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L’atelier: Bruxelles 1954 (4)

Barbara not 1954.

2008-04-11記


Barbara à l’Atelier (publié par Les Greniers de la mémoire-France Musique et Le Chant du monde-Harmonia Mundi), enregistrement mythique du 1er octobre 1954, qui marque peut-être le tout début d’une vraie carrière. Ce jour-là, devant deux cents spectateurs tassés dans le vaste atelier du peintre Marcel Hastir à Bruxelles, elle gagne ses premières critiques de presse et son premier contrat discographique avec Decca-Belgique.

参照: Le Figaroの記事:2007年11月24日

L’atelier Bruxelles 1954 を紹介したLe Figaroの記事を探し出した。上はその抜粋。
この記事によると、かなり大きいMarcel Hastirのアトリエ、ぎっしり200人はいったようだ。1954年10月1日。ここにあるように翌日新聞記事に取り上げられた。Barbaraが初めてメディアに歌手として登場したことになる。(その報道記事も、リサイタルポスターも入手済み)そして客席にDecca-Belgiqueの関係者がいて、これをきっかけにレコード契約も整った。また11月にはAngèle Gullerのラジオ番組「 La vitrine aux chansons 」に招かれBarbaraはベルギーで初ラジオ出演を体験する。そして1955年の
レコード発売に合わせて、le Palais des Beaux-Arts de Bruxelles 、ブリュッセルの名門劇場への出演をはたす。Barbaraが言うようにL’atelier Marcel Hastirでのリサイタルは大きくBarbaraの歌手人生を浮上させる。

Ce n’est pas ce récital qui est enregistré par un de ses amis qui vient d’acheter un magnétophone à bande, mais son ultime répétition, au cours de l’après-midi. S’accompagnant au piano, elle interprète ses seize chansons
16曲の弾き語り、とある。レクリューズ時代でも下手だ下手だといっていたピアノをこの時期にすでに弾き語りをしていたのは驚きだ。とすればBarbaraに歌えるまでのピアノの手ほどきをしたのは、グルジア人のEthery Rouchadzeだということになる。前にも書いたが、録音はリサイタルそのものではなく、同日午後の最終リハーサル。録音は(1)で紹介したJacques Vynckier氏。彼はMarcel Hastirの生徒でもあった。自分の歌の反省材料にでもしようと思ったのか、Barbaraがリハーサルの録音を誰かにしてもらいたいとJacques Vynckier氏に依頼した。数日前にアメリカ製の前年に発売になったばかりのEkotape Websterというオープンリールのテープレコーダーを所持したJacques Vynckier氏、それをヨーロッパ仕様に電圧調整?して、急遽自分が録音係を引き受けることにした。録音がこのように全くの素人であること、そしてマイクがピアノの上に直接置かれていたこのなどが、声の歪の最も明らかな原因だと言える。(しかしCDでは、これを21世紀の録音技師プロのDjengo Hartlap氏がここまで出来るのかと思うほど修復してみせている)


Son répertoire est à l’époque très composite, mêlant les classiques intemporels (À Saint-Lazare d’Aristide Bruant, Madame Arthur d’Yvette Guilbert) et les succès du moment (Mon pote le gitan, Viens gosse de gosse), mais aussi des chansons originales... qui ne sont pas d’elle. «La Promenade» et «L’avenir est aux autres» sont l’œuvre d’Andrée Olga et de son mari Claude Sluys, fils de famille tenté par la poésie et la vie de bohème.
FigaroもLe Mondeも、結構こういうミスをする。Claude Sluysを夫と紹介しているのに、Andrée OlgaをBarbara自身と見抜けないなんて、フランスの評判の一般紙はBarbaraに関しては時々目を覆うほどいい加減だ。


Sur la place par Jacques Brel :


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2008-04-19 : 追記
「吃驚仰天」と言う言葉で、曙の結婚問題のときの高見山を思い出してしまった。とにかく吃驚仰天!
ーとすればBarbaraに歌えるまでのピアノの手ほどきをしたのは、グルジア人のEthery Rouchadzeだということになる。ー
と上の文中に書いている、そのEthery RouchadzeがNet上に顔出しで登場した。この情報は今日届いたLes amis de Barbaraの会報No.33から入手したもの。1952 BruxellesにおけるBarbaraを語る、当然のことながら、吃驚するほどのおばあさん!とても天才Pianisteだった女性とは思えない。(ただし若き日の面影はある)。
Le Expressのweb記事上にある。
LEXPRESS.fr du 20/11/2007
Rencontre avec
Ethery Rouchadzé, première pianiste de Barbara:


