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Claude Vinciの証言 (3)

Claude Vinci (3)


(2) Gottingen
RemusatのBarbaraの家にはよく行った。彼女は僕にGottingenを歌わせたかったんだ。La Mouffでの僕の最初のリサイタルでGottingenを歌った。その頃Barbaraは他の歌手に曲を与えていたんだ。たとえば、Jean-Claude Pascalとか、Cora Vaucaireとか。65年にChant du Mondeからレコードを出す時、僕はGottingenを入れるつもりだった。BarbaraとFrancoise Loがダメだと言ってきたんだ。Barbaraが録音するから、録音はBarbaraだけがしたほうが良いからと。
でも今、CDの話があって、そこにGottingenが入るかもしれない。
そう、そうなんだ、BarbaraもFrancoise Loも僕に歌えといったのは、僕がレジスタンスの活動家だったから。初めの彼女らの提案には、そういう根拠がちゃんとあったんだよ。
僕の新しいCD?おそらくEPMから出ると思う。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


BarbaraとFrancoise Loからの反対が無ければClaude VinciはCora Vaucaireが「Dis quand reviendras-tu?」でそうであったように「Gottingen」を歌った最初の歌手になっていただろう。最初歌わせておいて、途中からレコード収録はダメ、なんてBarbaraの中に川内康範が入り込んでいたのか?


 参照:「Music cross talk」 : Gottingen :

「Gottingen」は最初はGottingenのCMソングかと思われたくらいに評判は良くなかった。じわじわと評判が高まった曲だ。そのあたりがひとつの原因かもしれないが、決定的な理由は、1964年にClaude VinciのPhilipsとの契約が切れて、65年になっても更新されなかったためだと思われる。Barbaraの中に川内康範が入り込んでいたわけではない。
L'EcluseをやめてからのClaude VinciのエージェントはFrancoise LoとNadine Laikで、同じ時期にBarbaraと両者を共有している。
CBSで「Barbara chante Brassens」「Barbara chante Brel」を出したBarbaraがClaude Dejacquesに連れられてPhilipsにやってきたのはClaude Vinciが1963年にPhilipsから最初のアルバム「Eluard」を出した、少し後だ。Claude VinciもPhilipsでは「Dejacquesのチーム」の一員となり、BarbaraとClaude Vinciは、一時ほとんど同一家族のような身近さにいたことが窺がえる。
彼の最初のアルバムが「Eluard」であったことは注目に値する。Barbaraのあの美しい「Printemps」もEluardの詩作品だ。Claude VinciはEluardを直接知っていたから、その作品の紹介があったのかも知れない。


Eluardについて:
社会思想社刊,現代教養文庫,「帰ろう愛の天使たち」から引用
ー僕はといえば、エリュアールよりブルトンが好きだ。ハハンなんて知る人はすぐに気づくと思うけど、今まで書いた僕の体質の嗜好から何故かは明白だと思うーp.207
「シュールレアリズム宣言」を書いたブルトンの極めて身近にいたエリュアール。内的探求の思考に向かったブルトンと社会的政治思想に向かったエリュアールとは、後に袂を分かつ。Claude VinciとBrabaraが後に疎遠になったのも、似たような経緯があったのではないだろうか。

もっと非文学的に言えば、60年代後半のYeYeの到来と共に、ベビーブーマーの到来と共に、左に傾いていた社会思想そのものが、大衆化し、同時に実は政治色を亡くし、気づかぬままに、大きく変質していったのだ。
憧れと理念の喪失から、行動と幻滅とを経て、ソ連の崩壊にまで到る流れの中で「こんな筈ではなかった」Claude Vinciはずっと浦島太郎のままだったのではないだろうか。(「ハートは左、財布は右」のフランス人の中にあって、それはClaude Vinciの潔癖さに由来することを忘れないでおきたい)


(注):上の写真向かって左がPaul Éluard、右がAndré Breton。Surrealismeの元祖だったお二人。

これはCorrespondances 2008年4月29日の記事をこちらに移動したものです。(Bruxelles記)

