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Tregastel  BRETAGNE

初めて家族でヴァカンスを楽しんだTregastelに、祖母の死の知らせが来たことは前回に書いた。実はもうひとつ、何と言ったらいいか、ちょっとしたことがあった。

ある午後、私は父から逃れるために家を出た。いてもたってもいられなくなった。歩いて歩いてやみくもに歩き出した。警察にいく決心をしたのだった。警官は熱心に私の話を聞いてくれた。信じてくれたという印象を持った。でも話を聞いたあとで彼はこう言った。まだ成人してはいないのだから、両親の元に帰りなさいと!
私を迎えにきたのは父だった。父は警官にこの娘は病気で、作り話をする癖を持っているのだと言った。父は私をヴァカンスの家に連れ戻した。私は父がいやで仕方なかった。私は数日に渡って自分の行動を罰せられた。でも私のこの思い切った行動は、父に決定的な打撃を与えたと感じた。(「Il etait un piano noir」P.53 & 54)

祖母の死の知らせにBarbaraが母と一緒にParisに戻ると、父に反抗し抵抗しわめき、叫びついに父を屈伏させた出来事の前に、実はこの伏線があったのだ。16歳。Bretagneの海がBarbaraに(自分を守る)勇気と決意を与えたのだろう。16歳、社会を代表する警官は「両親の待つ家に帰りなさい」としか言わなかったとしても。
被害者が女子供の場合、被害者に耳を貸さない風潮はいつの時代にもどこの国にも根深く存在する。
この記事を書きながら、いつか日記に書いたニカラグアのオルテガのことをふと思い出した。参照はこちらです
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おばあちゃんの思い出

Barbaraの祖母は1880年10月18日MoldavieのTiraspalに生まれる。そして131rue Marcadet a Paris 18区に住んでいた。

1946年の夏、Barbara一家はBretagneTregastelにヴァカンスに出かけた。Barbaraが唯一持っている家族ヴァカンスの思い出。仲間たちと深夜まで出歩いたり友人たちと映画のような夏を過ごした。このときBretagneという土地に恋をしたとBarbaraは書いている。

ある午後、一人でいるときBarbaraはおばあちゃんの声を聞く。うめき声。岩から出てくるように聞こえる。そこへ母が帰ってきた。Barbaraは今聞いた衝撃的なおばあちゃんの声について母に語る。その数時間後電報が来た。おばあちゃんが永眠したという知らせだ。母は急遽Parisに戻ることになった。Barbaraも一緒に行きたいと父に頼む。父は拒否。Barbaraは父を脅し、わめき、このとき初めて父はBarbaraの中に強い反抗、抵抗を見て、怯む。Barbaraは父に従う子供ではなくなったのだ。母とParisに戻る。

Marcadet通りから家族の墓地のあるBagneuxまで祖母の葬列に母娘二人で参加した。そして二人はVitruveに帰っていった。

私は祖母が大好きだった。今でも、祖母のことを語ると感情に流されそうになる。祖母の死は心臓を一突きされた傷跡のように残っている。あまりのショックでその後2年間程、私は祖母の死を事実と認めることができなかった。祖母はいたるところに現れて見えた。いつもずっと生きていると思っていた。
祖母はKirklesを作ってくれた。
祖母はブローニュの森にある動植物園に連れて行ってくれた。
私は祖母に私の歌を聞いてもらった。
祖母はロシアの小さな人形をくれた、箱をくれた、バッグをくれた。
祖母はお米の粉の匂いがした。
祖母はイアリングを、クリスタルのイアリングをしていた。
祖母は子守唄を歌ってくれた。
狼の話をしてくれた。大きなベッドに一緒に寝てくれた。
フルーツの揚げ物やアーモンド菓子を作って食べさせてくれた。
祖母は友人がたくさんいた。祖母の友人達は砂糖漬けオレンジと紅茶の香りがした。みんなロシア語でしか話さなかった。笑うときはみんな大声で笑っていた。身振りをまじえて。みんなかなり高齢だった。白髪を頭の周りに愛らしく編んでいて、頬はほのかに赤みがかっていた。首の周りにみんな、黒いビロードのリボンをつけていた。その真ん中に宝石が、時にはカメオ細工の色のついた石があった。そのリボンの上にピンできっちりと留められた白髪の頭があった。中には頭に、白斑のある小さな真珠の付いた長い金の鎖をつけている人もいた。
祖母はSmyrneのレーズンが一杯入ったクルミ菓子を作ってきた。自分のそばのお皿にそれをひとかけら置いた。ロシアの婦人達はみんな私をじっと見た。それを見て私は首を伸ばし立ち上がりお皿のほうにゆっくりと歩いていった。ロシアの婦人達は私を見て微笑んだ。そして祖母は私にキスした。私は祖母と一緒に笑った。・・
私は祖母を死んだものとして受け入れることができたのは、ずっと後、そのためには長い年月が必要だった。
「Il etait un piano noir...」P.53,54,55,56

