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J'ai peur, j'avance.

古いnotebooksを整理していると、こんなメモに出会った。
 Un soir, je descends dans la rue pour me prostituer. Ce n'est pas le malheur, le grand malheur; mais c'est un grand chagrin.(...)
 Enfin bref, me voila sur le boulevard Anspach.
 J'ai peur, j'avance.
 J'avance, j'ai peur.
 J'ai peur, mais j'avance quand meme, chantera Lily-Passion en 1986.
 Il pleut; j'ai faim, j'avance.(...)
 Ce n'est pas possible que ce soit moi, ce soir-la, qui marche sur le boulevard Anspach !(...)
 Il faut du courage pour se prostituer, je n'ai pas ce courage-la.
(Barbara "Il etait un piano oir..." Fayard 1998, p.77&78)
BarbaraがAnspach通りに降りていって売春をしようと試みる場面の抜書きだ。
怖い、でも進む。
進む、けど怖い。
斜体の部分では、この心境を1986年のLily PassionでそのままLilyに歌わせたと書いている。Anspach通りの思い出が、こんなところによみがえって残っている。
・・・・・・・・・・・・
Lily PassionではDavid (Gérard Depardieu)にPrudenceのことをその名前を出して語らせている。PrudenceはBarbaraが下宿させて貰っていた家の女主人で以前は売春宿を経営していた。女の子がみんな去っていってやや痴呆気味で、年老いてひとり取り残された老婦人だ。BarbaraとClaudeの結婚式の立会人にもなっている。結婚式の食事の費用はこの夫人が出してくれた。Barbaraは元売春婦のこのPrudenceが大好きなのだ。
Lily Passionだけではない。1970年の舞台「Madame」。Barbaraが演じたMadameは女の子が去ってしまって一人取り残された売春宿のMadame、言い換えればPrudenceそのものを自分自身にオーバーラップさせたのだった。(この売春宿の場所は北アフリカの都市。何故こんな場所がイメージできたのだろうと初めは不可解だったが、これはコートジボワールのアビジャンでの思い出を嵌め込んでいるのだろうと、後に納得できた。)舞台の主人公にPrudenceをイメージしたいほどの、一体何をBarbaraはPrudenceに見出していたのだろうか。

Anspach通りでBarbaraはまずMadame Dussequeを思い出す。声楽の先生達は私を探しているだろうか?誰にも何も連絡せずに、Barbaraは家出してきたのだから。
このAnspach通りの部分はいつか全訳を試みたいと思っている。
古いnotebookに少し抜書きしていたのは、いつかこれをテーマにBarbara論を書こうと思っていたからだろう。
P.77にはこうも書いてある。
Etre petite soeur d'amour, chanter, prendre le voile, tout ca, c'est du pareil au meme.
(売春婦であること、歌うこと、修道女になること、全部方向性は同じだ)
これはインタビューでもよく言っている。甚だ意味が不明だ。
この辺がよく理解できた時に新しいBarbara論をArticleに入れようと思っていたのだろう。
Barbara論のテーマはもうひとつある。社会活動参加について。特にエイズ撲滅活動とその予防・啓蒙活動については、まだほとんど、あえて触れていない。「コンドームを忘れないでね。(頭に被るもんじゃないわよ)」などと繰り返して叫ぶ、Barbaraにどうしても大きな抵抗を感じてしまうからだ。それだけではない。コンサート会場の大きな籠に大量に入れて(無料配布されるために)置いてあるコンドームについても、一切触れないできた。
Barbaraが愛についてどういう哲学を持ってたのか、を究明できればいつか書こうとするBarbara論の二つのテーマは実は、おそらく重なる筈だ。


偶然見つけたメモによる感想を少し書いてみた。
第二番目のBarbara論がArticleに登場するのは、残念ながらまだまだ随分先のことになるだろう。

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Nicolas BatailleとBarbaraの交友

Nocolas

副題: または「Veuve de GuerreとGare de Lyonの背景」

・・・・・・・
大昔NHKTVフランス語講座に出ていたNicolas BatailleとLes amis de BARBARAにたびたび登場するNicolas Batailleが同一人物かどうかの確認に随分時間を要した。
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当時NHKTVフランス語講座は、ソシュールを日本に紹介した丸山圭三郎(私Bruxellesは自分の言語哲学論「言葉と存在ー純粋抽象の極限」等を丸山圭三郎先生にお読みいただいて「感動した」というお言葉をいただいている)と
イオネスコを世界に紹介したNicolas Batailleがダブル講師という、今から思えばなんと贅沢な番組だったんだろう!
Bruxelles所有の当時の音声教材から:Charles Baudelaire作
Nicolas Bataille朗読:L'invitation au voyage廣田大地氏の訳
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そう言えばの話だけれど、1978年日本発売のオランピア・ライヴ・コレクションーバルバラというLPの解説には永瀧達治、村松英子、そしてニコラ・バタイユ3人の文章がある。