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Claude Vinci (2)

2008-04-25 Correspondances初出


身近にいた人のこういう発言は波紋を呼ぶ。Barbaraの妹Regineから苦情がくるかもしれない。Claude Vinciの発言をpick upしてみよう。


(1)Une petite cantate
僕のいた頃はYvonne SchmidtやDarzeeがピアノを弾いていた。Liliane Benelliはまだいない。彼女とは、le Theatre de Bourgogneで会った。Serge Lamaと一緒に交通事故にあって、彼女は死んだ。僕はずーっと「Une petite cantate」の作曲はLilianeだと思っていた。Barbaraの作曲だと知ったのは、わりあい最近だ。Lilianeが死んだので、既にあった歌詞を取りやめてBarbaraが新しく作詞した、そしてLilianeがすでに作曲していたと思っていた。...
BarbaraのRemusatの家に行くとLilianeとBarbaraが二人で一緒に仕事をしていた。LilianeがBarbaraに教えていたのをよく見た。


参照: 「Music cross talk
-完成した直後に一発録音され、記録では同日発売されたことになっている-という1行を思い出した。1曲だけ、しかも歌詞だけを発売直前に差し替えた、という可能性も確かに感じる。死を扱った追悼の曲にしては、メロディーに重苦しさが、たとえば「Nantes」に比べ希薄な気もする。すべてそう言えばの話だけれど。
(この曲の著作権がすでにBarbaraにあった、それゆえにBarbaraは歌詞を変更しようと思いついた、とすれば、Claudeの発言に何らかの根拠があったとしても、何の問題もない)
Claude Vinciは主張しているわけではないが、「自分はこう考えていた」という示唆は、大きな誤解を生みかねない。イメージがそちらの方に振れてしまうからだ。一旦振れたイメージはそのまま一人歩きするのが常だ。
参照: Serge Lama & Marie-Paule Belle
     
Une petite cantate 


2008-04-26 : 検証追記


Chalon-sur-Saoneでコンサートを終えたBarbaraに当時の秘書のSophie Makhnoはこう告げた。
「Serge LamaがLilianeと一緒に事故に遭いました」
するとBarbaraはこう言ったという。「彼女は死んだのね」
(祖母の死の時と同じような直感が働いたのか)
Barbaraは直ちに「Une petite cantate」を書き始めた。
当時Barbaraはアルバム制作中で、Philipsの代表達にアルバムの中の1曲をプレゼンする必要があった。Barbaraは他のではない、このpetite cantateを歌いたいと思った。Claude Dejacquesは、あんな状態でBarbaraは歌えるだろうかと心配していた。レコード会社に対するプレゼンなど、心地よい雰囲気の場であるわけも無く、しかも朝の10時という時間からだった。
Sophie Makhnoが手渡したウィスキーをBarbaraは一気にあおって、petite cantateを歌ったが、会議場から出てきた時は、何も覚えていない有り様だった。...
参照:Valerie Lehoux 「Barbara Portrait en clair-obscur」 p.145&146

これだけではBarbaraが、作詞作曲の両方を一気に仕上げたかどうかまではわからない。ただLilianeに対して非常に強い想いがあったこと、そして彼女の死に対して、動転するほどの強い悲しみがあったことは充分推測できる。この曲を生涯、演目から外さなかったことからも、二人の間に強い絆があったことが理解できる。根拠の無いClaude Vinciの推測など、もうどうでもいいことだと思えてくる。


Une petite cantate」(和訳) de 「Du Soleil Levant」

Claude Vinciについて

Claude Vinci

2008-04-24


Claude Vinciに関して
とにかく声を少しでも聞きたいので、まずは歌声を。
Racinesから試聴する。
Quarante ans de chansons 1963 / 2003 から試聴する。
De désespoirs en espéranceから試聴する。
Barbaraより少しあとにL'Ecluseに入店、1958年から1964年までBarbaraとL'Ecluseで一緒だった歌手。Les amis de Barbaraの会報33号でBernard MerleがClaude Vinciをインタビューしている。


