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誤解を解く : Barbaraカルト情報

日本語のシャンソンに関する本は一通り読んだつもりでいたがN氏に送っていただいた資料は印刷物に限定しても2倍はあった。Barbaraに関しては読み返してみてどうしても間違いが目についてしまう。それだけ、これまでほとんど情報がなかったということだろう。
例としてあげれば、1988年来日時のパンフレットの略歴。「母は強制収容所で死んだ」という記述はあまりにも露骨な間違いだと言わねばならない。また同パンフレットの巻頭記事「バルバラと同時代に生きる幸せ」には「小さなカンタータは病死した友人との対話である」とある。病死ではなく自動車事故死だった。
葦原英了氏の「シャンソン手帖」(新宿書房)のP.255「パリではエクリューズという左岸のキャバレの皿洗いになった」とあるが一年間皿洗いをしたのはプレベール兄弟の店「La Fontaine des Quatre Saisons」であってエクリューズではない。また父の職業は多分旅回りの芸人であったろう、とあるがこのように全く推量で書かれた部分もある。父親は革および毛皮製品の販売をしていた。
これらのことは「Il etait un piano noir...」を訳出する過程でこのBLOGでは指摘済みである。

今日気づいたのはもうひとつの新たな違いだ。永田文夫氏の「シャンソン」(誠文堂新光社)P.311をはじめあちこちの記述に見られるが「母はオデッサの人だった」に関して。それを読んでいたので私もオデッサと思い込んでいた。
最近ウクライナの政治史を調べていく過程で新しく「世界地図帳」を買った。それを見るとオデッサはウクライナで、それではBarbaraの祖先は今ではウクライナ人ということかと思って確認のために「Il etait un piano noir...」をチェックしてみた。P.19「祖母も母もMoldavieのTiraspolで生まれた」とあった。Tiraspolはウクライナとの国境に近い都市で、その正式国名はモルドバ共和国。昔はどちらもソ連であったことに変わりはないが、TiraspolとOdesaは全く別の都市だ。
(Tiraspolでは日本人にわかりにくいと思ってBarbara自身がOdesaと説明したのかも知れないが。Odesaはどんな簡略地図にも出ているから)

「Il etait un piano noir...」には祖母が同胞のご婦人たちとロシア語で話しに興じる場面がある。たっぷりとロシア文化を身につけていた大好きだった祖母にロシアの話をねだったり、クリスマスにお菓子をもらったりして甘えている。(どれほど祖母を好きだったかと言うと、死後2年間その死を受け入れることができず何度も祖母を幻視してその生を確信するほどだった。しかも祖母の死の数時間前、家に一人でいるときに近所の岩から発するうめくような祖母の声をはっきりと衝撃的に聞いている。Barbaraは母にその驚きを話している。予知だ。・・)
Barbaraが父親にレンタルピアノを与えられた時期がある。そのとき初めて母がピアノを上手に弾けることをBarbaraは発見して驚く。亡命前はピアノ教育を受けられる充分な環境に母はいたのだ。文化的で裕福なロシア人一家であったことがわかる。Brodsky家の人たちは元々はロシア革命でモルドバの地から西欧に弾き飛ばされた一家なのだ。
戦時中Barbara一家を守るために活躍するのがJeanneおばさんだ。この人は医者だったCamilleおじさんの未亡人で二人は長くアフリカに滞在していた経験がある。Camilleおじさんは亡くなる前にお金を残し(Barbaraら)姪や甥たちの教育に充分配慮するように言い残している。未亡人のこのJeanneおばさんは、男子だからと兄のJeanを極端に偏愛してBarbaraに随分不快な思いをさせるのだが。
これは私の記憶だが(未確認)この兄Jeanは叔母叔父の期待通り、医者になった筈だ。

祖母も父も母もJeanもClaudeもRegineもそしてBarbaraも戦勝の日を迎える。「Il eatit un piano noir...」P.41にBarbaraは書いている。1939年から1945年の逃走の日々が人生に苦痛を与えたわけではない。空腹に苛まれたことも一度もない。家族の誰一人黄色の★を手に刻印したこともないし、誰一人強制収容所に収容された者もいない。と。
ある日本語の資料によるとJeanもClaudeもRegineも全部ナチスに命をとられたと書いているものまである。Barbaraのペシミズムは幼い日のナチスのユダヤ狩りに起因すると言わんばかりに。
しかしBarbara一家はドイツに居たわけではない。フランスにはレジスタンスに参加した人たちも多いのだ。
そしてBarbaraはこう続けている。
Mes peurs et mes douleurs d'enfant, est-ce vraiment a guerre que je dois les imputer?
(私の子供時代の恐怖、私の子供時代の苦しみ、それらをあの戦争のせいにすべきなのだろうか?そうではない。)

これまで日本語で書かれてきた通り一遍のユダヤ人としての辛酸云々のBarbara解説をそろそろ見直すべき時が来たのではないだろうか。
「Il etait un piano noir...」以前のわずかな情報のみでBarbaraの人生を推測した文章などフランスにはもはや一遍もない。
(続く)

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