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"assomme" par la mort de BARBARA

Barbara fanはフランスにしかいないのかと、すっかり諦め始めた頃、Barbara fanのK氏からmailが入った。NHKの午後のシャンソンでBARBARAと出会ったのが高校生の時。出会いはSeuleからの1曲、と言うことは1980年頃?同じ高校生でもMachinist氏のPauvre MARTINとは少し時代が違うが、高校生でBarbaraに目覚めるとは、いずれにせよ、素晴らしく稀有なことだ。私は20歳で出会って、その後1,2年は近寄りがたく、距離をとって、しかもあらぬ方向を見ていたような記憶がある。一気に近づいたのは社会人になって世間と対峙出来るようになってからだ。

1997年11月25日K氏はNET上に現れたBARBARAに関する記事をくまなくprint outし保存されていた。今それをBruxellesが拝借している。それらの資料のなかから、なるべくダブらないものをpick outし、順次紹介していきたいと考えている。

本日はまずMoustakiのコメントから。
///////////////////

Paris発11月25日(火)AFP通信:Paris時間10時54分
歌手のGeorges Moustaki氏は火曜日Barbaraの死を知って、打ちのめされた気分でいる、と語った。BarbaraはNeuilly-sur-SeineにあるParisのアメリカン病院で月曜日の夕方死亡した。享年67歳。
「ニュースを知って吃驚し、本当にガックリきた。そして同時に彼女の具合がこれだけ悪かったことを知っておくべきだったと思う」とFrance InfoのインタビューでMoustaki氏は語った。
「人が亡くなった時、誰もが感じる、どうしようもない無力感のような・・・。僕はね、ちょっと1曲作ったばかりなんだよ、デュエット曲を。もう長い間一緒に歌ってこなかったから。それを話したら『いいえ、歌わないわ。今はね、そういう体調でないの』って彼女は言ったんだよ。僕が考えているより、体調が悪かったんだって、それを聞いた時に、気づくべきだったんだ」
・・・・・・

Moustakiが作った曲は「ODEON」。Barbara以外の人とはデュエットする気はないとMoustakiは言っている。一人で歌った「ODEON」。いつかAUDIO「見えない鳥の存在」にUPしてみたいと思っている。
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Catherine LaraとBarbaraの出会い

Catherine Laraは1987年Michel Lafon社から出版された「L'aventuriere de l'archet perdu」でBarbaraに関してこのように書いている。-

自分でレコードを買うようになってから、聴くレコードもギターで演奏するのも、ほとんどすべてBarbaraの曲だった。だからある日、その長年の憧れの人の声が電話の向こうに聞こえてきたとき、私がどれだけわれを忘れたか、誰でも想像できると思う。
ーあなたとお会いしたいのーとBarbaraは私に言った。-

Barbara?電話線を通して私の家にやって来たの?数秒間信じられなかった、そんなこと。むしろ、自分の気持ちが昂ぶったために、不思議な幻聴を聞いていると思った。でもそれは幻聴でも夢でもなかった。電話機の向こうの声が続いた。
ーあなたのレコードを聞いたの、そしてね、できたら一緒に仕事をしたいと思って。-
受話器を何度も落としそうになって、必死に耳に押し当てた。半分上の空、た、多分会う約束をしたように思う。行かなければ。必ず。その日まで興奮して、不眠にならないために、シナノキの濃縮液をタバコに混ぜて平静を保たなければと思った。

運命の日が来て、私は出かけた。アスピリンで神経を鎮めて、でも身体全体がコントロール出来ないくらいに震えた。こんな状態の私を見てBarbaraは握手をするために手を差し伸べるべきか、イスをすすめるべきかわからなかった。私はまともな会話をして、できるだけ寛いだ様子をしようと努力した。
私は話すために口の中で舌を7回転させねばならず、こんな状態で言葉の方も緊張して、口の出口を見つけるのに四苦八苦していた。
何度か口ごもった後、結局その方が全く容易かったので、しかもそれしか出来なかったのだが、テレパシーで会話した。