追記:4月24日
Marie-Joelle Rupp著のClaude Vinciの伝記
「Vinci soit-it」は2006年「Le temps des Cerises」
社から発行された。
書籍だけでなく彼の伝記映画も存在する。
ゲシュタポに狙われた両親を持つ彼は
僅か11歳でレジスタンス運動に身を投じた。
後にアルジェリア戦争にフランス兵として参加
そこで仏軍の愚行を目撃
人間として義憤に駆られて脱走兵となり
F.L.N.(アルジェリア民族解放戦線)に参加
アルジェリア独立
のために苦闘した。
大手レコード会社は彼の歌手としての才能を高く評価するも、その過激な革命思想に抵抗を示し遠のいていった。
危険人物となった彼はYves Montand、Simone Signoret夫妻の家に身を隠していた時期もある。
彼ほど極端でなくても、フランスのシャンソン歌手達で彼と同世代の者の8割以上はマルクス・レーニン主義者だと思って間違いない。
全世界の著名人、知識人の過半数以上が左に傾いていた時代があったからこそ、50年代、60年代の
旧植民地の独立が達成されたのも、また事実なのだから。
しかしその後の虚無、哲学的とも思えるまでに内省化したエネルギーは、ベビーブーマーの人口爆発と接触し、火花を散らせ、フランスは40年前の5月に、'68 maiを迎えたのだった。(40周年にあたる今年の5月には特集が組まれるだろう)


・・・・・・・・・・・・


ついでながら昨日、貴重なfilmを発見した。
'68 mai :
このDaniel Cohn-Bendit が、かの有名な
赤毛のDanielなのだろうか。
(赤毛のダニーは実はドイツ人でドイツで政治家になっているらしい、これは今日図書館で読んだ本からの情報。
ドイツ人、フランス人という枠を越えたヨーロッパ人的感覚で語られる人物なのだそうだ)
このQuartier Latinでの騒乱は、かつて若者だった日本の日本人のあなたにも郷愁を喚起させるのではないだろうか。あまりにも日常的に見慣れた場面だ。
懐かしいこの曲などをバックに、一杯飲む?
(注:どちらも呼び込みに少し時間がかかります)

2008-04-28: 追記
N氏に以前送っていただいた「るたん」第34号('82-12)を見ているとなんとClaude Vinciについての記述があった。
ー資料未到着のため詳細不明。本アルバムでは、Boris Vian(1920-1959)作詞・作曲の「脱走兵」が収録されているーとある。
彼はフランス軍に銃を向け、命からがら脱走した、本物の「脱走兵」なのだから、この選曲は当然だ...


昨日アルジェリア戦争を調べていて、2006年9月の興味深い記事を発見した。「ハルキ」とは、独立戦争の際に、祖国を裏切ったアルジェリア人達のこと。その人たちを2006年に、表彰する、フランスの国家的心理が全く理解できない。狐に抓まれた気分だ。大昔の汚点を他国から表彰されて、恥の上塗りに戸惑うばかりだろう。
参照: site 1 : site 2 :

Nicole Louvierがもしいなければ...

Nicole Louvier
初稿:2008-07-20
Nicole LouvierのDiscographie:
Nicole LouvierのWikipedia
Music Cross Talkがまだ作成される以前、ごく初期にまだ掲示板であった頃、Nicole LouvierについてBruxellesが書いている過去記事:現在は「Music cross talk」に入っている分。
1-2004-04-03 2-2004-04-04 
Bruxellesが「Moi La Chanteuse」に2005-05-19に書いた「Nicole Louvier
Bruxellesの日記 「そのほかの日々(2)」に登場するNicole Louvier
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
追記:2008-08-04
探せば出てくるものだ。ようやく見つけた「Helene」par Nicole Louvier。続いて「Dans Chaque Chambre」と言う自作の詩を朗読している。Nicole Louvierをクリックして下さい。
この夏になってからYou Tubeにも登場し始めている。
優勝した一番有名な曲「Qui me delivrera?」
国会図書館でさほど印象に残らなかったのは、曲調が古いせい?
Nicole Louvier 「Mon petit copain perdu
Nicole Louvier 「Où te trouverai-je ?」
Nicole Louvier 「A la vie comme à la guerre
Nicole Louvier 「Quand j'ai faim
Nicole Louvier, en 1953, est présentée au public par Maurice Chevalier
最初のレコード・デビューの紹介文をMaurice Chevalierが書いている。「シャンソン界の小さなラディゲ」と紹介している。歌手としてだけでなく、文学的才能をも高く評価していたのだろう。
Nicole Louvier 「 Nous n'avons pas changé」:
・・・・・・・・・・
追記:2008-08-17
ようやく見つけた、動くNicole Louvier。今日掲載されたばかり。
Nicole Louvier - Miarka:
可愛らしい声で優しく歌う歌手なので、少し驚いた。日本に1ヶ月も滞在して、どこで何をしていたのだろう?若くして自ら命を絶たず2003年まで生きていたことに感謝したい。