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この記事はBlog Correspondances(2008-04-19),にBruxellesが記入したものをこちらに移動したものです。

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L’atelier: Bruxelles 1954 (3)

Marcel Hastir 1954

画家Marcel Hastir氏は現在100歳を超えている。1937年以来彼のアトリエは若いアーティスト達の発表の場となっている。なんと70年を越える劇場である。若手日本人アーティストの中には、この場でコンサートを行った人も何人かいる筈だ。演目に関する規制は無い。1998年からは、2年毎に賞金2000ユーロのMarcel Hastir賞も制定されている。作曲家に与えられるこの賞に応募するには、国籍や年齢に関する制限は無い。作品演奏時間12分から20分までの弦楽四重奏曲が応募の対象となっている。


ただ逃げたかったためにBruxellesに行ったBarbaraに、友人も知人も、そして何かの当てがあったわけではない。最初のBruxelles行きは、八方塞がりの、絶望の果ての、どん底の”家出”なのだった。2度目のBruxellesでさまざまな才能や重要人物との、人生の第一転換とも言える出会いがあり、、幸運が重なって、しかも織物のように運命の糸が絡み合って、半世紀と数年を経て、2007年のCD「A L'Atelier Barbara 1954」が完成した。つまり歌手Barbara, une femme qui chante,の埋もれてもはや存在しないも同然だった原点が、夜のような雲を引き裂いて、物理的にCDという形をかりて立ち現れた、と言えるだろう。


Les Amis de Barbaraでは当初からBarbaraの人生を追調査するという目的のひとつを持っていた。数年前から現地、この場合はBruxellesに飛んで様様なインタビューや資料収集を独自に行っている。
会報18号(2004年夏号)では、このL'Atelierの主、Marcel Hastir氏をそのL'Atelierに訪ねてMarie Avilesがインタビューを試みている。


「僕のアトリエでのコンサートにいつも来ていた医者がいたんだ。その医者と知り合いになってね。彼の家の近くに若い女の子が住んでいて、確かポーランドかユーゴスラビアから来た子だったかなぁ」
「遠くから来た子で仕事を探していた。で、その医者が彼女を掃除や整理係に雇ったんだ。Sluysの家には実験室があった。彼は癌の専門医でね、本当にその実験器具を洗ったりする使用人が必要だったんだ。その子はとても感じのいい子で、住み込むようになって、実験室の整理整頓をしていた。つまりは、そうして医者の手伝いをしていたから、看護婦みたいな仕事にありついたわけだね」
「その子はね、ある特徴があって。ここにコンサートを聞きにやってきた医者が、ある日こう言ったんだ。『変わった子だよ、あの子。一日中ずっと歌を歌ってるんだよ』ってね。歌ばかり歌っている子で、声もいいのなら、このアトリエでその子のために何か企画してあげてもいいね、ってその医者に言ったんだ」
ーM.A.「じゃあ、此処での彼女のコンサートはあなたが言い出したんですか」ー
「そうそう。で彼が『じゃ、そうしようか』って言った。すんなり決まったよ。で、ある日僕が彼女に会いに行って彼女が歌うのを聞いた。彼女の部屋、つまり彼の実験室に行ったんだ。彼女はこんな風に歌った...。黙って聞いて、いける、と思った。とても素晴らしい声を持っていたからね。それで、リサイタルの準備をすることにしたんだ。パリにFerrierresと言う奴がいて、そいつはこういうシャンソンのリサイタルの準備の専門家でね、彼が準備万端、手筈を整えた。そのFerrieresをパリからブリュッセルに呼び寄せて、彼はここに一ヶ月いた。その一ヶ月間女の子も、ここに毎日やって来て彼と一緒にリハーサルやら何やらしたんだ。選曲やら曲順やらプログラムづくりやら。そして成功した。そうだね、その一ヶ月
の間に、その女の子はその医者の息子と恋に落ちたんだよ」