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参考サイト:
Moldavieはこちら
Tregastel(Bretagne)はこちら
Moldavie参考サイト日本語はこちら

こちらの(3)を参照するとBarbaraがおばあちゃんに寄せていた思いの深さがよくわかる。このエピソードもご覧ください。こちら

Vitruveに住み始めた頃

アパルトマンに母と私と二人っきりだったある日の午後、母は私に微笑むとピアノの前に座ってショパンのワルツを弾き始めた。私はその日まで母がピアノを弾くことは知らなかった。涙が流れた。父はいない日が次第に多くなり、長い不在の日々も続いた。
  ー「Il etait un piano noir...」P.57ー

Barbaraは正式にピアノのレッスンを受けたことはなかった。耳で弾いていた、と書いている。ソルフェージュも知らなかったし、興味も、やる気もなかった。Vesinetに住んでいる頃、最初の音楽教師に出会った。Madame Dussequeは発声法と呼吸法のみを教えていたのだろうか?
Madame DussequeはConcervatoireの教授Paulet先生の家にBarbaraを連れて行く。
Paulet:どういう歌を歌いたいのですか?
Barbara:ミュージック・ホールで歌いたいんです。
彼は微笑み、私も微笑んだ。

Vitruveに住み始めた頃、Concervatoireに聴講生として入学した。Paulet教授のクラスに通う。3つのテストの中で2つしか合格しなかったから聴講生扱いとなった。テストでは、Maurice Thirietの「Les Visiteurs du soir」、Monteverdiの「Le Recit de la messagere de l'Orfeo」、Paul FortとJean Hubeauの「La Ronde」を歌った。審査員の一人は「Concervatoire de musiqueとConcervatoire d'Art dramatiqueを混同してはいけませんよ」とBarbaraに言った。声量が充分なかったのだとBarbara自身も書いている。
ConcervatoireでPaulet教授の下、Faure,Schuman,Debussyなどを学んだ。他の生徒はWagner,Rossini,Berlioz,Mozartを歌っていたが、私にはそういう作品は歌えなかったとBarbaraは書いている。
  ー「Il etait un piano noir」P.57 & 58-


Monteverdiの参考サイトはこちら
Maurice Thirietの参考サイトはこちらです
Paul Fortの参考サイトはこちら
Jean Hubeauの参考サイトはこちらです

ピアノがなくなって家を出た(最初の家出)

当時父と母の関係はひどく悪化していた。口には出さなかったが母はつらい時期を過ごしていた。そしてついに父は家を出ていなくなった。Vitruveの家族を捨て二度と戻らなかった。少し息苦しさが弱まった。
でも父が出て行って私はピアノのレンタル料が払えなくなった。あれは水曜日だった。覚えている。ちょうど午後の2時、三人の大男がやってきて私からピアノを奪っていった。文字通り身を切られる思いだった。助けてほしかった。腰の下辺りに痛みを感じたのを覚えている。この痛みは人生で苦境に立ったときその後もいつも感じることになるものだ。(注:ナントの病院でもこの同じ痛みが彼女を襲っている)絶望した。激情に駆られてその日のうちに私はピアノのなくなったVitruveを去った。18にも達していなかった。・・
突き当たりのSaint-Blaise広場で女友達がタバコ屋をしていた。私が歌手になりたいと思っているのを彼女はよく知っていて私の狼狽を共に感じてくれた。カールした髪のかわいい子だった。彼女も苦労してきた子で、人の話を聞くやさしさのある子だった。彼女を信用できると思っていた。打ち明けた。
「というわけで、もう家を出て行くことにしたの。でもお金が一円もないの」
彼女は引き出しから300フラン取り出し私にくれた。私にとっては大金だった。二人で一緒に泣いた。この気持ちの優しい女の子はずっと前にこの場所からいなくなった。私は彼女に大きな借りがある。少なくとも300フランを借りていて、いまだに彼女に返すことができないでいる。
(「Il etait un piano noir...」 P.70 & 71)