Les amis de Barbaraの会報、2008年夏号No.34が届いた。
(この記事未完)

Anny GOULD

昨年の12月5日ParisのTrianonでAnny GOULDがBARBARAへの敬意を表し「Dis quand reviendras-tu?」を歌ったという情報がLes Amis de BARBARAのNo.24に記されていた。記事には今年の1月8日で86歳とあるが、薮内久氏の本にしたがって計算すると80歳。1926年生まれ、Barbaraより年長だ。彼女のコンサート、BRAVOSが飛び交いstanding ovationが何度もあったという。
Gribouilleほどではないが、日本ではほとんど知られていないAnny GOULD。"J'ai une affection particuliere pour cette grande dame qu'est notre Dame brune,Barbara"と一言添えて歌ったとある。その曲を選び歌う、何らかの必然性関連性の吐露は素晴らしい礼儀だと思う。Anny GOULDはBARBARA Fanを大いに感動させた。
時間があれば、彼女のもう少し詳しい紹介をいつか書いてみたい。

Barbaraを歌う歌手

http://24.203.120.136:8080/index.php

今日届いたばかりのLes Amis de Barbaraの会報に登場していたSUZANNE LAINESSEのサイト。歌が聞ける。

Mike Brant(最終回)


Mike Brant(最終回) 投稿者: bruxelles 2004/07/26 17:44:09

1947年11月イスラエルのHaifaに移住
1950年1月7日Zvikaという弟が生まれる。
1959年~60年Haifaから50km離れたKibboutzで共同農場生活を体験する。(キブツで働いて海外集団生活を体験した日本人も多い)
1962年15歳で胃潰瘍の手術を受ける。(後年このため兵役免除となる)
1965年Les Chocolatesというグループを結成、HaifaやTel Avivで歌う。平行して演劇を学ぶ。名前をMosheからMikeに変える。
1969年テヘラン、ヒルトンに出演中Sylvie VartanとCarlosの目に留まりパリに出る。10月ディレクターJean Renardの力で、BrandからBrantに名前を変え、最初の45回転"Laisse-moi t'aimer"と"Parce que je t'aime plus que moi"を出す。数ヶ月で150万枚のヒット。
1971年担当がJean RenardからGerard TournierとCharles Talurに変わる。
1972年Qui saura(Che sara)で200万枚のヒット。
1973年スペインの大画家Salvador Daliと知り合い、友人となる。プロデューサーがSimon Wajntrobに変わる。1974年5月女友達Guitaと別れる。8月アパートが荒らされ思い出の品が強奪される。11月22日静養のためスイスに行く。プロデューサーWajntrobと議論中ジュネーブのホテルの5階から飛び降り。幸運にも足の骨折で10週間の入院だけで命は取り留めた。ただしそれは結果として5ヶ月少々の延命に終わる。
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例のリンク、訂正しましたので、今夜は歌をお聞きください。夕べは大変失礼いたしました。

Mike Brant(1)