ーM.A.「クロードですか」-
「そうだ。それで、その女の子と彼の息子は結婚した。その後二人でパリに行ってしまった。息子はプロデューサーみたいになってね。彼は、彼女のために何か役立ちたかったんだよ。でもプロデューサーとして彼はいい仕事人とは言えなかった。とっても心の優しい子でね。彼女のプロデューサーとしては、ふさわしくなかった。二人は仲違いして、そして別れた。彼女だけParisに残った。彼女は、そうだね、早かったよ、その後すぐに成功したよ」
ーM.A.「Barbaraの思い出は、特に何かお持ちですか」ー
「大きな髪の黒い美人だったね。私の妻ともとても仲がよかった。本当に仲が良くて小さなビストロでOrval(ベルギービール)を飲むために二人でよく出かけたよ。彼女はそれが好きだったんだ。なんでもかんでもしゃべってたよ。ここで準備や練習をしていた頃、夕方になると時々ね、みんなで、ちょっとお出かけしたりしてね。短かったよ、そういう時期は。彼女はParisに行ってその続きをしたんだろうね。Bruxellesには戻らなかったんだからね」
ーM.A.「戻ってますよ。Bruxellesに」-
「そうだね。でも彼女はParisを選んで、そこで歌手としての生活を続けていった。いつも、彼女には才能があると思っていたよ。その才能は開いていった。でも一番最後には、ついに声がつぶれてしまっていたね。その後は声は元に戻らなかった。自分の作品を歌うことに関しては、特別な才能があった。知性もとりわけ、優れている娘だったね、彼女は」
ーM.A.「連絡はずっと取りあっていたのですか」ー
「いいや、Parisに去って、それからそのままになった。例外として一日だけ彼女はBruxellesに戻って来て、パレ・デ・ボザールでリサイタルをしたね」
「パレ・デ・ボザールは普通は流行歌のコンサートはしないし、厳しい演目の選択をするところなんだ。Barbaraは例外だった。Barbaraを例外的に暖かく無条件で迎え入れた。やってきた彼女も立派だった。こんなことを言ったんだよ。『親愛なる皆様、私はここに来ました。それも私をあのアトリエで歌わせてくださったHastir御夫妻のおかげです。歌手としてBruxellesに戻ってきてこの大劇場に立てるのは、あの時のご夫妻のお力添えのおかげです』と。優しいことを言ってくれたね。」
ーM.A.「そうですね。でも本当に彼女の成功の最初のきっかけをつくったのは、あなた、Hastirさんなのですね」ー
「そうだね」
ーM.A.「アトリエでは20曲ほど歌ったんですね」-
「そうだね。たくさん歌ったね。Ferrieres氏とMon pote le Gitanを何度も練習していたよ。素晴らしい歌手だとずっと思っていたよ。うん、素晴らしい女の子だったよ。あの子はね、ちょっと変わっていて、一人の時は全く一人なんだ。人々と共に生きるという生き方をしなかったね。...ホールを見せましょうか」


Marie AvilesはMarcel Hastirとのインタビューの後、会場に行きピアノ、座席、楽屋などを見ている。Marcel Hastirに会い、Barbaraの話を聞き、その思い出のAtelierを見て彼女がどれほど感動したか、私には良くわかる。しかし、この出会いがCD「A L'Atelier Barbara 1954」のスタートになるとは、この時まだ誰も知らない。

Marcel Hastirのアトリエでは2004年のこのインタビューの少し前には、Amnesty Internationalの支援の元BIRMANIE Ce que cachent les pagodasと言うミャンマーの亡命者や政治囚救済のための集いを行っている。ここはレジスタンスの時代から多くの政治的被害者をかくまってきた砦でもある。

参考資料  : Les amis de Barbara 会報 
2004年夏、第18号
L’atelier: Bruxelles 1954 : PLANETE BARBARA 過去記事
・・・・・・・L’atelier: Bruxelles 1954 (3) par Bruxelles・・・・・・・