この辺のことはほんの少し以前にも書いた。さらに詳しく書いたのは、ピアノがBarbaraにとって、どれほどの意味を持っていたかを改めて書きたかったからだ。この時期のBarbaraにとって、ピアノを奪われたことがどれだけショックだったか。その日のうちに家出を決めた、そのことからもよくわかる。どれだけの絶望だったか。

L'Olympia劇場(2) Jean-Michel BORIS

参考資料:rfimusique.com,2004年1月6日(Paris)、Julie Street記者によるJean-Michel BORIS氏へのInterview記事。
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Bruno Coquatrix氏はJean-Michel BORIS氏を若いうちから、いはばスカウトしてミュージックホールの経営をイロハのイから教え込んだ。BORIS氏は1959年にオランピアのartist directorに就任した。1979年Bruno氏の死によってBORISの従姉妹のPatricia Coquatrixが共同経営者に就任する。

Juli Street::どういういきさつでおじさんと仕事をすることになったのですか?
Jean-Michel BORIS::もともとは医学校に行くつもりだったんですが、休暇中にPauletteおばさんの所に行ったんです。’54年です。一ヶ月そこにいてさんざんBruno伯父さんに口説かれたんです。医者になるよりいいぞって。ついに家に帰ってBruno伯父さんの下で働くことになったって母に告げました。
J.S.::もともと音楽が好きだったんですか?
J.B.::クラシックとジャズが大好きでした。53年にBrassensを知って大ファンになりました。Brassensのコンサートに行きたくなって。そのころ彼がオランピアに出演することになっていて。僕がParisの伯父さんのところで仕事をすることに決めた大きな動機でしたね。大好きなBrassensに近づけると思って、この仕事を引き受けました。
J.S.::Bruno Coquatrixがいなくてもオランピアは今のオランピアであり得たと思いますか?
J.B.::いいえ。オランピアはBruno伯父さんが作りました。あの場にエネルギーを注ぎ、伝説を作り、奇跡を起こしたのは彼です。Bruno CoquatrixとL'Olympiaは一体です。
J.S.::人間としてBrunoはどんな人でしたか?
J.B.::占星術でいうと獅子座なんです。その通り、権力と権威を備えていました。ある意味専制的なところもありましたが、Olympiaのようなホールを運営するには不可欠な要素です。やる気のある人で、朝やってくるとまるでライオンのように充電満タン、やる気満々でした。かれの権威主義的なところを人々は尊敬していました。同時にまた彼のブルーの瞳に魅せられてもいました。氷のように冷たく同時にまたやさしさに溢れている独特の瞳でした。彼はオランピアという仕事場で常にギャンブルをしていたんです。
J.S.::Brunoの下働きから実際自分で契約をとるようになるまでは、どのような経緯があったんですか?
J.B.::Brunoは一から仕事を教え込みました。ゼロから覚えなければなりませんでした。ショービジネスとはなんぞや、その舞台裏。まず電気系統を学び、次に照明、音響、そして経営を学ぶ前にステイジマネジャーを務めました。Brunoが僕がもうブッキングが出来るようになったと判断した時から、Musicorama(フランスのラジオ局Europe1にオランピアからライブショーを届けた番組)のROCKとJAZZのブッキングを任されました。その後に大スターの前座の歌手なんかのブッキングを担当しました。人選は完全に私の意志に任せてくれていました。成功したのも、失敗したのもありましたけどね。
J.S.::オランピアは人気が出る前の可能性のある歌手を見つけ出してきましたね。Jean-Michel、あなたはThe Beatlesになる前のThe Beatlesを出演させました。無名だったJimie Hendrixも発見しましたね。あなたにはスターを見つける才能があるのでしょうか?
J.B.::この仕事は言わば、直感が勝負なんです。音楽性を嗅ぎ付ける力と、人間心理を読み取る力と、両方が必要なんです。新人を見つけるために他のコンサート会場や店にもよく足を運び、常に新しい人材をウォッチしていました。そしてそれをBrunoに告げていました。The Beatlesもそうして見つけましたし多くのシャンソン歌手たち、たとえば、Claude Nougaroもそういう風にして見つけました。でも1979年にBrunoが亡くなった時は、多くの人はこれでオランピアもお終いかと思ったようです。
J.S.::Gilbert Becaudが最もL'Olympiaには関係の深い歌手ですね?
J.B.::この関係はBrunoとGilbertの友情そのものなんです。GilbertはBrunoの親友のJacques Pilsのピアニストだったんです。1954年にBrunoがオランピアをスタートさせた、Gilbertはちょうど歌手のキャリアをスタートさせたばかりでした。翌年55年にもう一度呼び戻した時は、Gilbertは大ブレイクしていました。初日のマチネーの時、3000人の若者が列を成して道路に溢れていました。会場に入ったら、熱気が爆発していました。あのときがオランピアの椅子が壊された最初でしたよ。Gilbertは27回出演しました。まずはBrunoとの友情、それから、Gilbertは真にこの劇場が好きになってもいたんです。彼のオランピアへの思い入れは強くてついに「僕のオランピア」という歌までレコーディングしましたよ。
J.S.::オランピアの座席が剥ぎ取られるというのは、有名な話になりましたね。
J.B.::数でいえば、James Brownの時が一番ひどかったですね。彼は3回続けて公演しましたが、最初から最前席が倒れました。どんどんエスカレートして。次の日はTom Jonesで、僕らは徹夜で修理したり、並べ替えたり。Tom Jonesを聞きにくる人たちがちゃんと座れるように、実は近くの映画館から何列か分の座席を借りてきました。
J.S.::Olympiaに幽霊が出るって?
J.B.::BrunoとGilbertはここにいますね。ほかにはBrel,PiafそしてBrassens,Trenet,Ferre、みんなここ、Olympiaにまだいるんですよ。夜に時々ステイジに上がるんです。みんなが帰った後。電気も消えて安全ランプだけがポツンとついている状態です。その時僕は感じるんです。この劇場は生きている、この劇場は本物の魂を持っていると。


