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L’atelier: Bruxelles 1954 (4)

Barbara not 1954.

2008-04-11記


Barbara à l’Atelier (publié par Les Greniers de la mémoire-France Musique et Le Chant du monde-Harmonia Mundi), enregistrement mythique du 1er octobre 1954, qui marque peut-être le tout début d’une vraie carrière. Ce jour-là, devant deux cents spectateurs tassés dans le vaste atelier du peintre Marcel Hastir à Bruxelles, elle gagne ses premières critiques de presse et son premier contrat discographique avec Decca-Belgique.

参照: Le Figaroの記事:2007年11月24日

L’atelier Bruxelles 1954 を紹介したLe Figaroの記事を探し出した。上はその抜粋。
この記事によると、かなり大きいMarcel Hastirのアトリエ、ぎっしり200人はいったようだ。1954年10月1日。ここにあるように翌日新聞記事に取り上げられた。Barbaraが初めてメディアに歌手として登場したことになる。(その報道記事も、リサイタルポスターも入手済み)そして客席にDecca-Belgiqueの関係者がいて、これをきっかけにレコード契約も整った。また11月にはAngèle Gullerのラジオ番組「 La vitrine aux chansons 」に招かれBarbaraはベルギーで初ラジオ出演を体験する。そして1955年の
レコード発売に合わせて、le Palais des Beaux-Arts de Bruxelles 、ブリュッセルの名門劇場への出演をはたす。Barbaraが言うようにL’atelier Marcel Hastirでのリサイタルは大きくBarbaraの歌手人生を浮上させる。

Ce n’est pas ce récital qui est enregistré par un de ses amis qui vient d’acheter un magnétophone à bande, mais son ultime répétition, au cours de l’après-midi. S’accompagnant au piano, elle interprète ses seize chansons
16曲の弾き語り、とある。レクリューズ時代でも下手だ下手だといっていたピアノをこの時期にすでに弾き語りをしていたのは驚きだ。とすればBarbaraに歌えるまでのピアノの手ほどきをしたのは、グルジア人のEthery Rouchadzeだということになる。前にも書いたが、録音はリサイタルそのものではなく、同日午後の最終リハーサル。録音は(1)で紹介したJacques Vynckier氏。彼はMarcel Hastirの生徒でもあった。自分の歌の反省材料にでもしようと思ったのか、Barbaraがリハーサルの録音を誰かにしてもらいたいとJacques Vynckier氏に依頼した。数日前にアメリカ製の前年に発売になったばかりのEkotape Websterというオープンリールのテープレコーダーを所持したJacques Vynckier氏、それをヨーロッパ仕様に電圧調整?して、急遽自分が録音係を引き受けることにした。録音がこのように全くの素人であること、そしてマイクがピアノの上に直接置かれていたこのなどが、声の歪の最も明らかな原因だと言える。(しかしCDでは、これを21世紀の録音技師プロのDjengo Hartlap氏がここまで出来るのかと思うほど修復してみせている)


Son répertoire est à l’époque très composite, mêlant les classiques intemporels (À Saint-Lazare d’Aristide Bruant, Madame Arthur d’Yvette Guilbert) et les succès du moment (Mon pote le gitan, Viens gosse de gosse), mais aussi des chansons originales... qui ne sont pas d’elle. «La Promenade» et «L’avenir est aux autres» sont l’œuvre d’Andrée Olga et de son mari Claude Sluys, fils de famille tenté par la poésie et la vie de bohème.
FigaroもLe Mondeも、結構こういうミスをする。Claude Sluysを夫と紹介しているのに、Andrée OlgaをBarbara自身と見抜けないなんて、フランスの評判の一般紙はBarbaraに関しては時々目を覆うほどいい加減だ。


Sur la place par Jacques Brel :


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2008-04-19 : 追記
「吃驚仰天」と言う言葉で、曙の結婚問題のときの高見山を思い出してしまった。とにかく吃驚仰天!
ーとすればBarbaraに歌えるまでのピアノの手ほどきをしたのは、グルジア人のEthery Rouchadzeだということになる。ー
と上の文中に書いている、そのEthery RouchadzeがNet上に顔出しで登場した。この情報は今日届いたLes amis de Barbaraの会報No.33から入手したもの。1952 BruxellesにおけるBarbaraを語る、当然のことながら、吃驚するほどのおばあさん!とても天才Pianisteだった女性とは思えない。(ただし若き日の面影はある)。
Le Expressのweb記事上にある。
LEXPRESS.fr du 20/11/2007
Rencontre avec
Ethery Rouchadzé, première pianiste de Barbara:


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この記事はBlog Correspondances(2008-04-19),にBruxellesが記入したものをこちらに移動したものです。

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L’atelier: Bruxelles 1954 (3)

Marcel Hastir 1954

画家Marcel Hastir氏は現在100歳を超えている。1937年以来彼のアトリエは若いアーティスト達の発表の場となっている。なんと70年を越える劇場である。若手日本人アーティストの中には、この場でコンサートを行った人も何人かいる筈だ。演目に関する規制は無い。1998年からは、2年毎に賞金2000ユーロのMarcel Hastir賞も制定されている。作曲家に与えられるこの賞に応募するには、国籍や年齢に関する制限は無い。作品演奏時間12分から20分までの弦楽四重奏曲が応募の対象となっている。


ただ逃げたかったためにBruxellesに行ったBarbaraに、友人も知人も、そして何かの当てがあったわけではない。最初のBruxelles行きは、八方塞がりの、絶望の果ての、どん底の”家出”なのだった。2度目のBruxellesでさまざまな才能や重要人物との、人生の第一転換とも言える出会いがあり、、幸運が重なって、しかも織物のように運命の糸が絡み合って、半世紀と数年を経て、2007年のCD「A L'Atelier Barbara 1954」が完成した。つまり歌手Barbara, une femme qui chante,の埋もれてもはや存在しないも同然だった原点が、夜のような雲を引き裂いて、物理的にCDという形をかりて立ち現れた、と言えるだろう。


Les Amis de Barbaraでは当初からBarbaraの人生を追調査するという目的のひとつを持っていた。数年前から現地、この場合はBruxellesに飛んで様様なインタビューや資料収集を独自に行っている。
会報18号(2004年夏号)では、このL'Atelierの主、Marcel Hastir氏をそのL'Atelierに訪ねてMarie Avilesがインタビューを試みている。


「僕のアトリエでのコンサートにいつも来ていた医者がいたんだ。その医者と知り合いになってね。彼の家の近くに若い女の子が住んでいて、確かポーランドかユーゴスラビアから来た子だったかなぁ」
「遠くから来た子で仕事を探していた。で、その医者が彼女を掃除や整理係に雇ったんだ。Sluysの家には実験室があった。彼は癌の専門医でね、本当にその実験器具を洗ったりする使用人が必要だったんだ。その子はとても感じのいい子で、住み込むようになって、実験室の整理整頓をしていた。つまりは、そうして医者の手伝いをしていたから、看護婦みたいな仕事にありついたわけだね」
「その子はね、ある特徴があって。ここにコンサートを聞きにやってきた医者が、ある日こう言ったんだ。『変わった子だよ、あの子。一日中ずっと歌を歌ってるんだよ』ってね。歌ばかり歌っている子で、声もいいのなら、このアトリエでその子のために何か企画してあげてもいいね、ってその医者に言ったんだ」
ーM.A.「じゃあ、此処での彼女のコンサートはあなたが言い出したんですか」ー
「そうそう。で彼が『じゃ、そうしようか』って言った。すんなり決まったよ。で、ある日僕が彼女に会いに行って彼女が歌うのを聞いた。彼女の部屋、つまり彼の実験室に行ったんだ。彼女はこんな風に歌った...。黙って聞いて、いける、と思った。とても素晴らしい声を持っていたからね。それで、リサイタルの準備をすることにしたんだ。パリにFerrierresと言う奴がいて、そいつはこういうシャンソンのリサイタルの準備の専門家でね、彼が準備万端、手筈を整えた。そのFerrieresをパリからブリュッセルに呼び寄せて、彼はここに一ヶ月いた。その一ヶ月間女の子も、ここに毎日やって来て彼と一緒にリハーサルやら何やらしたんだ。選曲やら曲順やらプログラムづくりやら。そして成功した。そうだね、その一ヶ月
の間に、その女の子はその医者の息子と恋に落ちたんだよ」