Mike Brant(1) 投稿者: bruxelles 2004/07/25 19:11:57

タモリの言いそうなことだが、シャンソンを歌う男性歌手は一般的にナヨナヨしてる。圧倒的な声量もなくオスの匂いを発散するワイルドな歌手もあまりいない。勿論例外もいる。例外NO.1はJoe Dassin.歩くフェロモンと言って間違いない。このMike Brantもセクシーなほうだと思う。
1,975年2月1日28歳の誕生日を祝って、退院。完治し元気で次のTV出演やらコンサートの衣装準備やらに入っていた。5月1日からのツアーも組まれている。4月24日松葉杖も手離し女友達の家に宿泊。翌日1,975年4月25日金曜日あさ11時、そのアパルトマンの6階から20m下に再度の飛び降り、即死。
本名Moshe Brand 1947年2月1日Chypre生まれ。
今日はMike Brantを紹介したくて筆を執った。members.goo.ne.jp/home/laiglenoirjpのリンクにも紹介している。「Laisse-moi t'aimer」が丸々1曲聞けるので興味のある方はどうぞ。明日も紹介の続きを。乞うご期待!
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失礼しました。訂正しましたので、音楽をお楽しみください。

CORNEILLEの紹介(2)

情報・読み物 CORNEILLEの紹介(2) 2005/01/28
「ルワンダからの初の国際的歌手に」

2004年7月から9月にかけてNiceのJazz festivalやLa RochelleのFrancofolies,またSpaやMontrealでのfestivalを含めた数多くのイベントに参加した。記念すべきLa Reunionでのコンサートにも参加、この会場、真正面一列目にはBernadette Chirac(フランス大統領夫人)も臨席していた。

2004年10月ついにparisのZenith劇場に2日続けて出場、大成功した。数週間後にはYoussou N'Dourとデュエットでスタジオレコーディングに参加。このアルバム「Dis ans ensemble」は、Ensemble contre le sidaという組織がエイズ研究資金集めのために作ったものだ。11月にはQuebecで年間最優秀男性歌手に与えられるFelix賞を受賞した。そしてついにカナダの国籍を取得した。

現在Corneilleは歌手活動と人道的支援活動を平行して行っている。彼はカナダの赤十字のスポークスマンとなり、Sierra Leone,Colombia,Sri Lanka等で、子供兵にさせられたり、虐待されたりしている子供たちを救うためのキャンペーンをしている。1994年のあの突然の悲劇の日以来、一度もRwandaに帰っていないが、彼の最大の夢はいつか首都KigaliでRwandaの和解と平和のためのコンサートを開くことである。
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参考:Hutu族について
フツ族とはブルンジやルワンダにいる3種族のひとつである。ルワンダ、ブルンジの人口の85%を占めている。3種族の区別は民族的なものというより、植民地支配の過程で発生した人為的な分類である。したがって言葉的にも文化的にも宗教的にもほとんど同一と見てよい。歴史的にはもともと、フツとツチの間には身体的特徴の違いは存在したのではあるけれど。
ビクトリア湖を初めとする巨大湖の一帯にはTwa族がいて、1世紀頃、ここにフツ族がやって来た。Twa族を追い出したフツ族は、15世紀まで小さな王国を次々と打ち立てていた。15世紀ごろツチ族がエチオピアからやって来てHutu族の国を征服した。ツチ族は1950年代、植民地支配が終わりの頃まで君主として支配し続けてきた。ベルギーはツチ族の支配を安定させるために、ツチ族フツ族という分類を成文化していた。後、ツチ族の君主制国家は倒れ、1962年、ルワンダとブルンジという2つの国に別れて独立した。独立後、ブルンジではなおツチ族が支配階級に留まったが、ルワンダではフツ族が支配的存在となった。繰り返すが人口比率では両国とも圧倒的にフツ族が多勢を占めている。そんなところに大虐殺が起こったのである。ルワンダの大虐殺については、後日もう少し詳しく検証してみたい。


CORNEILLEの紹介(1)

