nadine Laïkの推薦でもあったのだろうか。Nadine Laïk、今後調査の必要ありだ)
参照2:
Radio Canada Anne Interview 5本 :
参照3:
Valerie & Marie parlent de Barbara 過去記事より一部再録

Anne Sylvestre & Marie Chaix (4)

BarbaraとAnne Sylvestreはデビューの時期が近いので、同じホールに出ていたり、同じツアーに出ていたりしている。Marie ChaixはBarbaraの秘書をしていたのだから、二姉妹共Barbaraと非常に親しく接していた人物だ。二人がコラボの子供と知った時、私自身にも驚きであった。Barbaraはいつ頃これを知り、その後彼女達にどういう接し方をしたのだろうか。そもそもBarbaraは、どうしてMarie Chaixを自分の秘書にスカウトしたのだろうか。(自分から近づき「あなたは私が嫌いかもしれないけれど」という前置きをしてBarbaraはスカウトしている。)謎は多い。Barbaraの元秘書が後に作家になってKey Westに住んでいると知った時、やはり驚きであった。どんな作品を書いて、秘書から作家に転身したのか、には考えは及ばなかった。今回この謎だけは解明できたが。

Valerie LehouxとMarie Chaixの二人は去年のBarbara10周年のラジオやTV番組のほとんどに出演していた。Barbaraの人となりを知るための情報の過半数は元秘書のこのMarie Chaixの発言から出ていると言っても過言ではないだろう。次第に書き込んでいこうとは思っているが、まだ何も紹介していない。夜中に水を持ってこいと叩き起こされた話から「Mon Enfance」の成立過程の目撃談、TV番組では、日向に座ったBarbaraに、その横にただじっと立って日傘を差し出し続けているMarie Chaixの写真が紹介されていたこともある。まるでマハラジャのようなBarbaraである。「Barbaraはカップルを見たら必ずその男性の方を自分のものにしようとする」等と言う理解しかねる爆弾発言もあった。すべて調査をし尽くしてからしか書けないものばかりである。
ただ「あなたにとってのBarbaraは?」という質問にMarie Chaixはいつも感極まった声でこう言う。「私をつくった方です。Barbaraのおかげで人生を歩み、いかに生きるかをすべて学びました」と。
「黒い鷲」で大ブレイクするまで上昇し続けたBarbaraに、引っ張られるようにBarbaraと共に自分の人生を見出していったMarie Chaix。今のMarie Chaixが昔のMarie Chaixを取り戻すのは、昔のBarbaraを語るときだけなのではないだろうか。あの作品を書いたことで自分の人生が大きく今に向かって動き出したとMarie Chaixが語るあの作品を、コラボの父のこと、その家族のこと、それまでの人生の重荷を、書いて解き放つように最も早い時期に勧めたのが、Barbaraであったことが、今回初めて明らかになった。Barbaraがいなければ、今の自分はないとMarie Chaixが言うのも決して誇張ではないことがわかる。(続く)
・・・・・・・・・・・・・・・

参照:過去記事:BarbaraとMarie Chaix:
参照:
Anne Sylvestre My Space
参照:
Anne Sylvestre Daily Motion
Anne Sylvestreのすべてが詰まっているMusic Me
Anne Sylvestre Biography:
二人の父:
Albert Beugras

//////////////
これはCorrespondances 2008年8月1日の記事をこちらに移動したものです。今回二人の父Albert Beugras氏の写真を未掲載にしました。

Anne Sylvestre & Marie Chaix (3)

今日は続きを入れようと、ながながと原稿を書いてきたのだけれど、急遽変更。臨時の記事を入れます。
BruxellesのArt blog「
Ceci n'est pas une pipe」の最新記事をご覧下さい。
ここに書いているようにこの類まれなるArtistとBarbaraが意外にも繋がることになった。