bruno piaf

BrunoとPiaf PiafがOlympiaの経営危機を救った事もあった。

L'Olympia劇場(1)

オランピア劇場は28Boulevard des Capucines,Paris9区にある。客席は2033席。1893年4月12日からスタートした。Joseph OLLERが初代オーナーである。フレンチカンカンの踊り手として名をはせるLa Goulueで幕を開けた。1898年から1911年まではISOLA兄弟が、まだ音楽ホールと言うより曲芸師、アクロバット等のサーカス小屋もどきのものだった。1911年から1914年まではJacques Charlesが、音楽ホールにして運営した。Mistinguette,Yvonne Printemps等が出演した。第一次世界大戦中、劇場は閉鎖されていた。1916年からはRaphael Berattaが、1918年から1928年まではPaul Franckが管理運営した。Fragson,Frehel,Damia,Marie Dubas,Lucienne Boyer等などが出演した。1929年からは映画館となる。第二次世界大戦中はドイツ軍に、そして後にアメリカ軍に接収された。その後は1954年まではやはり映画館として使用された。

Bruno Coquatrixが劇場を買い取るのは1953年である。1954年まではBrunoも映画館として使用していた。考えを改めて音楽ホールにしたのだった。そして1954年2月15日最初に出演させた歌手はGilbert BecaudとLucienne Delyleであった。ここに伝統のオランピア劇場が真にスタートする。Edith Piaf, Jacques Brel等が出演した。Bruno Coquatrixの死後は甥のJean-Michel Borisと、娘のPatricia Coquatrixが共同で支配人となる。1997年4月15日から1997年10月15日まで改装改築のため閉鎖されていた。1997年10月15日の再開もやはりGilbert Becaudが出演した。

2001年8月、昨日書いたようにこの劇場はBruno一族の手を離れることとなる。Vivendi Universalが劇場の設備およびその営業権を買い取った。実際の建物自体はSociete Generale France所有のままである。
Vivendi UniversalのL'Olympia買収に一役買ったのはUniversal Musicのトップ、Pascal Negreである。しかしVivendi UniversalのトップであるJean-Marie MessierはL'Olympiaは自社関連の会社のスターたちだけのためにあるのではなく、すべてのレコード会社の歌手のためにあると、発表の記者会見で明言した。(つづく)

