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L’atelier: Bruxelles 1954 (3)

Marcel Hastir 1954

画家Marcel Hastir氏は現在100歳を超えている。1937年以来彼のアトリエは若いアーティスト達の発表の場となっている。なんと70年を越える劇場である。若手日本人アーティストの中には、この場でコンサートを行った人も何人かいる筈だ。演目に関する規制は無い。1998年からは、2年毎に賞金2000ユーロのMarcel Hastir賞も制定されている。作曲家に与えられるこの賞に応募するには、国籍や年齢に関する制限は無い。作品演奏時間12分から20分までの弦楽四重奏曲が応募の対象となっている。


ただ逃げたかったためにBruxellesに行ったBarbaraに、友人も知人も、そして何かの当てがあったわけではない。最初のBruxelles行きは、八方塞がりの、絶望の果ての、どん底の”家出”なのだった。2度目のBruxellesでさまざまな才能や重要人物との、人生の第一転換とも言える出会いがあり、、幸運が重なって、しかも織物のように運命の糸が絡み合って、半世紀と数年を経て、2007年のCD「A L'Atelier Barbara 1954」が完成した。つまり歌手Barbara, une femme qui chante,の埋もれてもはや存在しないも同然だった原点が、夜のような雲を引き裂いて、物理的にCDという形をかりて立ち現れた、と言えるだろう。


Les Amis de Barbaraでは当初からBarbaraの人生を追調査するという目的のひとつを持っていた。数年前から現地、この場合はBruxellesに飛んで様様なインタビューや資料収集を独自に行っている。
会報18号(2004年夏号)では、このL'Atelierの主、Marcel Hastir氏をそのL'Atelierに訪ねてMarie Avilesがインタビューを試みている。


「僕のアトリエでのコンサートにいつも来ていた医者がいたんだ。その医者と知り合いになってね。彼の家の近くに若い女の子が住んでいて、確かポーランドかユーゴスラビアから来た子だったかなぁ」
「遠くから来た子で仕事を探していた。で、その医者が彼女を掃除や整理係に雇ったんだ。Sluysの家には実験室があった。彼は癌の専門医でね、本当にその実験器具を洗ったりする使用人が必要だったんだ。その子はとても感じのいい子で、住み込むようになって、実験室の整理整頓をしていた。つまりは、そうして医者の手伝いをしていたから、看護婦みたいな仕事にありついたわけだね」
「その子はね、ある特徴があって。ここにコンサートを聞きにやってきた医者が、ある日こう言ったんだ。『変わった子だよ、あの子。一日中ずっと歌を歌ってるんだよ』ってね。歌ばかり歌っている子で、声もいいのなら、このアトリエでその子のために何か企画してあげてもいいね、ってその医者に言ったんだ」
ーM.A.「じゃあ、此処での彼女のコンサートはあなたが言い出したんですか」ー
「そうそう。で彼が『じゃ、そうしようか』って言った。すんなり決まったよ。で、ある日僕が彼女に会いに行って彼女が歌うのを聞いた。彼女の部屋、つまり彼の実験室に行ったんだ。彼女はこんな風に歌った...。黙って聞いて、いける、と思った。とても素晴らしい声を持っていたからね。それで、リサイタルの準備をすることにしたんだ。パリにFerrierresと言う奴がいて、そいつはこういうシャンソンのリサイタルの準備の専門家でね、彼が準備万端、手筈を整えた。そのFerrieresをパリからブリュッセルに呼び寄せて、彼はここに一ヶ月いた。その一ヶ月間女の子も、ここに毎日やって来て彼と一緒にリハーサルやら何やらしたんだ。選曲やら曲順やらプログラムづくりやら。そして成功した。そうだね、その一ヶ月
の間に、その女の子はその医者の息子と恋に落ちたんだよ」