これはMarie Chiaxの資料
Je suis Marie Chiax」のような書き方で
彼女のこといが非常に詳しく書かれている。
(Jean-Francois Chiax氏と結婚してEmilieとLeonoreという娘がいる。現在はCesarと言う孫もいる。最初の本は1974年に出版された。英語にも翻訳されることになり翻訳者から手紙をもらって1976年3月初めにParisで会った。ちょうど2冊目の本が出る頃だった。翻訳者とそのまま今に到るまで一緒に暮らしている。1992年には結婚もした。その彼こそが、Harry Mathews, Nikiの最初の夫である。〔
Barbaraに関する本は1986年に書いた。〕Barbara死亡時、Marie Chaixはインタビューをキイウエストで受けていたのはそのためだった。
Barbara死亡時MarieがBarbaraに捧げた詩の抜粋を
Music Cross Talkの過去記事から紹介:)

こちらが
Harry Mathewsの写真と紹介文:
多方面にわたる才人だと思われる。

資料:
HarryとMarieの出会い
Harry: 最初の出会いは1973年Watergate事件の頃だった。レストランでMarieと会った時、そこにBarbaraとRegineがいた。Marieは初めての本を仕上げたばかりだった。
Marie: 1976年最初の夫の家を出て、赤いVolkswagenを駆ってジェノヴァで待つアメリカ人の恋人のもとに走った。
去年のBarbara Daysに見たMarie Chiaxからは想像も出来ない話だが、(1)でアイスクリームを食べているこのMaria Schneider似の女の子の未来にはあり得そうな事実だ。

この記事はCorrespondances(2008年7月31日)からこちらに移転したものです。

・・・・・追記:2011年4月16日・・・・・
Harry Mathewsについての追記
Harry MathewsはNIKIほど日本においての知名度はないが、かなりの才人のようだ。
My Life In CIA by Harry Mathews
The Novelist Who Was Also a Spy, or Not
Harry Mathews, The Art of Fiction No. 191
Inetrview Harry Mathews
Harry Mathews 〇MARIE CHAIX

Videos: Marie Chaix

Anne Sylvestre & Marie Chaix (2)

Anne & Marie

姉は戦前1934年に、妹はその8年後、ドイツ支配下の時代に生まれた。現在前者は歌手、後者は作家である。妹のMarie ChaixはBarbaraに請われて秘書になっていたので、このサイトではその声も顔もすでに詳しく紹介している。今回TeleramaのValerie Lehouxがこの二姉妹をゲストに迎え、彼女達の子供時代の閉ざされた胸の内を開かせてゆく。昔Sabineに教えて貰った歌手Anne Sylvestreも上の写真からわかるように現在74歳となっている。前回彼女達の父親がコラボだったと書いたが、コラボとはわかりやすく言えば、対独協力者のことだ。二姉妹そろって、そのことに関して口を開くのは、今回がはじめてである。


Marie Chaixは1974年の初めての出版本「Les Lauriers du lac de Constance」で父について、家族について明らかにしたが、Anne Sylvestreは最近までそのことを公にはしていなかった。