Barbaraは強い印象を残す女性だった。出会う人々に完全に正体をさらけ出させる術を心得ていた。けれど彼女自身は本心を覆っている面を持っていた。
彼女をよく知っているつもりでも、彼女が纏っているミステリアスなオーラを超えて見届けることは出来なかった。たとえば、鏡の表面を見ているような感じだった。ただ彼女もふたご座で、だからもう初めから私たちはとても仲良くなれた。ふたご座二人、だから四人分の情熱があった。ある日笑っていたり、次の日口論したり、全体的にはユーモアに満ちていて、でも時々暗く沈む。
コインを投げて裏表で何かを決めようとしても、どちらが意欲を失うわけでもない、、、なくなるのは投げられたコインだけ、、、そんな関係だった。

Barbaraは他者の人生に影響を与える力を持っていた。どのように人々が彼女の人生に外から内にフラフラ迷い込んでいくのか、誰にもわからない。出会ったその日から、私の全意欲は彼女に従うようになる。一緒にした仕事が終わってからも私たちの友情はそのまま続いている。
彼女のために私は2曲作曲した。「Accident」と「Au clair de la nuit」だ。大きな感動だった。「La grand dame en noir」のために作曲できたという大きな喜び。

ある日Barbaraは私にGeorges Moustakiを紹介してくれた。私自身の青春のベルエポックに於ける、忘れてはならないもうひとつの出会いになった。彼の思い出、忘れがたい数々の瞬間、Moustakiの思いでも書かずにはいられない。

空間と同化するということ

出典:LES COULISSES DE MA MEMOIRE(P.75&76)
著者:Paulette Coquatrix 出版社:Grasset社 1984年刊
翻訳:Bruxelles
Olympia

まだとても小さいときに、音楽ホールについて、ある知識を得た。子供のとき、兄たちが、どこかよく覚えていないが、L'Empire,だと思う、Raquel Mellerの絶頂期のころ、彼女の歌を聞きに連れて行ってくれた。
彼女は「La Violetera」を歌う時、小さな籠に花束を入れて、それを客席に投げながら歌った。運命だと思ったのだが、そのひとつを私は手にした。礼儀としてプレゼントをもらったお礼をいいたいと思い、兄たちに楽屋に連れて行ってほしいといった。兄たちは渋っていたけれど、私があまり熱心にいい続けるので、根負けして幕間に連れて行ってくれた。その部屋で私は一人の女性が、座って静かに編み物をしているのを見た。私はショックを受けた。ついさっきこの人は顔いっぱいに照明をあててあんなに輝いていたのに、同じ人が私の母と同じように編み物をしているなんて!!びっくり仰天だった。スター歌手は編み物をしてはいけない。もちろん私はその思いを口には出さず、プレゼントのお礼を言い、その人に素晴らしかったといい、礼儀正しいお辞儀をして、そのあと兄たちを出口まで引っ張って行った。私は”素”というものを見た。そのときショーとは大部分、魅惑的なイリュージョンであるということを学んだのだった。

今日私はもはや、こんなことで別に驚いたりはしない。
Barbaraは夕方ステイジがある時、朝早々とやってくる。劇場の雰囲気を自分に同化させるためだ。それはすでにL'Ecluseでもしていた。まだほんの10人ほどのファンしかいない頃からだ。L'Olympiaでも同じようにしただけだ。きっとPantinでも、舞台の間中何日もそれを続けたと思う。
それに、オランピアのときはまず、一番近い目の前のホテルに部屋を取った。そして起きるとすぐに通りを横切ってやってきて、楽屋の空気を吸う。そして座って考えながら、手は編み物をするのだ。集中するために、観衆と向き合う準備をしながら、何キロメートルにも及ぶ編み物をし続ける。彼女が編み物をするのを見て、編み物をするという行為が、平凡な行為だと決して思わなくなった。手を動かすという行為には、精神的な不安や焦りやアンバランスと戦おうという意思が入りやすいのだと思う。ある種の御祓いのような機能が隠れている。