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Les amis de BARBARA 2008年夏No.34にはHuchette座の舞台監督であるGonzague Phelip氏の著作「
Le Fabuleux roman au Theatre de la Huchette」についてのBernard Merle氏の紹介文が掲載されている。

Huchette座が大当たりをとったのは1957年2月16日から始まった
Eugene IonescoのLa leconとLa cantatirice chauve上演されてからだ。Paif, Sophia Loren, Luis Bunuel, Gerard Philipe等など著名人が多数24 rue de la Huchetteにつめかけた。
1年後の1958年2月16日、一座はHuchette座から歩いて数歩のL'Ecluseに集まり記念Partyを行った。そこで一座のNicolas Bataille,Marcel CuvelierとL'Ecluseに入ったばかりのBarbaraが出会う。駆け出しのBarbaraは出番待ちの居場所の無さを感じたときは、暖を取るためにHuchette座の楽屋を訪れていた。俳優だったMarcel CuvelierがBarbaraに自作の「Veuve de guerre(戦争未亡人)」を与えたのはこの時だ。
(注:Marcel CuvelierがL'Ecluseにオーディションに行って落ちたが、Barbaraがこの曲を気に入って歌いたいと申し出た、という資料もある)
Barbaraは1958年3月25日に早速この曲を録音している。L'Ecluseに正式に雇用されてからわずか3ヶ月後のことである。(当時この歌はその歌詞内容の不道徳性ゆえ?ラジオでの放送を禁止されていた!)
そのMarcel Cuvelierが証言している。
Nicolas BatailleとBarbaraはとてもいい友達だった。ある日Gilbert SommierのMardis de la Chanson(Capucines劇場にて)を2回終えた頃、二人は散歩していてこんな会話をしたんだ。
「旅行でもする? Gare de Lyon(リヨン駅)に行ってみようか」そしてその後で「Barbaraはあの曲を作ったんだ」
二人の交友についてはTreteaux  de Parisの支配人Jean de Rigaultも追認している。彼はNicolas Batailleと二人でBarbaraのコンサートを追ってベルギーに行ったことを憶えている。コンサートの後の夜食の席で興に乗ったNicolasがBarbaraにオペレッタをしようと申し出た。Barbaraは終始楽しそうに笑っていて、それは3人のとても楽しい思い出になった。Nicolas BatailleとParisに戻って、Barbaraって本当に楽しい人だねって、ひとしきり彼女のことばかり二人で話した。
・・・・ ・・・・
肝心のNicolas Batailleは先に書いたLPの解説にも、そう言ったBarbaraとの個人的な思いでは一切書いていない。その後ほどなく彼は日本に来て生活の場所を変え、彼女の方は大スターへの道をまっすぐにのぼりつめたからだろうか。何れにせよ駆け出しのBarbaraはイオネスコの「禿の女歌手」という不条理演劇発信の世界の中心であのNicolas Batailleと出会い友情の華を咲かせていたという事実は、Barbara Siteとしては、大いなる発見であった。


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演劇に興味のある方に:参照
当時演劇界の話題を独占していた
ベケットとイオネスコに関するエッセイ
イオネスコ寺山修二や唐十郎など日本のアングラ劇団にも大きな影響を与えたものと思われる。それを裏付けるかのように、こちらの生涯藝術三昧のペイジには、日本でのユシェット座写真展会場に於ける寺山修二と、演出家のNicolas Batailleの写真がある。
(余談)
ルーマニア人の私の友人Carmenが「イオネスコとかチャウチェスクとか、最後にスコとかスクとかつくのはルーマニア人の名前に多い」と言った、のを今ふと思い出した。
京都でフランス語を学んでいた昔、教師のJean Claude Rossigne先生が私のめがねを見て(お金が無かったので、片方割れたレンズに緑色のビニールテイプを貼って、そのままかけていた)「イオネスコ風だ」とおっしゃった。未だにその意味はわからない。誰か教えて!
当時、いつも「シュールレアリズム宣言」を小脇に抱え、親友はサルトルのつもりで、頭の中は言語哲学で行き詰まっていて、好みはAmerican Pop ArtとContemporary  Danceで、出かけるコンサートは実験的な現代音楽、好きなのはモダンジャズなのに聞くレコードはフリージャズばかりでかなりお疲れ、「霞を喰って非日常を生きている」といわれたのは、Barbaraの「黒い鷲」の噂を帰国した留学生達からちらほらと聞くようになる、およそ1年弱前の私の姿です。
当時の特技は長~い一呼吸の詩を書くこと。

 

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