ーM.A.「クロードですか」-
「そうだ。それで、その女の子と彼の息子は結婚した。その後二人でパリに行ってしまった。息子はプロデューサーみたいになってね。彼は、彼女のために何か役立ちたかったんだよ。でもプロデューサーとして彼はいい仕事人とは言えなかった。とっても心の優しい子でね。彼女のプロデューサーとしては、ふさわしくなかった。二人は仲違いして、そして別れた。彼女だけParisに残った。彼女は、そうだね、早かったよ、その後すぐに成功したよ」
ーM.A.「Barbaraの思い出は、特に何かお持ちですか」ー
「大きな髪の黒い美人だったね。私の妻ともとても仲がよかった。本当に仲が良くて小さなビストロでOrval(ベルギービール)を飲むために二人でよく出かけたよ。彼女はそれが好きだったんだ。なんでもかんでもしゃべってたよ。ここで準備や練習をしていた頃、夕方になると時々ね、みんなで、ちょっとお出かけしたりしてね。短かったよ、そういう時期は。彼女はParisに行ってその続きをしたんだろうね。Bruxellesには戻らなかったんだからね」
ーM.A.「戻ってますよ。Bruxellesに」-
「そうだね。でも彼女はParisを選んで、そこで歌手としての生活を続けていった。いつも、彼女には才能があると思っていたよ。その才能は開いていった。でも一番最後には、ついに声がつぶれてしまっていたね。その後は声は元に戻らなかった。自分の作品を歌うことに関しては、特別な才能があった。知性もとりわけ、優れている娘だったね、彼女は」
ーM.A.「連絡はずっと取りあっていたのですか」ー
「いいや、Parisに去って、それからそのままになった。例外として一日だけ彼女はBruxellesに戻って来て、パレ・デ・ボザールでリサイタルをしたね」
「パレ・デ・ボザールは普通は流行歌のコンサートはしないし、厳しい演目の選択をするところなんだ。Barbaraは例外だった。Barbaraを例外的に暖かく無条件で迎え入れた。やってきた彼女も立派だった。こんなことを言ったんだよ。『親愛なる皆様、私はここに来ました。それも私をあのアトリエで歌わせてくださったHastir御夫妻のおかげです。歌手としてBruxellesに戻ってきてこの大劇場に立てるのは、あの時のご夫妻のお力添えのおかげです』と。優しいことを言ってくれたね。」
ーM.A.「そうですね。でも本当に彼女の成功の最初のきっかけをつくったのは、あなた、Hastirさんなのですね」ー
「そうだね」
ーM.A.「アトリエでは20曲ほど歌ったんですね」-
「そうだね。たくさん歌ったね。Ferrieres氏とMon pote le Gitanを何度も練習していたよ。素晴らしい歌手だとずっと思っていたよ。うん、素晴らしい女の子だったよ。あの子はね、ちょっと変わっていて、一人の時は全く一人なんだ。人々と共に生きるという生き方をしなかったね。...ホールを見せましょうか」


Marie AvilesはMarcel Hastirとのインタビューの後、会場に行きピアノ、座席、楽屋などを見ている。Marcel Hastirに会い、Barbaraの話を聞き、その思い出のAtelierを見て彼女がどれほど感動したか、私には良くわかる。しかし、この出会いがCD「A L'Atelier Barbara 1954」のスタートになるとは、この時まだ誰も知らない。

Marcel Hastirのアトリエでは2004年のこのインタビューの少し前には、Amnesty Internationalの支援の元BIRMANIE Ce que cachent les pagodasと言うミャンマーの亡命者や政治囚救済のための集いを行っている。ここはレジスタンスの時代から多くの政治的被害者をかくまってきた砦でもある。

参考資料  : Les amis de Barbara 会報 
2004年夏、第18号
L’atelier: Bruxelles 1954 : PLANETE BARBARA 過去記事
・・・・・・・L’atelier: Bruxelles 1954 (3) par Bruxelles・・・・・・・


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追記: 4月10日
2005年にTV放映されたChristian Mesnilの Les chemins de Barbara を見ていたらMarcel HastirのL'Atelierの内部が映し出されていた。それだけでなくMarcel HastirがBarbaraを語る映像も流れたので吃驚した。このLes chemins de BarbaraはBarbaraの生前からすでに企画されていたが、Barbaraが自伝を書いてからと希望したので、着手がストップしていた。Barbaraが突然死したのでChristian Mesnilは、改めてBarbaraの兄Jean Serfに許可を取らなければならなくなった。その辺のことはまた機会を改めて「Les chemins de Barbara」について触れる時に詳しく書いてみたい。


追記: 4月11日
この辺が追調査の難しいところだが、ClaudeとBarbaraの出会いに関して、Marcel Hastirの発言と正統と判断されている資料の間に幾分食い違いがある。BarbaraとClaudeは1953年に既に結婚しているのだ。
この初めてのリサイタルでBarbaraはBrelのSur la placeを歌っているが、1954年、つまり同年のこれより少し前にBarbaraはBrelと初めて出合って、そしてこのSur la placeをBrel自身から「もらって」いる。1954年1955年と言う年は「Chaval Blanc」閉鎖後、ClaudeとBarbaraがParisとBruxellesをしきりに行ったり来たりする慌しい時期なのだ。
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この記事はBlog Correspondances(2008-04-09),にBruxellesが記入したものをこちらに移動したものです。