一般的に言えることがもうひとつある。歌手が音楽ホールに,特にL'Olympiaに出演するときは、自宅にいる気持ちになって、慣れた空間にいて、いつもの動作をして寛ぐ必要があるということ。身体的にも精神的にも空間に違和感を覚えることなく、浸透感を持っている必要がある。
たとえば、Charles Aznavourは非常にオランピアに溶け込んでいて、そこで人に会う約束もする。出て行って会ったりしない。Yves Montandは夕方電話をしてきて「ちょっと新しいことを試したいので明日稽古にいきたい」と時々言ってきた。Brunoはそういう態度に好意的だった。PatriciaもJean-Michelも私もBrunoの考えを踏襲してきた。オランピア劇場がすし詰めのときは、歌手に対して非常に神経を使う。私たちは歌手を元気づけるようにサポートする。劇場はいはば、歌手の自宅の地続きの別館であるべきだと思う。歌手がそこでいつもの動作、いつもの習慣、日常の癖を本能的にさらけ出していれば、よかったという思いがする。つまり自然体だ。劇場と歌手が雰囲気的に浸透しあっていればいい。オランピアは出演歌手のものであっていい。つまりそれが当然なのだと思う。

.................

シャンソンファンなら誰でもBruno Coquatrixの名前は知っているだろう。この本の著者のPaulette Coquatrixはその妻。文中に出てくるPatriciaは娘。Jean-MicelはJean-Michel Borisのことで、彼はPauletteの末の弟の息子である。一族は2001年8月にオランピアを売却している。その際長年音楽支配人だったJean-Michel BorisをBrunoの娘のPatriciaが更迭して、不評を買った。この更迭に怒りの声を上げたのはJohnny Hallydayだった。近々L'Olympia劇場のことを少し書いてみたい。

小さな証言1,2,3

情報・読み物 小さな証言1,2,3 2005/03/16
人が語ることによってもう一度蘇えり動き出すバルバラ

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50年代の終わり頃です。とマダムMarie-Georgette Boyerは語る。夫はVitruve50番地のマダムSelfの家に石炭を配達していました。いつも奥さんは夫にこう言っていました。「娘の唄を聴きにいってくださいな。あのねえ、娘には才能があるんです。立派な歌手なんですよ」夫はいつも忙しくしていましたが、もともとミュージックホールが好きでバイオリンを弾きたがっていました。そしてついに我慢できなくて行ったんです。・・大きくて美人の娘さんでした。グラマーなね。私もよく彼女を見かけましたよ。Saint-Blaise30番地のうちの隣の靴屋さんの所に来てよく話し込んでましたよ。おしゃべりな靴屋さんでした。彼女はカウンターに肘をついて楽しそうに冗談を言い合ってましたよ」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