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追記: 4月10日
2005年にTV放映されたChristian Mesnilの Les chemins de Barbara を見ていたらMarcel HastirのL'Atelierの内部が映し出されていた。それだけでなくMarcel HastirがBarbaraを語る映像も流れたので吃驚した。このLes chemins de BarbaraはBarbaraの生前からすでに企画されていたが、Barbaraが自伝を書いてからと希望したので、着手がストップしていた。Barbaraが突然死したのでChristian Mesnilは、改めてBarbaraの兄Jean Serfに許可を取らなければならなくなった。その辺のことはまた機会を改めて「Les chemins de Barbara」について触れる時に詳しく書いてみたい。


追記: 4月11日
この辺が追調査の難しいところだが、ClaudeとBarbaraの出会いに関して、Marcel Hastirの発言と正統と判断されている資料の間に幾分食い違いがある。BarbaraとClaudeは1953年に既に結婚しているのだ。
この初めてのリサイタルでBarbaraはBrelのSur la placeを歌っているが、1954年、つまり同年のこれより少し前にBarbaraはBrelと初めて出合って、そしてこのSur la placeをBrel自身から「もらって」いる。1954年1955年と言う年は「Chaval Blanc」閉鎖後、ClaudeとBarbaraがParisとBruxellesをしきりに行ったり来たりする慌しい時期なのだ。
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この記事はBlog Correspondances(2008-04-09),にBruxellesが記入したものをこちらに移動したものです。


L’atelier: Bruxelles 1954 (2)

BARBARA à l'Atelier, Bruxelles 1954
を入手した。Merci Jacques !
その内容の16曲はこちら。
Francois Faurant. free.fr
Marie Avilès と Bernard Merle 
(どちらもLes Amis de Barbaraの重鎮)が書いた
34ペイジの小冊子が付いている。
Marcel Hastirの有名なアトリエで行われた
最初のほとんど幻のBarbaraデビュー・コンサート。
場所は51 rue du commerce à Bruxelles
これを録音して今回のレコード化に貢献したのは
Jacques Vynckier氏。
古い古いオープンリールのテイプレコーダーで
Jacques Vynckier氏が録音した。
もしこのテイプが保存されていなかったら今回のこのCDは
そしてそのコンサートは、存在しなかったことになる。
聴いてみると音は驚くほどよい。
Barbaraの声はまだBarbaraではない。
レクリューズで撥ねられた、声楽を学びました、という発声である。
しかし、栴檀(センダン)は双葉より芳し、
の片鱗は、その声に充分感じられる。
Jacques Vynckier氏についてはすでに
Correspondancesで紹介済み。
Correspondances 2007-11-06 ;
Marcel Hastirのアトリエでは現在も
様様なコンサートや展覧会が行われている。
Les Amis de Barbaraでは、3,4年前に
このMarcel Hastir氏の独占インタビューを
行っているので、その資料もある。
Barbaraの自伝にその名が登場した時から
その正体を必死に探してきた
Angèle Guller
果たした役割も次第に明らかになってきた。
このコンサートにはClaude Sluysも勿論深くかかわっている。
全く無名のBarbaraが1955年に
Bruxellesで78回転の幻のとも言える
レコードデビューが出来たのも
実はこのコンサートがきっかけとなったのだった。
このレコードデビューには
Angèle Gullerが深くかかわっている。
Barbara幻の最初の78回転モノラルは
Francois FaurantのSiteで。
2曲歌っている中の1曲「 L'œillet blanc 」は
レクリューズの共同経営者の一人Brigitte Sabouraud
作詞・作曲の作品である。
先に紹介した
Christian MesnilのFilm「Les Chemin de Barbara」
では多くの人が顔出しでインタビューに応じている。
Les Amis de Barbaraにはそれらを文字化した資料も多い。
今回のこのCDを軸にしたBarbaraのBruxelles時代を
Music Cross Talkに記事化したいと思っているが
資料が多くて資料の読み込みに時間を要するので
書き始めるのは再び枯葉の散る頃になりそうだ。

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この記事はBlog Correspondances(2008年02月15日),にBruxellesが記入したものをこちらに移動したものです。

L’atelier: Bruxelles 1954 (1)

Jacques 1


≪ BARBARA A L’ATELIER. BRUXELLES 1954 ≫
Un livre-disque comprenant un livret de 32
pages illustrees et un CD de 14 titres enregistres
lors d’une repetition de 1954. La plus ancienne
archive sonore connue de Barbara.
Sortie le 9 novembre