情報・読み物 CORNEILLEの紹介(1) 2005/01/27
「アフリカの歴史から逃れて」

Corneilleといえば、ラシーヌ、モリエールとともに17世紀フランスの古典派の三大劇詩人の一人、Pierre Corneilleをまず思い出すが、まったく関係はない。カラスという意味もあるが、それも肌色以外には関係がない。
でも彼のことを書かずにはいられない。彼はデビューアルバム”Parce qu'un vient de loin"でいきなり大ヒットを飛ばした。この歌は、祖国ルワンダでの個人的な体験を歌っている。(皆さんご記憶だろうか?ルワンダの大殺戮を。)彼は声の素晴らしさと存在のカリスマ性で多くのファンを獲得している。最近カナダの国籍を取得した。

Corneilleは1977年3月24日ドイツのフライブルグで生まれた。本名はCorneille Nyungura。両親はドイツに留学中だった。Corneilleがまだ小さな時にルワンダに家族で戻った。ルーツであるルワンダで子供時代を過ごした。音楽には早くから目覚め好みはブラックアメリカン、プリンス、マーヴィンゲイ、スティービーワンダー。両親のレコードコレクションからは、ブラッサンス、アズナブール、ブレルなどにも親しんだ。早くから才能を示し1993年16歳で首都キガリのスタジオで自分の曲をレコーディングしている。ルワンダの国営TVにも出演した。新人発掘賞を受賞し運気は一気に昇り始めた。しかし数ヶ月後に悲劇が襲う。1994年4月兵隊たちが彼の家に押し入り、彼を除く家族全員を殺害した。ツチ族のお父さん、フツ族のお母さん、兄弟姉妹全員を。兵隊たちが踏み込む前にソファーに隠れて彼だけが命拾いをした。しかし今もこの恐ろしい体験の心理的後遺症に悩まされている。

この後Corneilleはザイールに逃れた(現在の民主共和国コンゴである)。ほかの国外脱出者達とともに長い長い道のりを飲まず食わずで歩いて歩いて。ザイールに到着すると、父母と親しかったドイツ人の夫妻に連絡をとる。ドイツ人の夫妻は直ちに彼を子供として引き寄せ、彼をヨーロッパに迎え入れてくれた。

1997年Corneilleは冒険に乗り出す。カナダで自分の運命を試そうとモントリオールに行く。コミュニケーション理論を学ぶ。しかし音楽への思いがよみがえりハイチから来た二人の友人とR&BグループO.N.E.を結成した。シングル”Zoukin"が早くもケベックでヒット。そのまま名を成しIsabelle Boulayなどのスター達との共演を果たす。2001年ソロに転身。デビューアルバム作りと平行して”Cocktail R&B 2002"には”Ce soir"を、また”Hip Hop Folies"には”Si seulement on s'aimait"を作詞作曲した。その間もケベック、そしてフランスでライヴをこなし、特に2002年7月La Rochelleの”Francofolies"では人気を博した。その年の10月Dave Stewart(元The Eurythmics)はパリのLe Reservoirでのコンサートに彼をゲストに迎えた。彼のレゲエのアイドルJimmy Cliffと共演することもできた。

2002年”Avec Classe"がフランスでの最初のヒットとなった。一方カナダのファンは彼のデビューアルバム、祖国の大虐殺を歌った”Parce qu'on vient de loin"の素晴らしさにすぐに気づいた。フランスのファンはこのアルバムを手にするのに一年待たなければならなかった。その中のシングル”Ensemble"は発売されるやいきなり39位にランクされた。しかしCorneilleがブレイクするのは2004年だ。”Parce qu'on vient de loin"と”Seul au monde"が大ヒットした。2003年1月にはアメリカ人歌手Cunnie Williamsの前座に、そして自身もフランスでのコンサート活動に励んだ。フランス映画”Taxi 3"のサウンドトラックとして”Laissez-nous vivre"のレコーディングもした。(つづく)


Nolwenn Leroy & CALOGERO

情報・読み物 Nolwenn Leroy & CALOGERO 2005/01/10
簡単な歌手の紹介(1)