L’atelier: Bruxelles 1954 (2)

BARBARA à l'Atelier, Bruxelles 1954
を入手した。Merci Jacques !
その内容の16曲はこちら。
Francois Faurant. free.fr
Marie Avilès と Bernard Merle 
(どちらもLes Amis de Barbaraの重鎮)が書いた
34ペイジの小冊子が付いている。
Marcel Hastirの有名なアトリエで行われた
最初のほとんど幻のBarbaraデビュー・コンサート。
場所は51 rue du commerce à Bruxelles
これを録音して今回のレコード化に貢献したのは
Jacques Vynckier氏。
古い古いオープンリールのテイプレコーダーで
Jacques Vynckier氏が録音した。
もしこのテイプが保存されていなかったら今回のこのCDは
そしてそのコンサートは、存在しなかったことになる。
聴いてみると音は驚くほどよい。
Barbaraの声はまだBarbaraではない。
レクリューズで撥ねられた、声楽を学びました、という発声である。
しかし、栴檀(センダン)は双葉より芳し、
の片鱗は、その声に充分感じられる。
Jacques Vynckier氏についてはすでに
Correspondancesで紹介済み。
Correspondances 2007-11-06 ;
Marcel Hastirのアトリエでは現在も
様様なコンサートや展覧会が行われている。
Les Amis de Barbaraでは、3,4年前に
このMarcel Hastir氏の独占インタビューを
行っているので、その資料もある。
Barbaraの自伝にその名が登場した時から
その正体を必死に探してきた
Angèle Guller
果たした役割も次第に明らかになってきた。
このコンサートにはClaude Sluysも勿論深くかかわっている。
全く無名のBarbaraが1955年に
Bruxellesで78回転の幻のとも言える
レコードデビューが出来たのも
実はこのコンサートがきっかけとなったのだった。
このレコードデビューには
Angèle Gullerが深くかかわっている。
Barbara幻の最初の78回転モノラルは
Francois FaurantのSiteで。
2曲歌っている中の1曲「 L'œillet blanc 」は
レクリューズの共同経営者の一人Brigitte Sabouraud
作詞・作曲の作品である。
先に紹介した
Christian MesnilのFilm「Les Chemin de Barbara」
では多くの人が顔出しでインタビューに応じている。
Les Amis de Barbaraにはそれらを文字化した資料も多い。
今回のこのCDを軸にしたBarbaraのBruxelles時代を
Music Cross Talkに記事化したいと思っているが
資料が多くて資料の読み込みに時間を要するので
書き始めるのは再び枯葉の散る頃になりそうだ。

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この記事はBlog Correspondances(2008年02月15日),にBruxellesが記入したものをこちらに移動したものです。

L’atelier: Bruxelles 1954 (1)

Jacques 1


≪ BARBARA A L’ATELIER. BRUXELLES 1954 ≫
Un livre-disque comprenant un livret de 32
pages illustrees et un CD de 14 titres enregistres
lors d’une repetition de 1954. La plus ancienne
archive sonore connue de Barbara.
Sortie le 9 novembre

写真の人物はJacques Vynckierという。BarbaraがClaude Sluysと結婚していたBruxelles時代、二人はよくこのJacques Vynckierの家で食事した。BarbaraがMarianne OswaldやEdith Piafの曲と出会って、彼女の歌の世界を少しずつ広げていったのは、このJacquesの家でだった。ベルギーに来たころのBarbaraにはレパートリーも1,2曲しかなかった。
Barbaraは画家のMarcel Hastirのアトリエで1954年小さなコンサートを開いた。1954年10月1日のそのコンサートのリハーサルの模様をこのJacquesが密かに録音していた。半世紀以上たった今、そのJacquesの秘蔵録音が今回CDとなる。
14曲入りのCDと小さな32頁の書物がついて17ユーロ、11月9日発売になる。
表紙のBarbara,1954年,ふっくら顔のBarbara
勿論、Barbaraの音声記録としては、最古のものである。

前頁に書いている、Monsieur MurataにParisで
買ってきていただいた本の中には、Ethery RouchadzeとBarbaraとこのJacques Vynckierが三人仲良く微笑んでいる1953年の写真が掲載されている。Barbara同様、言うまでもなくこのJacques Vynckier氏も上の写真とは違って物凄く若い。

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この記事はBlog Correspondances(2007年11月06日),にBruxellesが記入したものをこちらに移動したものです。


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