写真の人物はJacques Vynckierという。BarbaraがClaude Sluysと結婚していたBruxelles時代、二人はよくこのJacques Vynckierの家で食事した。BarbaraがMarianne OswaldやEdith Piafの曲と出会って、彼女の歌の世界を少しずつ広げていったのは、このJacquesの家でだった。ベルギーに来たころのBarbaraにはレパートリーも1,2曲しかなかった。
Barbaraは画家のMarcel Hastirのアトリエで1954年小さなコンサートを開いた。1954年10月1日のそのコンサートのリハーサルの模様をこのJacquesが密かに録音していた。半世紀以上たった今、そのJacquesの秘蔵録音が今回CDとなる。
14曲入りのCDと小さな32頁の書物がついて17ユーロ、11月9日発売になる。
表紙のBarbara,1954年,ふっくら顔のBarbara
勿論、Barbaraの音声記録としては、最古のものである。

前頁に書いている、Monsieur MurataにParisで
買ってきていただいた本の中には、Ethery RouchadzeとBarbaraとこのJacques Vynckierが三人仲良く微笑んでいる1953年の写真が掲載されている。Barbara同様、言うまでもなくこのJacques Vynckier氏も上の写真とは違って物凄く若い。

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この記事はBlog Correspondances(2007年11月06日),にBruxellesが記入したものをこちらに移動したものです。


bruxellesさん頑張ってます。

bruxellesさん頑張ってます。 投稿者: なまはげ 2004/11/27 22:47:05

最近のmusic cross talkの内容の濃さに感激してます。bruxellesさんの努力に感謝してます。(目疲れますよねPCの画面は)

バルバラの2DVD「une longue dame brune」バルバラファンにとっては貴重です。9/10にbruxellesさんが紹介したように1枚目がDiscoramaからがほとんどです。44曲中36曲が白黒で残り8曲がカラーです。年代は1958年~1975年までです。バルバラの顔のドアップやインタビューに答えるバルバラ(結構おしゃべりですね)はファンにとってはお宝映像です。特に4曲目に入っている1962年の映像「Fleurs de meninges」(空想の花)ムスタキとのデュエット曲が最近このbbsで話題になっているムスタキ・レジアニ・バルバラの関係にヒットです。
ムスタキもまだ髭がなく最初誰かと思いました。二人ともパテ・マルコニ時代ですね。この時代この曲を二人で歌っているというのは初めて知りました。蒲田耕二氏は「La dame brune」の解説にベルギー時代以来のつきあいと書いてある。かなり以前より知り合いだったんですね。当人同士は良かったんでしょうが取巻き(特にレコード会社)の利害関係に巻き込まれたんでしょうね。この曲は1969年のバルバラのオランピアライブにゲストとしてよばれデュエットし好評を得た。その後皆さん知ってるようにバルバラがアルバム「不倫」にムスタキが「ムスタキⅣ」で発表してます。
ムスタキのあるレコードライナーには1966年バルバラがレジアニと地方公演(ベルギー・スイス・ソヴィエト)に行く時にムスタキも誘われたと(ムスタキが行ったという証拠はナイ)。この頃バルバラの紹介でムスタキとレジアニは知り合ったのでは?その年の12月にバルバラと共にボビノに出た。その後レジアニはムスタキの曲を歌ったと。実際1968年ボビノで「私の孤独」を歌って大成功してます。
話がDVDからそれました。
2枚目は1978年の映画10曲pantin81から「黒い鷲」chatelet87から「l'ile aux mimosas」そして最後に1996年のラストアルバム制作風景「Precy Jardin」。
自宅の中の様子やバルバラのアルバムの制作過程がよくわかります。これはmusic cross talkのbarbaraと住居(1)を参考にするとよくわかります。自宅にRUE de la Grange an Loup(オオカミの納屋)の青い表札が貼ってます。この自宅のスタジオには大きなポスターが何枚か。気になったのがピアノの後の壁に1枚はモガドールのライブアルバムジャケットと同じポスター。もう1枚がLily PassionのポスターでGerard Depardieuに寄りかかっているバルバラのもの。そのポスターを背負ってバルバラはピアノに向かって演奏してます。
個々のミュージシャンにバルバラのイメージ通り演奏してくれるまで根気強く納得するまで続けるバルバラ。イメージ通りの音が出来ると嬉しそうに満足するバルバラの顔。残念ながらこの最後のアルバムに取り組んでいるバルバラは病気の治療の薬のためか昔のイメージとはかけはなれまんまるな体形になってました。気になっていた右手も映ってましたがはっきりわからずPCでは限度が。