昔有料老人ホームの理事長の妻だった人の話。その老人ホームはバルバラの住むPrecyから数キロ離れたSeine-et-Marneにあった。バルバラは当時すでにかなり高齢だった叔母をこの老人ホームに預けていて、しばしば面会に来ていた。80年代の終わりの頃のこと。「彼女はメルセデスに乗ってね、アシスタントを連れて、そうね、1週間に数回きていましたよ」「車を降りて出てくるのはいつも彼女一人でした。黒い大きなサングラスをかけて顔を隠していました」「面会が終わるといつも私たちの事務所にやって来て夫や私と長く色々話しましたよ」「面会人のバルバラが帰った後、私も彼女の叔母さんの部屋によく行きました。するとね、その老女は姪のことを、そうね、まるで母親のように、とっても心配してるんですよ。そのようにお互い思いやっていました」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Les Amis de BARBARAが2002年に企画した(立案者Jeanne Sudour)FEMME PIANOという展示会に現れた、まるで「Vienne」の歌に登場するようなあるオーストリアの老婦人の話。「国立図書館でね、揺籃期本(1500年以前に印刷された本)の展示会があったんですよ。身近に人の気配がしてギクッとしたんです。振り返ってみると、バルバラがいました。大きな目が涙で輝いていました。その目で私を見つめていたんです。『東ヨーロッパの出身の方ですか』と言いましたので、そうですと答えました。するとね、身を屈めて私にキスしました。私を見て彼女が子供の頃の(おばあちゃん)を思い出したんですよ。涙を流しながら立ち去りました。大きな黒いケープと黒い帽子をしたまま大急ぎでいなくなりました」それから何年もたった今、さらにか細くさらにやつれて、この老婦人は、今その目でバルバラを見ているかのように動揺して、こう話したのでした。
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[La Lettre des Amis de BARBARA NO.12 バルバラ友の会会報NO.12より抜粋]


Jacques ROUVEYROLLISバルバラを語る(2)

情報・読み物 「CHORUS」1998年春号NO.23 2005/01/24
Jacques ROUVEYROLLISバルバラを語る(2) by V.Lehoux

:それにバルバラほど僕を笑わせてくれた人はいなかったね。彼女は決して黒のイメージの女じゃない。とっても面白可笑しい人だったよ。彼女と一緒によく笑ったよ、もう窒息するくらいに笑ったもんだよ。

:みんな彼女のこと好きだったな。Zenith劇場でHallydayが「Barbaraにあてたように照明をあててくれ」って僕に言ったのを思い出すよ。こんなこともあったな。Sardouを見に行って、楽屋に行ってベルトを三回も変えさせた。彼は言葉も返さず、従ったよ。僕にとって彼女はこれからも精神的な母親でいてくれると思う。僕が彼女に見出したのは、Polnareffがフランスを去ったときに見失ったものと、同一のものだという気がする。大きな大きな人間的スケール。偉大な魂。
僕と仕事をしたすべてのスターはみんなそれを感じさせてくれたけれど、・・彼女は独特だったなあ。僕にとって彼女は死んではいない。
僕の机の上には彼女のくれたFAXがまだあるよ。「秋にはPrecyにいらっしゃい、それはそれは素晴らしいわよ」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Jacques Rouveyrollisについて簡単な紹介をしておきたい。
60年代中頃からROUVEYROLLISは8年間Michel POLNAREFFと仕事をした。以後はJoe DASSIN,Johnny HALLYDAY,Charles AZNAVOUR,Serge GAINSBOURG,Michel SARDOUその他100人以上の歌手のコンサート、あるいは演劇、オペラ、バレー、などの照明をあてている。光と陰のマジシャンと人は呼ぶ。Jean-Michel Jarreのエッフェル塔のコンサートも彼が照明をあてた。パリに留まらず、Houston,Los Angeles,Santiago du Chiliでも。また画家としてもCafe de Paris(モンテカルロ)、La Cite medievale de Sarlatそしてジョルジュ・ポンピドーセンターにも作品を提供している。
写真監督としてはvideoやTV番組でも活躍している。トロカデロでの「人権」のイベントやJohnny Hallydayのエッフェル塔でのショーでも仕事をした。フランスの様々な興行に欠かすことのできない第一級の光のマジシャンとして高い評価を受けている。バルバラを取り囲んだ技術陣の一人として、彼の名を忘れてはならないだろう。


Jacques ROUVEYROLLISが語るBARBARA(1)

情報・読み物 「CHORUS」1998年春号NO.23 2005/01/22
Jacques ROUVEYROLLISが語るBARBARA(1) by V.Lehoux