前回にも書いたが、父親はDoriotの右腕で、1944年にドイツに去り、連合軍のフランス解放の後は、例のFresnesの刑務所に収監された。二人には兄Jeanもいたが、父と行動を共にしており、連合軍の爆撃により行方不明になったままだ。
父がドイツに去った1944年、Marieはまだ2歳、Anneは10歳だった。
戦後Fresnesの刑務所に出かけたMarieは父を見て「Bonjour monsieur」と言った。Marieにとっては、鉄格子の向こうにいる人が父で、それ以前の父を知らない。Fresnesに行くことは遠足のような「お出かけ」だった。Anneには父の思い出も、父への愛情もありFresnesがどういう場所であるかも知っており「Fresnes」という言葉さえ、口にしないように注意を払った。8歳の隔たりは大きい。
後年Anneは作詞作曲をし、ギターで弾き語るシャンソン史上二人目の女性歌手となったが(一人目はNicole Louvier)Marieがペンを取るのはずっと遅い。1971年に母が死んでからだ。
毎週電車とバスを乗り継いでFresnesへお出かけしていたことから書き始めた。女友達に見せたら、続きを書くように励まされた。Anneには、勿論見せない。Anneを作品に書き込むわけにもいかないと思った。何も知らない自分の視点でしか書けない。2年間Marieは書き続けた。
最初の資料は父がFresnesで書き留めていたノートだ。母がMarieに与え、長年寝室のテイブルに置いてあったノートだ。それから数ヶ月間は図書館にこもって、書籍や記事やらを読んで、父のノートの確認をとった。最後にAnneに見せたら、Anneから長い手紙が来た。
「どうぞ。出版してかまいません。ひとつだけ、著者が私の妹だと言うことは言わないで下さい」と。
Anneは妹のすることに反対はしなかった。妹にはそうする権利も理由もある。その上Anneは歴史に弱く理解が及ばないから、自分には書けないのがわかっていた。子供の頃から言われていた。「政治に関わるな。政治が私達を不幸にしている」と。
AnneにはMarieのようにその問題をテーマにして書く能力はない。何も知らないMarieは父のしたこと、家族の状況を知るために資料を調べるが、Anneはその時代を生き、体験し、実はその後の世の中の心情も理解できているのだ。より深く。
、だから出版は容認したけれど、妹の本を見てAnneは恐怖に戦いた。パニックに陥った。自分の正体が暴かれるのではないかと感じた。Anneには思い出がある。心を許して告白した男の子に「僕は祖国を愛している」と言って捨てられた経験だ。それまで隠し遂せると思っていた自分がどんなに馬鹿だったことか。Marieと姉妹であることだけは、絶対に知られてはいけない。Anneは兄Jeanがいなくなったことに涙する権利もなかった。
子供にまで罪を着せるのは正しくない。がしかし、そう思うのが不当だとも思えない。戦争の被害者が苦しみ続ける限り、自分達は罪人であり続ける。Anneは、その思いから抜け出ることが出来ない。


上の写真をよく見よう。二人の表情が二人が過ごした戦後60数年間を物語っているように感じないだろうか。
・・・・・(続く)・・・・・

参照:Telerama : Valerie Lehoux

この記事はCorrespondances(2008年7月29日)からこちらに移転したものです。

Anne Sylvestre & Marie Chaix (1)

Anne et Marie

上の写真はAnne Sylvestre & Marie Chaix の姉妹
Boulevard Saint-Michel, en 1967に於ける珍しい写真。
PLANETE BARBARAでは元Barbaraの秘書にして作家のMarie Chaix(Anne Sylvestreの姉妹)については、かなり古くから紹介してきた。
先週Valerie LehouxがTeleramaにこの姉妹を呼んで長いインタビューを行った。
タイトルは「Marie Chaix et Anne Sylvestre, deux sœurs et un secret d'enfance」と「Entretien croisé : Marie Chaix - Anne Sylvestre」 2日間にわたる番組だと思われる。Valerie Lehouxが二人から話を聞きだす1時間46分37秒もの長い音声を入手した。1時間以上PCの前に座ってじっと聞くのはかなり不健康だ。それでも聞きたい人のために、ここにMP3でファイルを置く。music stickでお楽しみください。
Entretien croisé :
Marie Chaix - Anne Sylvestre 
par Valerie Lehoux 1:46:37
歌手としてのAnne Sylvestreのファンの方には
今までほとんど情報のなかった
Anne Sylvestreに関して多くのことがわかるだろう。

・・・・・・・・・
姉妹の父はプロNaziの
Jacques Doriot の右腕
いわゆるコラボだった。
Marie Chaixは作品の中でそれを明らかにしたが
Anne SylvestreはMarie Chaixの姉であることさえ
秘匿してきた。
「deux sœurs et un secret d'enfance」はそのことを指す。
Jacques Doriotを知らない政治音痴の人は
この辺には口を挿まない方がよいだろう。・・・
Anne  Sylvestreはギターで自作を歌う彼女のスタイルを
 Nicole Louvierから思いついたと言っている。
Barbaraも言っているが自作自演でシャンソンを歌う
女性歌手は当時Nicole Louvier, Anne Sylvestre
そして自作を歌いはじめたBarbaraの3人だけだった。
・・・・・・・・・・・・・・
この夏少し時間があれば、この1時間46分37秒の
インタビューを簡潔に要約して
この記事の追記を書きたいと思っている。
Barbaraの去年の放送で
Valerie Lehouxの声、Marie Chaixの声は
判明できるので、各発言者が誰であるかは
もう誰にでもわかるだろう

この記事はCorrespondances(2008年7月24日)からこちらに移転したものです。

Quel Joli temps (Sous le sables)

Sous le sable (2001) von François Ozon
Quel Joli Temps : Barbara
 dans Sous le sable (2001)

J'ai peur, j'avance.