Nolwenn Leroy・・ちょっと調べてびっくり。写真で見る限りは、限りなき美女。本名Nolwenn Le Magueresse,ブルターニュ地方ST Renan生まれ。黒い髪に青い眼、Isabelle Adjaniに似ていると言われているが、多分それ以上。フェミニンでsexyで官能的に見える。特に瞳が美しい。TV番組Star AcademyⅡでブレイク。ファーストアルバムは全仏売り上げNo.1。Nolwenn Leroyはお母さんの名前。サッカー選手の父は家出、母親が彼女と妹のKayを育てた。Pascal Obispo,Lionel Florence,Elizabeth Anais,Lara Fabian,Daniel Lavoieなど、楽曲提供者、提供希望者は後を絶たない。その美女を早く見せろって?どうぞ。
http://nolwenn-officiel.artistes.universalmusic.fr/

CALOGEROのところに行ってまた驚いた。「僕はThe CureとThe WHO、そしてBarbaraとWilliam Shellerをいつも聞いていた」と、トップに出てきた。新しい世代の歌手、作曲家、作詞家の中で「Barbaraを好んで聞いていた」という発言は、よく見かける。これから、メモしておくようにしよう。
Calogero Mauricciは1971年7月30日、Grenobleの郊外にシチリア島出身の両親の元に生まれたイタリア人の青年で、現在33歳。3歳年長の兄Giaocchinoと幼馴染のFrancisと三人で1986年グループ「Charts]を結成。GrenobleのレストランでFrance Gallに大胆に接近してPhlippe Gaillardを後に紹介してもらうきっかけを得る。1989年から1997年の間にChartsはスタジオ録音4枚、ライヴ1枚計5枚のアルバムを出している。90年代後半、Florent Pagny,Ismael Lo,Helene Segara,Patrick Fiori,Pascal Obispo(Millesime),そしてミュージカル「十戒」などに曲を提供するようになる。Charlieと名乗っていた名をCalogeroに戻し2000年ソロとしてファーストアルバム「Au milieu des autres」を出し、2002年のセカンドアルバム「CALOGERO」で大ブレイクする。3枚目のアルバムはタイトルも「3」。曲名は列挙しないがたくさんのヒット曲を有する。クリクリカーリーヘアーのChalieはパンチパーマ風のCalogeroになり、美男とは言えなくなったが音楽的才能は今後さらに飛躍しそうだ。元美少年をご覧あれ。どうぞ。
http://calogero.artistes.universalmusic.fr/
main/frameset.php?r=2


Raffaella Benetti イタリアから登場

自己紹介 Raffaella Benetti イタリアから登場 2004/09/15
PLANETE BARBARAのBBSの和訳:2004年9月15日

14年まえパリの男友達がバルバラのシャンソンを紹介してくれてバルバラを知りました。私はイタリア人で私の国ではバルバラはほとんど知られていません。(多分全部あわせて10人くらい)。
私は歌手でシャンソンが大好きです。シャンソン歌手では他にブレル、ブラッサンス、ピアフ、トレネ等。フランス語が好きです。だから普通はシャンソンをフランス語で歌いますが、バルバラのシャンソンでは、歌詞がとても美しくそして重要なので、イタリアの人達に理解してもらいたくて意味をイタリア語で伝えたいと思いました。ですからつまり、半分をフランス語で、半分をイタリア語で歌うことになりました。
私のコンサートは、Barbaraの人生Barbaraの作品へのオマージュです。Barbaraについて少し話し、それから歌を歌います。Barbaraを知ってもらいたい、好きになってもらいたいと思っています。彼女の歌を聴いた人は誰でも、歌と、歌詞を気に入ります。ステイジの後人が来てもっとバルバラのことを知りたいと言うとき、歌うことによってバルバラの思い出を生き返らせていると感じます。
バルバラを歌って一番吃驚したのは,世界中のいたるところに彼女を愛する人達がいることを知ったことです。
日本にも歌手バルバラへの愛と敬意に満ちたこの素晴らしいサイトがあることを知りました。このサイトと、絆ができて嬉しいです。有難う、Bruxellesさん。
 (文責Bruxelles)

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