「いつも20年先を行っていた」

彼はGainsbourg,Hallyday,Renaud,Jane Birkin,Goldman、Julien Clerc,Dutroncその他大スターの照明を引き受けてきた。Barbaraとは20年に及ぶ公私にわたる交流を持っている。この人のアパルトマンの中央にはPantin'81のポスターがその存在を主張している。その上には「マジシャン、あなたはマジシャン」というBarbaraからの献辞があった。

Barbaraにはいつも20年先の感性があった。仕事にしても、人としても。ものすごく自由な人だった。僕の知っているアーティスト達の中でも,なにものにも囚われない突き抜けた人だった。すばらしいステイジを思い描くことができた。Lily Passionが評判まちまちなのは,大胆で,斬新で,本質的に前衛的だったからだ。ミュージカルはアメリカでしか出来ないと嘯く人たちの口を封じることが出来るのは、Barbaraと他にはMichel Bergerだけだと言える。

Barbaraと仕事をするためには、それのみに身を捧げ100%全身全霊をその中に投入しなければならない。リハーサルの大事なところは彼女の家、彼女の場所でする。2,3日Precyで過ごすことになる。そこでシャンソンを議論したり、天気のこと、宇宙のこと、何でも話す。ひとたびBarbaraがステイジにたてば、僕らはみんな催眠術にかかったようになる。エネルギーに圧倒される。自分のすべてを徹底的に出し尽くす。ステイジをどう使うか、どう動くかを完全に心得ている、独特な動きをする。前衛だ。大胆な身振りをする。膝を非常に高く上げイスラム教の修道僧しかしないような回転もする。舞台が好きなんだ。舞台で本領を発揮するスターだ、ミュージックホールのスターだ。彼女は全く手に負えないところがある。巨大なリスクも平気で背負う。オランダでのリサイタルを思い出すよ。歌と歌の間に舞台の迫を下げるところがあった。「この瞬間はステイジに戻ってはダメですよ。今ステイジに大きな落とし穴があるようなものですから。舞台裏でじっとしていてください」と言ったんだよね。どうしたと思う?ステイジに戻ろうとするんだ。大事故を引き起こさないためにRomanelliが、彼女を押しとどめるのに汗だくだったよ。あれは、危なかったよ。舞台を引くときはいつも、気絶寸前だったよ。疲れているときでも、身を惜しむことはなかったね。「抑えて抑えて」っていつも言ったもんだよ。言っても無駄だとわかっていたけどね。(つづく)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