空間と同化するということ

出典:LES COULISSES DE MA MEMOIRE(P.75&76)
著者:Paulette Coquatrix 出版社:Grasset社 1984年刊
翻訳:Bruxelles
Olympia

まだとても小さいときに、音楽ホールについて、ある知識を得た。子供のとき、兄たちが、どこかよく覚えていないが、L'Empire,だと思う、Raquel Mellerの絶頂期のころ、彼女の歌を聞きに連れて行ってくれた。
彼女は「La Violetera」を歌う時、小さな籠に花束を入れて、それを客席に投げながら歌った。運命だと思ったのだが、そのひとつを私は手にした。礼儀としてプレゼントをもらったお礼をいいたいと思い、兄たちに楽屋に連れて行ってほしいといった。兄たちは渋っていたけれど、私があまり熱心にいい続けるので、根負けして幕間に連れて行ってくれた。その部屋で私は一人の女性が、座って静かに編み物をしているのを見た。私はショックを受けた。ついさっきこの人は顔いっぱいに照明をあててあんなに輝いていたのに、同じ人が私の母と同じように編み物をしているなんて!!びっくり仰天だった。スター歌手は編み物をしてはいけない。もちろん私はその思いを口には出さず、プレゼントのお礼を言い、その人に素晴らしかったといい、礼儀正しいお辞儀をして、そのあと兄たちを出口まで引っ張って行った。私は”素”というものを見た。そのときショーとは大部分、魅惑的なイリュージョンであるということを学んだのだった。

今日私はもはや、こんなことで別に驚いたりはしない。
Barbaraは夕方ステイジがある時、朝早々とやってくる。劇場の雰囲気を自分に同化させるためだ。それはすでにL'Ecluseでもしていた。まだほんの10人ほどのファンしかいない頃からだ。L'Olympiaでも同じようにしただけだ。きっとPantinでも、舞台の間中何日もそれを続けたと思う。
それに、オランピアのときはまず、一番近い目の前のホテルに部屋を取った。そして起きるとすぐに通りを横切ってやってきて、楽屋の空気を吸う。そして座って考えながら、手は編み物をするのだ。集中するために、観衆と向き合う準備をしながら、何キロメートルにも及ぶ編み物をし続ける。彼女が編み物をするのを見て、編み物をするという行為が、平凡な行為だと決して思わなくなった。手を動かすという行為には、精神的な不安や焦りやアンバランスと戦おうという意思が入りやすいのだと思う。ある種の御祓いのような機能が隠れている。

一般的に言えることがもうひとつある。歌手が音楽ホールに,特にL'Olympiaに出演するときは、自宅にいる気持ちになって、慣れた空間にいて、いつもの動作をして寛ぐ必要があるということ。身体的にも精神的にも空間に違和感を覚えることなく、浸透感を持っている必要がある。
たとえば、Charles Aznavourは非常にオランピアに溶け込んでいて、そこで人に会う約束もする。出て行って会ったりしない。Yves Montandは夕方電話をしてきて「ちょっと新しいことを試したいので明日稽古にいきたい」と時々言ってきた。Brunoはそういう態度に好意的だった。PatriciaもJean-Michelも私もBrunoの考えを踏襲してきた。オランピア劇場がすし詰めのときは、歌手に対して非常に神経を使う。私たちは歌手を元気づけるようにサポートする。劇場はいはば、歌手の自宅の地続きの別館であるべきだと思う。歌手がそこでいつもの動作、いつもの習慣、日常の癖を本能的にさらけ出していれば、よかったという思いがする。つまり自然体だ。劇場と歌手が雰囲気的に浸透しあっていればいい。オランピアは出演歌手のものであっていい。つまりそれが当然なのだと思う。

.................

シャンソンファンなら誰でもBruno Coquatrixの名前は知っているだろう。この本の著者のPaulette Coquatrixはその妻。文中に出てくるPatriciaは娘。Jean-MicelはJean-Michel Borisのことで、彼はPauletteの末の弟の息子である。一族は2001年8月にオランピアを売却している。その際長年音楽支配人だったJean-Michel BorisをBrunoの娘のPatriciaが更迭して、不評を買った。この更迭に怒りの声を上げたのはJohnny Hallydayだった。近々L'Olympia劇場のことを少し書いてみたい。

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