古いnotebooksを整理していると、こんなメモに出会った。
 Un soir, je descends dans la rue pour me prostituer. Ce n'est pas le malheur, le grand malheur; mais c'est un grand chagrin.(...)
 Enfin bref, me voila sur le boulevard Anspach.
 J'ai peur, j'avance.
 J'avance, j'ai peur.
 J'ai peur, mais j'avance quand meme, chantera Lily-Passion en 1986.
 Il pleut; j'ai faim, j'avance.(...)
 Ce n'est pas possible que ce soit moi, ce soir-la, qui marche sur le boulevard Anspach !(...)
 Il faut du courage pour se prostituer, je n'ai pas ce courage-la.
(Barbara "Il etait un piano oir..." Fayard 1998, p.77&78)
BarbaraがAnspach通りに降りていって売春をしようと試みる場面の抜書きだ。
怖い、でも進む。
進む、けど怖い。
斜体の部分では、この心境を1986年のLily PassionでそのままLilyに歌わせたと書いている。Anspach通りの思い出が、こんなところによみがえって残っている。
・・・・・・・・・・・・
Lily PassionではDavid (Gérard Depardieu)にPrudenceのことをその名前を出して語らせている。PrudenceはBarbaraが下宿させて貰っていた家の女主人で以前は売春宿を経営していた。女の子がみんな去っていってやや痴呆気味で、年老いてひとり取り残された老婦人だ。BarbaraとClaudeの結婚式の立会人にもなっている。結婚式の食事の費用はこの夫人が出してくれた。Barbaraは元売春婦のこのPrudenceが大好きなのだ。
Lily Passionだけではない。1970年の舞台「Madame」。Barbaraが演じたMadameは女の子が去ってしまって一人取り残された売春宿のMadame、言い換えればPrudenceそのものを自分自身にオーバーラップさせたのだった。(この売春宿の場所は北アフリカの都市。何故こんな場所がイメージできたのだろうと初めは不可解だったが、これはコートジボワールのアビジャンでの思い出を嵌め込んでいるのだろうと、後に納得できた。)舞台の主人公にPrudenceをイメージしたいほどの、一体何をBarbaraはPrudenceに見出していたのだろうか。

Anspach通りでBarbaraはまずMadame Dussequeを思い出す。声楽の先生達は私を探しているだろうか?誰にも何も連絡せずに、Barbaraは家出してきたのだから。
このAnspach通りの部分はいつか全訳を試みたいと思っている。
古いnotebookに少し抜書きしていたのは、いつかこれをテーマにBarbara論を書こうと思っていたからだろう。
P.77にはこうも書いてある。
Etre petite soeur d'amour, chanter, prendre le voile, tout ca, c'est du pareil au meme.
(売春婦であること、歌うこと、修道女になること、全部方向性は同じだ)
これはインタビューでもよく言っている。甚だ意味が不明だ。
この辺がよく理解できた時に新しいBarbara論をArticleに入れようと思っていたのだろう。
Barbara論のテーマはもうひとつある。社会活動参加について。特にエイズ撲滅活動とその予防・啓蒙活動については、まだほとんど、あえて触れていない。「コンドームを忘れないでね。(頭に被るもんじゃないわよ)」などと繰り返して叫ぶ、Barbaraにどうしても大きな抵抗を感じてしまうからだ。それだけではない。コンサート会場の大きな籠に大量に入れて(無料配布されるために)置いてあるコンドームについても、一切触れないできた。
Barbaraが愛についてどういう哲学を持ってたのか、を究明できればいつか書こうとするBarbara論の二つのテーマは実は、おそらく重なる筈だ。