バルバラカルトクイズ上級編(3)にこの人が登場しています。


1週間前に電話が・・・

情報・読み物 L'Humanite by GUY SILVA 2004/12/27
1週間前に電話が・・・

晴天の霹靂だった。たった1週間前に電話で話したばかりだった。幸せそのものの様子だった。会話はとても長く続いた。彼女はかつてなく笑い通しだった。何かから自由になったんだなって、感じた。
「あのね、私白内障の手術をしたの。今までは10分の2の視力だったのが、今は10分の9よ。もう少ししたら、もう一方の目もするのよ。簡単な手術よ。1日で終わるの。会いましょうよ。パイ菓子を作ってよね(僕の元の菓子職人という仕事を覚えていた)公現祭のガレット・デ・ロワでもいいわ。私の最新のCD「Femme-piano」をお送りするわ。率直な感想を聞かせてね」
回想録に着手したと打ち明けてくれた。どんな風なと、さらに突っ込んで知りたかった。
「今まで何をしてきたか。どんな人を愛してきたか。ところで私たちは何年に知り合った?1962年だと思うのだけれど。プラス・ド・ラ・レユニオンで一緒に買い物したこと覚えてる?」(当時彼女はParisの20区のVitruve通りに住んでいた)。Barbaraは僕に頼みごとをした。本のために記述を正確にしたいと思っていた。
「ベルギーのMarcinelleであった鉱山の事故に関して調べてほしいの。生き残った人はいたのかしら?もうひとつは『la Tete de l'art』で私Raymond Devosと一緒に出演していたかどうか、Raymondに聞いてみてくれない?」いいですよ。Raymond DevosとCathrine Sauvage に会うことになっているので聞いてみますよ。そしてCora Vaucaire(なんという才能)わかった。Coraに必ず電話しますよ。
バルバラは人々が思っているバルバラとは違っていた。人々が彼女に押し着せていた性格とは異なっていた。ミステリアスとか、マントを着た修道女とか・・違う。
彼女が歌うものと、実人生で体験してきたものとは密接な関係を持っている。彼女が大衆の人気を得ることになる例の自作で固めた初のレコード制作現場に僕は幸運にも立ち会うことができた。そのLPで多くのファンを獲得したことによって「La plus belle histoire d'amour(avec son public)」が生まれた。僕はよくRemusatにも行った。Remusatは彼女の住んでいた家の通りの名前だ。そんな時そこでGeorges Moustakiと名乗るまだひげの生えていない作者と出会った。Barbaraは1曲1曲自作の曲を聞かせてくれた。予想もしないほどの衝撃だった。
彼女と一緒にL'Etoile劇場に行ったのも覚えている。Yves Montandがそこで大成功していた。Barbaraはイブ・モンタンに数曲歌ってほしいと提案していた。明らかにそれらの曲は彼にふさわしいものではなかった。結果として断られてよかった。彼女にしか歌えない曲なのだから。
彼女ははじめは他人のしかも男性の歌ばかり歌っていた。自分でも何故かわからないだろうけれど。彼女はそこでそれに気づいて方向性を変えた。
よく知られるように、L'Ecluseは7年間、彼女の母港だった。そろそろそこからの船出を夢見ていた。大舞台が彼女の心を捉えていた。僕と一緒に彼女の大好きなJohnny Hallydayを見にL'Olympiaに行った。突然耳に口を近づけてこう言った。「私、実はここで歌いたいのよ!」僕は少し唖然とした。けれど当然Bruno Coquatrixは彼女と契約を交わした。今までずっとピアノの前で歌っていた彼女が、オランピアでは何度か立ってピアノを離れて歌った。こういう場面を誰が想像出来たか?僕はステイジ上で動くバルバラにあの場面この場面と、拍手をおくった。それからPantinに出演。そしてGerard Depardieuと一緒に出たLily PassionではZenithに出演。それにMagador,Chatelet。L'Humaniteのお祭りでは彼女は自分の喜びそして僕達を喜ばせるために出演した。Barbaraは友情に厚い人だった。友達の数は限定されていたけれど。彼女は予測できない人で、思いもしない時に連絡してきた。最近ではこんなことを言ってきた。両親が失業中の子供達にクリスマスツリーを贈りたいと。控えめな態度で。そういう贈り物をする時は決して声高に目立とうとはしない。彼女は自分の感情や思いを隠すことはできない。贈り物をしたいからする。それだけだ。
「私は行動方針にそって生きる女よ」と僕に言った。「私は、誰でもそうだと思うけど、間違いも犯したかも知れない。けれど、自分を省みて、人生を総括するとして、自分を恥じることはないと思うの」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
GUY SILVAに関して今のところ、昔の友人という以上のことは不明。L'Humaniteに関しても明確な日付けは不明。


Marc CHEVALIER バルバラを語る

情報・読み物 L'ECLUSE (3) 2004/12/16
Marc CHEVALIER バルバラを語る

「回転の速い知性」

伝説的なあのL'Ecluseの経営者の一人がこの人、Marc CHEVALIER。共同経営者他の3人の名前は、Brigitte Sabouraud,Leo Noel,Andre Schlesser。彼らが経営したL'EcluseこそBarbaraがそこで、歌手という職業のすべてを学んだ所だ。(Valerie Lehoux)