バルバラファンにとっては約4時間(2時間30分+1時間30分)楽しめるし貴重な資料になると思います。ライブを楽しみたい方はPantin81とChatelet87のDVDで。

こんにちは 投稿者: や


こんにちは 投稿者: や 2004/09/19 08:41:18

東京で出ているフランス語情報紙で「フラン・パルレ」というのがありますが、今月号のトップが、マリ=ポール・ベルさんでした。わたしも京都のコンサートに行きましたが、シンプルで小粋でとても楽しみました。
http://franc-parler.main.jp/
あと、わたしの友人で、1970年代の始めにイタリアで勉強していた人がローマでバルバラのコンサートに行ったと言っていました。お隣の国ですし、彼女の活動の盛んな頃にはたぶんイタリアでもそうして演奏していたのでしょうけれど、日本もそうですが、今は忘れられてしまったのですね。
お知らせまで。

14日発売予定のダブルDVDの内容


14日発売予定のダブルDVDの内容 投稿者: Bruxelles 2004/09/10 17:03:05

1978年Francois Reichenbachが「Barbara(45分)」という映画を撮っている。期間はオランピア1978年2月4日~26日、と地方公演約2ヶ月間、場面はライブ、楽屋、そしてファンと一緒のBarbara。TV放映はTF1で1979年11月27日と再放送1981年7月1日。これがDVDにはいる。他に1996年Precyの自宅での最後のCDの制作模様、そしてご存知Denise GlaserのDiscorama出演から抜粋、その他の映像。未発表曲2曲を含む4時間のMusique。

こんなCD

こんなCD 投稿者: ABC 2004/08/28 00:50:41

こんなCD見つけたので、バルバラファンの皆様にお知らせします。「BARBARA concerts musicorama 」
これは、3枚組みで{INEDITS}と小さく書かれていました。驚いたことに、1599円という嘘みたいなお値段。
HMVで扱っています。録音はライブであることを考慮にいれても、やや??ですが、1969年オランピア(2月 4日 )での録音で、2枚にわたり、39曲も歌っています。あとの一枚は1964-1974のライブから抄録したものです。オランピアでは、バルバラがたくさん喋ったりしていますが、もちろん私には判りません。判る方教えて下さい。
雰囲気の感じられる未発表のものなので、もうとっくに
ご存知の方もあるかも知れませんが、あえて、カキコしました。

バルバラのコンサート


バルバラのコンサート 投稿者: BARABARA 2004/08/17 00:14:41

私はバルバラが初来日した時(1970年の第一回東京国際歌謡音楽祭)は、ステージを見ていません。あまり他都市は回らないで、すぐ帰ってしまわれた印象しかありません。丁度、「黒い鷲」がフランス国内でヒットした頃です。その5年前、1965年にバルバラは「私自身のためのシャンソン」でACCディスク大賞を受け、永田文夫氏の努力でまもなく日本ででも、発売されました。
そのLPを何時頃私が聞いたのか、よく判らないのですが、次第にバルバラの魅力に惹かれていきました。
1975年石井好子さんのプロモーションによって、バルバラは来日しました。6月4日から、9日まで、東京4日間、大阪、福岡各1日の6回公演で、私は、大阪フェスティバルホールで聞きました。45才のバルバラがどんなに美しく、年齢と共に更に翳りの深まった声を聞かせてくれたか、「脱帽」から始まって終りの「ピエール」「孤独のスケッチ」「黒い鷲」「ナントに雨が降る」まで25曲、至福の時間を過ごさせていただきました。例の「わが麗しき恋物語」では、ピアノの前から立ち上がり、切々と、訴えかけるように、みんなの顔一人一人をみつめるようにして歌いました。彼女はこのあと、13年後に私たちの前に姿を現しますが、声が痛々しいぐらいに、かすれていました。(この時の思い出はまた改めて書くことがあると。)結局、3回だけの公演だけだったように思います。4回の予定が、体調が悪くて、初日が直前キャンセルされた、と当時の、「アサヒグラフ」に書いてあります。今から思えば、このとき、すでに「死」が近づきつつあったのでしょう。10年足らずで彼女の訃報を私たちは聞くことになりますが、最後の数年間どのような苦しみがあったのか、はこのバルバラのサイトが次第に明らかにして下さるでしょう。