偶然見つけたメモによる感想を少し書いてみた。
第二番目のBarbara論がArticleに登場するのは、残念ながらまだまだ随分先のことになるだろう。

Nicolas BatailleとBarbaraの交友

Nocolas

副題: または「Veuve de GuerreとGare de Lyonの背景」

・・・・・・・
大昔NHKTVフランス語講座に出ていたNicolas BatailleとLes amis de BARBARAにたびたび登場するNicolas Batailleが同一人物かどうかの確認に随分時間を要した。
・・・・・・・・
当時NHKTVフランス語講座は、ソシュールを日本に紹介した丸山圭三郎(私Bruxellesは自分の言語哲学論「言葉と存在ー純粋抽象の極限」等を丸山圭三郎先生にお読みいただいて「感動した」というお言葉をいただいている)と
イオネスコを世界に紹介したNicolas Batailleがダブル講師という、今から思えばなんと贅沢な番組だったんだろう!
Bruxelles所有の当時の音声教材から:Charles Baudelaire作
Nicolas Bataille朗読:L'invitation au voyage廣田大地氏の訳
・・・・・・・・
そう言えばの話だけれど、1978年日本発売のオランピア・ライヴ・コレクションーバルバラというLPの解説には永瀧達治、村松英子、そしてニコラ・バタイユ3人の文章がある。

・・・・・・・・・   ・・・・・・・・ ・・・・・・・・・
Les amis de BARBARA 2008年夏No.34にはHuchette座の舞台監督であるGonzague Phelip氏の著作「
Le Fabuleux roman au Theatre de la Huchette」についてのBernard Merle氏の紹介文が掲載されている。

Huchette座が大当たりをとったのは1957年2月16日から始まった
Eugene IonescoのLa leconとLa cantatirice chauve上演されてからだ。Paif, Sophia Loren, Luis Bunuel, Gerard Philipe等など著名人が多数24 rue de la Huchetteにつめかけた。
1年後の1958年2月16日、一座はHuchette座から歩いて数歩のL'Ecluseに集まり記念Partyを行った。そこで一座のNicolas Bataille,Marcel CuvelierとL'Ecluseに入ったばかりのBarbaraが出会う。駆け出しのBarbaraは出番待ちの居場所の無さを感じたときは、暖を取るためにHuchette座の楽屋を訪れていた。俳優だったMarcel CuvelierがBarbaraに自作の「Veuve de guerre(戦争未亡人)」を与えたのはこの時だ。
(注:Marcel CuvelierがL'Ecluseにオーディションに行って落ちたが、Barbaraがこの曲を気に入って歌いたいと申し出た、という資料もある)
Barbaraは1958年3月25日に早速この曲を録音している。L'Ecluseに正式に雇用されてからわずか3ヶ月後のことである。(当時この歌はその歌詞内容の不道徳性ゆえ?ラジオでの放送を禁止されていた!)
そのMarcel Cuvelierが証言している。
Nicolas BatailleとBarbaraはとてもいい友達だった。ある日Gilbert SommierのMardis de la Chanson(Capucines劇場にて)を2回終えた頃、二人は散歩していてこんな会話をしたんだ。
「旅行でもする? Gare de Lyon(リヨン駅)に行ってみようか」そしてその後で「Barbaraはあの曲を作ったんだ」
二人の交友についてはTreteaux  de Parisの支配人Jean de Rigaultも追認している。彼はNicolas Batailleと二人でBarbaraのコンサートを追ってベルギーに行ったことを憶えている。コンサートの後の夜食の席で興に乗ったNicolasがBarbaraにオペレッタをしようと申し出た。Barbaraは終始楽しそうに笑っていて、それは3人のとても楽しい思い出になった。Nicolas BatailleとParisに戻って、Barbaraって本当に楽しい人だねって、ひとしきり彼女のことばかり二人で話した。
・・・・ ・・・・
肝心のNicolas Batailleは先に書いたLPの解説にも、そう言ったBarbaraとの個人的な思いでは一切書いていない。その後ほどなく彼は日本に来て生活の場所を変え、彼女の方は大スターへの道をまっすぐにのぼりつめたからだろうか。何れにせよ駆け出しのBarbaraはイオネスコの「禿の女歌手」という不条理演劇発信の世界の中心であのNicolas Batailleと出会い友情の華を咲かせていたという事実は、Barbara Siteとしては、大いなる発見であった。