M.C.:毎月第一水曜日にオーディションをしていました。Barbaraに最初に出会ったのは1951年のオーディションです。声楽を学びました、という感じがまだ残っていました。キャバレーで歌うには技巧に走っていました。だから不採用になりました。定期的に店に来てはうちの歌手の歌を聴いていました。ものすごく短期間に、我々が要求している内容を理解して行きました。頭の回転の速い、知性の持ち主なんです。次にオーディションに来た時には、キャバレー歌手に何が必要かを既に、良く飲み込んでいました。だから、OKと言って採用しました。1954年に前座の前座、駆け出しで1週間、L'Ecluseで歌いました。それが最初です。

M.C.:ベルギー人の若い男性がいて、よく彼女の歌を聴きに来ていました。二人は共通点が多く関係が深かったようです。そして最終的にはその男と結婚して、彼と一緒にBruxellesに行ってしまいました。彼女がParisに戻ってきて、我々はまた採用しました。そうまず、55年の12月、それと56年の1月。それからわりとすぐに人気が出てきました。1958年から、ここが彼女の家になりました。オーディションにも立ち会うようになっていました。隣のレストランで一緒に食事をするようになりました。サン・ミッシェルにあるカフェで、終わったあと、一緒に一杯飲んでいました。そうですね、それから何年間か彼女のいた間、いつも一緒に皆で仲間として、夜を過ごしましたよ。彼女は陽気で楽しく、率直な性格でしたよ。少しづつ少しづつ大衆が彼女の素晴らしさに気づき、店にとっては大事な歌手になっていきました。レクリューズがバルバラを売り出したわけではありません。・・彼女が自分の才能によって自分の力で、人気者になったのですよ。

M.C.:一番印象に残っているのは「ナント」ができた時のことです。素晴らしい歌に出会えたという強い感動が今でも残っています。聴衆にとってもそうでしょう。
今日、どうもそう思われがちですが、その曲その歌手が成功したかどうかは、拍手喝さいの強さによって推し量られるものでは、実はないのです。聴衆が一体となって、聞くことに精神を集中し、ホール全体が静まりかえることによって、真の成功がわかるのです。彼女が歌うと、いつも必ず、聴衆が一心不乱に聞くことに集中していましたよ。
(おわり)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出典:「CHORUS」1998年春号NO.23 by Valerie Lehoux
Traductrice: Bruxelles

Jean-Louis AUBERTバルバラを語る(2)

情報・読み物 「CHORUS」1998年春号NO.23 2004/12/03
Jean-Louis AUBERTバルバラを語る(2)  by Jean-Claude Demari

『実際どのように出会ったのですか?』
:95年の春「Sol En Si」という社会福祉の企画でです。僕は当時すでに「Vivant Poeme」の数節を書いていました。僕が彼女の家のドアをたたきました。噂では彼女は引き篭もっている人だと聞いていました。そこにいたのは陽気な人でした。それまで一度も会っていなかったのですが、15分もすれば、一台のピアノを二人で弾いていましたよ。それから彼女の小さな4トラックの録音機を二人で修理しようとしました。・・2年間彼女に会う機会はありませんでしたから、年老いたとか、病気とか、そういう・・。彼女は精神力と生命力のある人だというイメージが今も残っています。顔とか・・。

『「バルバラにはロックが豊富に感じられる」とあなたは言いました。どういう意味ですか?』
:ある日彼女本人にそう言うと、彼女は「今頃になってそんなことに気づいたの?私はずっと前から自分でそう思っていたわ。そして私は胸を張ってそうあり続けるつもりよ」と答えました。実際共通点もあれこれとありました。二人とも少し野性的で、少し子供っぽい。Barbaraは理論的にこうであるべきという点に関して、全く囚われていませんでした。彼女の中に僕よりもっと過激な部分を見つけましたよ。一歩も譲らない、一歩も引かない。それでいて同時に非常にオープンです。