ーM.A.「クロードですか」-
「そうだ。それで、その女の子と彼の息子は結婚した。その後二人でパリに行ってしまった。息子はプロデューサーみたいになってね。彼は、彼女のために何か役立ちたかったんだよ。でもプロデューサーとして彼はいい仕事人とは言えなかった。とっても心の優しい子でね。彼女のプロデューサーとしては、ふさわしくなかった。二人は仲違いして、そして別れた。彼女だけParisに残った。彼女は、そうだね、早かったよ、その後すぐに成功したよ」
ーM.A.「Barbaraの思い出は、特に何かお持ちですか」ー
「大きな髪の黒い美人だったね。私の妻ともとても仲がよかった。本当に仲が良くて小さなビストロでOrval(ベルギービール)を飲むために二人でよく出かけたよ。彼女はそれが好きだったんだ。なんでもかんでもしゃべってたよ。ここで準備や練習をしていた頃、夕方になると時々ね、みんなで、ちょっとお出かけしたりしてね。短かったよ、そういう時期は。彼女はParisに行ってその続きをしたんだろうね。Bruxellesには戻らなかったんだからね」
ーM.A.「戻ってますよ。Bruxellesに」-
「そうだね。でも彼女はParisを選んで、そこで歌手としての生活を続けていった。いつも、彼女には才能があると思っていたよ。その才能は開いていった。でも一番最後には、ついに声がつぶれてしまっていたね。その後は声は元に戻らなかった。自分の作品を歌うことに関しては、特別な才能があった。知性もとりわけ、優れている娘だったね、彼女は」
ーM.A.「連絡はずっと取りあっていたのですか」ー
「いいや、Parisに去って、それからそのままになった。例外として一日だけ彼女はBruxellesに戻って来て、パレ・デ・ボザールでリサイタルをしたね」
「パレ・デ・ボザールは普通は流行歌のコンサートはしないし、厳しい演目の選択をするところなんだ。Barbaraは例外だった。Barbaraを例外的に暖かく無条件で迎え入れた。やってきた彼女も立派だった。こんなことを言ったんだよ。『親愛なる皆様、私はここに来ました。それも私をあのアトリエで歌わせてくださったHastir御夫妻のおかげです。歌手としてBruxellesに戻ってきてこの大劇場に立てるのは、あの時のご夫妻のお力添えのおかげです』と。優しいことを言ってくれたね。」
ーM.A.「そうですね。でも本当に彼女の成功の最初のきっかけをつくったのは、あなた、Hastirさんなのですね」ー
「そうだね」
ーM.A.「アトリエでは20曲ほど歌ったんですね」-
「そうだね。たくさん歌ったね。Ferrieres氏とMon pote le Gitanを何度も練習していたよ。素晴らしい歌手だとずっと思っていたよ。うん、素晴らしい女の子だったよ。あの子はね、ちょっと変わっていて、一人の時は全く一人なんだ。人々と共に生きるという生き方をしなかったね。...ホールを見せましょうか」


Marie AvilesはMarcel Hastirとのインタビューの後、会場に行きピアノ、座席、楽屋などを見ている。Marcel Hastirに会い、Barbaraの話を聞き、その思い出のAtelierを見て彼女がどれほど感動したか、私には良くわかる。しかし、この出会いがCD「A L'Atelier Barbara 1954」のスタートになるとは、この時まだ誰も知らない。

Marcel Hastirのアトリエでは2004年のこのインタビューの少し前には、Amnesty Internationalの支援の元BIRMANIE Ce que cachent les pagodasと言うミャンマーの亡命者や政治囚救済のための集いを行っている。ここはレジスタンスの時代から多くの政治的被害者をかくまってきた砦でもある。

参考資料  : Les amis de Barbara 会報 
2004年夏、第18号
L’atelier: Bruxelles 1954 : PLANETE BARBARA 過去記事
・・・・・・・L’atelier: Bruxelles 1954 (3) par Bruxelles・・・・・・・


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追記: 4月10日
2005年にTV放映されたChristian Mesnilの Les chemins de Barbara を見ていたらMarcel HastirのL'Atelierの内部が映し出されていた。それだけでなくMarcel HastirがBarbaraを語る映像も流れたので吃驚した。このLes chemins de BarbaraはBarbaraの生前からすでに企画されていたが、Barbaraが自伝を書いてからと希望したので、着手がストップしていた。Barbaraが突然死したのでChristian Mesnilは、改めてBarbaraの兄Jean Serfに許可を取らなければならなくなった。その辺のことはまた機会を改めて「Les chemins de Barbara」について触れる時に詳しく書いてみたい。


追記: 4月11日
この辺が追調査の難しいところだが、ClaudeとBarbaraの出会いに関して、Marcel Hastirの発言と正統と判断されている資料の間に幾分食い違いがある。BarbaraとClaudeは1953年に既に結婚しているのだ。
この初めてのリサイタルでBarbaraはBrelのSur la placeを歌っているが、1954年、つまり同年のこれより少し前にBarbaraはBrelと初めて出合って、そしてこのSur la placeをBrel自身から「もらって」いる。1954年1955年と言う年は「Chaval Blanc」閉鎖後、ClaudeとBarbaraがParisとBruxellesをしきりに行ったり来たりする慌しい時期なのだ。
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この記事はBlog Correspondances(2008-04-09),にBruxellesが記入したものをこちらに移動したものです。


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