//////////////////

演劇に興味のある方に:参照
当時演劇界の話題を独占していた
ベケットとイオネスコに関するエッセイ
イオネスコ寺山修二や唐十郎など日本のアングラ劇団にも大きな影響を与えたものと思われる。それを裏付けるかのように、こちらの生涯藝術三昧のペイジには、日本でのユシェット座写真展会場に於ける寺山修二と、演出家のNicolas Batailleの写真がある。
(余談)
ルーマニア人の私の友人Carmenが「イオネスコとかチャウチェスクとか、最後にスコとかスクとかつくのはルーマニア人の名前に多い」と言った、のを今ふと思い出した。
京都でフランス語を学んでいた昔、教師のJean Claude Rossigne先生が私のめがねを見て(お金が無かったので、片方割れたレンズに緑色のビニールテイプを貼って、そのままかけていた)「イオネスコ風だ」とおっしゃった。未だにその意味はわからない。誰か教えて!
当時、いつも「シュールレアリズム宣言」を小脇に抱え、親友はサルトルのつもりで、頭の中は言語哲学で行き詰まっていて、好みはAmerican Pop ArtとContemporary  Danceで、出かけるコンサートは実験的な現代音楽、好きなのはモダンジャズなのに聞くレコードはフリージャズばかりでかなりお疲れ、「霞を喰って非日常を生きている」といわれたのは、Barbaraの「黒い鷲」の噂を帰国した留学生達からちらほらと聞くようになる、およそ1年弱前の私の姿です。
当時の特技は長~い一呼吸の詩を書くこと。

 

Jacques Serfの行方と心情 (2)

Nantesの街角の喫茶店で四人の男達とBarbaraは会う。
「彼は、家族に捨てられたのだと言ってましたよ」
「それは違います。父が私達を捨てたのです」・・・
この違いは何処から来るのだろう。本心では家族と離れたくは無かった。しかし居辛くなった、と言うことだろうか。
NantesでBarbaraは父Jacquesの最後の世話をしたというシスターにも会う。
「お約束ですから、何も申し上げられません」とシスターは言う。
おそらく父Jacquesは彼の罪をこのシスターに懺悔してこの世を旅立ったのだろう。


歌詞では父は娘に会いたがっているが、実際は誰にも連絡してくれるなと、誰にも何も言ってくれるなと、言い残している。
Barbaraは「あなたを許します」と父に言えなかったことを悔いているが、父はそんな言葉を露ほども欲していなかっただろう。
父は一人で、共同墓地に一輪の献花もなく葬られる。それこそ父Jacquesが望んだことだと私には思われる。
生前娘に異様に執着した男であればこそ、それが男にとっても、娘にとっても理想の死に方だった筈だ。

TVの中に歌手として出演している娘を見て、思わず「あれは、オレの娘だ!」と叫んでいる男の心情を想像してみよう。
この喜びとバランスを取るためには、自分が転落し惨めに死ぬ以外に、人生を完結する方法は無いと、おそらく彼は知っていたのだろう。それが彼の懺悔であり、最後の唯一の祈りであった筈だ。
そしてその死を、さらに完璧にするために、Barbaraはたった一人で父の死を背負おうとする。
これ以上の愛情表現が他にあるだろうか。
人が人生を完結させるためには、その死を背負ってくれる生者の存在、生者の側の愛、生者の肩が、必要なのだ。
この父と娘の心情は、当人さへ感知できないほど深い部分で、実は呼応し続けている。
それが無ければ、少なくとも名曲Nantesは決して誕生しなかった筈だ。

Written by Bruxelles
参照: 「Barbara」 par Valerie Lehoux P.48~P.50
参照: 「Nantesの成立過程」-PLANETE BARBARA

Jacques Serfの行方と心情 (1)

家に一人でいる時に突然ナントの病院から電話がかかってきたことは以前に書いた。
姿を消して10年。
父にレンタルしてもらったピアノの費用も支払えなくなり、業者が引き取りに来た。身体の一部をもぎ取られた思いだったとBarbaraは書いていた。
父をなくしピアノを無くし、未来を描けなくなったBarbaraは、一人ベルギーへ、Bruxellesへ、家出を決行した。
喰うや喰わずの生活の後、一時は街で身体を売ろうと決心して歩き回ったこともあった。後を付けまわして来た男、最初の客になりかけた男が、偶然、人間の心を目覚めさせて話を聞き、空腹のBarbaraに食事とお金を与えてくれた。
Barbaraは娼婦に対して非常に強い理解を示している。(愛の行為に対してBarbaraは独自の思考があるので、詳しくは別の機会に書いてみたい。)
おそらくこの時の経験が(彼女達)の側にBarbaraを引き寄せているからだろう。
家出少女は父が放浪している10年の間に既に歌手になっていた。