『彼女の最後のアルバムにかなり関わっていますね』
:あのアルバムを彼女が作ろうとした時、僕が熱心に関わることを望んでいたのです。Faxを沢山送りあって意見を交換していました。Faxは彼女が一番好んだコミュニケイションのとりかたでした。「Le couloir」の歌詞をまず知らせてくれました。急いで曲を書きました。彼女のところに届けるとこう言いました。「これは私がすでに書き始めたもの、そのものだわ」
僕は彼女がすっかり僕のことを気に入っているという印象を持ちました。

『自分のCDで「Le jour se leve encore」という彼女の曲を歌っていますね。Barbaraの曲を歌うのはどういう感じですか?』
:これはポジティヴな生き方をテーマにしています。新鮮な驚きを感じながら生きる権利は皆にあるのだという考え方を伝えようとする曲です。言葉の一つ一つが僕にしっくり来ます。知らない人たちがスタジオで僕の録音を聞いて「これは本当にAubertらしい曲だね」と言いました。

『Barbaraはあなたにとって、心の奥深くに何かを残していった人だと言えるでしょうか』
:やさしい簡単な言葉を使いながら、いつも書くときに言葉を厳選していることが強く印象に残っていました。彼女が僕に教えたかったことでもあるでしょう。ずっと残っている学習の場所みたいなものです。Barbaraはシンプルに人間味をもって僕に近づいて話しかけてきました。人間味をもってとは、生命力、精神力、ポエジーを特に大切にする人生を歩む方法を持って。それが彼女の子供たち、次世代に僕たちが伝えるべき何かだと思います。(おわり)
 Traductrice: Bruxelles

Jean-Louis AUBERTバルバラを語る

情報・読み物 「CHORUS」1998年春号NO.23 2004/12/03
Jean-Louis AUBERTバルバラを語る by Jean-Claude Demari

「精神力と生命力に溢れた・・」

1996年、BarbaraとJean-Louis Aubertは同時に各人別々にアルバムを出そうと考えていた。BarbaraのものではJean-Louisはシンセとギターを演奏し「Vivant Poeme」の歌詞を書き「Le couloir」の作曲は、両人の共作。彼のアルバム「Stockholm」には「Vivant Poeme」と「Le jour se leve encore」が入っている。近年の強く結ばれてしかも目立たない交友について尋ねてみた。

CHORUS『バルバラの死後報道関係におけるあなたの発言がほとんどありませんが、どうしてなのですか?』
Jean-Louis AUBERT:誰かが亡くなって、その後しゃしゃり出ていくのは、どうも慎みが足りないように思うので。西洋式の死者を扱う伝統の、別に僕は専門家でもないし。生きているものが生きているものを語るのは別だけれど。僕は一人孤独の中で瞑想するほうがいいと思う。そしてツアーを続けること。Barbaraの精神は彼女の曲と共に常に一緒にあるから。

『97年12月のオランピアのあなたのコンサートの時、観客が退出するのと一緒に、デュエットしている「Vivant Poeme」を流しましたね。あの録音はどこで、どうしたのですか?』
:「Vivant Poeme」は元々デュエット曲なんです。・・バルバラがアルバムを制作している時に5,6回一緒に歌いました。声は似ていませんが、うまく調和しました。ちょうどお互いの人生がそうであるように。彼女は言いました。「シングルでこの曲出しましょうよね」・・今はまだその時ではありません。

『20年前あなたはBarbaraについて、何をどのくらい知っていましたか?ロックンローラーのあなたにとって彼女はどんな意味をもっていましたか?』
:シルエットです。「黒いわし」・・。この非常に美しいシャンソンによって僕の耳に自然に滑り込んできました。しかし当時は彼女とまだ知り合ってはいません。当時よく噂に聞いていたのは、報道の人たち、マスコミと決して妥協しない人ということ・・・と、彼女のファンの彼女への過剰な思い入れ!です。実際出会ってとても嬉しかったのは、彼女が僕のレコードや僕の人生をとても詳しく知っていたことです。 (つづく)


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