さて、今日の最初の調査はBarbaraは父がNantesにいることを、前から既に知っていたかどうか、だ。

一家はRue Vitruveに暮らしていた。ある日父Jacquesは職を無くしふさぎ込むようになる。母Estherは最愛の母を亡くしまだ悲しみに浸っていた。夫婦間に引き返せない亀裂が生じていた。
1949年のある日、父Jacquesは突然姿を消した。
どこへ行ったのだろう。

戦時中一時一家がいた、Saint-MarcellinのホテルServeにJacquesは現れる。1950年のことだ。ロイヤルゼリーのセイルスマンをしているということだった。
Madame Serveの証言: 1日、1日半、このホテルにいました。お金は全く持っていませんでした。少し都合してさし上げました。本当に貧窮しておられたので。とても悲しそうで酷い状態でした。「ひとりぼっちになった」と言っていました。どうしてそうなったのか質問しませんでした。ー
(ホテルServeに関して:スター歌手になったBarbaraも、ツアーの途中、ある日遠回りして、運転手と秘書をメルセデスに待たせたまま、ひとりでこのホテルServeを訪れる。「私よ、Moniqueよ、ここにいたMoniqueよ」とMadame Serveに叫ぶ。詳しいことは「Mon Enfanceの成立過程」としていつか記事にしようと思っている。)

父JacquesはNantesには数ヵ月後に現れる。証言者により、浮浪者のようだったとも、港湾労働者のようだったとも、船会社の会計係だったとも言われている。
Nantesに於いてもすぐに友人を見つける。毎晩ポーカーをするあの男達だ。Jacquesは友人達から「Monseigneur(大将)」の愛称で呼ばれていた。Jacquesは立派な押し出しを持ち、尊敬される品位を身につけていたのだろう。
Barbara自身は父がNantesにいることを知らなかったと言っている。そんなことは無い、とSophie Makhnoは否定する。
Sophie Makhnoの証言: 全くの偶然があって、実はBarbaraは父の居所を知ったのです。Pathe-Marconi(レコード会社)の社員がナントの港にある店で一杯飲んでいたんです。そしたら店のTVにBarbaraが映ったんです。その時、店の中にいた男が「あれは、オレの娘だ!」と言ったんです。その社員がBarbaraにお父さんの居所を教えたんですよ。勿論その日からBarbaraはその社員と口をききませんでしたよ。ー

では次は、Barbaraはいなくなった筈の父に、再度会ったのかどうか?


これは以前にどこかに書いたと思うが、
Hubert Ballayの証言: 50年代の終わりに僕達はよくデイトしました。その当時彼女はお父さんのことばかり言っていました。お父さんがいなくなった後、何度も父親を家の近くの野外ベンチで見かけたと言っていました。既に変わり果てていたので、彼女以外の家族は、父を見ても、誰も父だと気づくことは無かった、と言っていました。ー
もう一人は
、今回Valerieの「Barbara」で初めて証言したJacques Vynckier。(このJacques Vynckierは例の「Atelier 1954」を、新発売されたばかりのアメリカ製テイプレコーダーで録音していて、Barbara最古の歌声を、去年CD化することに尽力した当人だ。)
Jacques Vynckierの証言: 1954年か1955年だったと思う。ParisのSaint-Michel通りをBarbaraと食事に行こうと静かに歩いていました。いきなり彼女が私の腕をとり私の影に隠れようとするんです。完全に怯えていて「私を隠して、私を隠して。顔をあわせたくない人がいるの」と言って。もうショック状態で、それまでそしてその後もこんなに取り乱したBarbaraを見たことはありません。しばらくして言いました。「お父さんなのよ。あれが」
私は何も質問しませんでした。ー


(続く)

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