Marie-paule belleのコンサート

投稿者: なまはげ 2004/07/17 22:32:38

8ヶ月間はあっという間に過ぎました。12時57分まもなくマリ・ポール・ベルが秋田駅に着く。レクリューズの会員10名位でのお迎え。改札を真っ赤な薔薇の花を抱えて出てきた彼女の笑顔を見て待ちに待った瞬間の記憶はここからストップ。引率の加藤さん(日仏シャンソン協会代表)マネージャのミッシェルさん照明のウィリアムさんの3名同伴。皆興奮状態のまま宿泊先のホテルへ。チェックイン・昼食を済ませ予定より30分早く会場のアトリオン音楽ホールへ。
照明・音響等の専門職以外はレクリューズの会員がスタッフという手作りコンサート。(チケット・ポスター・プログラム等も)会場の準備も終了。リハーサル(大野修平さんのひとりごと7月13日にリハの事書いてます)は前日の東京で時間が結構かかったという事で30分早めたが上手くいくか心配でしたが時間内に終了。最終ミーティングを軽い食事を取りながら済ませ各自の持場へ。
自由席ということで開場1時間前からお客さんが来ていて予定より30分早く開場。いよいよ開演。第1部(オリジナル)注目の1曲目は当初の予定を変更し1973年Accディスク大賞の中に入っている「ヴォルフガングと私」(今回のプログラムにはありませんでした)でした。レクリューズの会でもマリ・ポール・ベルのオリジナルはかなり事前学習はしたつもりですがなかなか憶えきれずにいた。ほとんどのお客さんはもっとわからずに聴かれたと思います。ですから第2部に入る前に多くの方が帰られるのではと心配しましたが大丈夫でした。ピアノだけでお客さんを飽きさせずスローな曲アップテンポの曲をおりまぜ楽しい1部でした。最後はパリジェンヌで1部が終了。マリ・ポール・ベルのピアノのテクニック素晴らしかったです。それと単純な照明のようでしたが天井の高いこのアトリオンのホールの会場ではフランス仕込みのテクニックが必要みたいでした。自分としては「カフェ・ルノアール」を聴きたかったのですが。休憩中はCD販売の手伝い。輸入盤「マリ・ポール・ベル シャンテバルバラ」のみでしたが最終的に90枚用意したうち80枚が売れました。
第2部のバルバラを歌うはトワで始った。オリジナルよりは知っている曲が多い分声援や拍手が多かった。ドルオー・ナント・リヨン駅・小さなカンタータ・ゲッティンゲンの曲で。会場全体で一緒に歌った「いつ帰ってくるの」で盛り上がりました。スタンディングオーベーション・ブラヴォー・拍手の嵐ここでレクリューズの会から花束(幹事の一人のお嬢さん)。「お菓子屋の娘」の後30人位から薔薇の花一輪づつマリ・ポール・ベルへ。アンコールに応えて最後に歌ったのがバルバラへのオマージュ曲「もうひとつの光(UNA AUTRE LUMIERE)」
偉大な歌手、バラバラの死はあまりにも早すぎた。世を去る少し前に会ったことがあるけれどもっと友達になりたかった。バルバラよ、蘇りなさい。あなたの声は夏の太陽のようにいつまでも輝いているわ。(大意訳・長南博文氏)
あっという間2時間かからず中身の濃いコンサートは終了しました。
終了後10分してマリ・ポール・ベルはロビーへ、CD購入の方へサインをしに来たのです。疲れも見せずににこやかに一人一人にサインを20分位。会場の最後の片付けを終了させ打上げ会場のホテルへ移動。
打上げは9時30分から30人位で行なわれた。途中からマリ・ポール・ベル、ミシェル、ウィリアムの3人が参加改めての乾杯。しかしこの3人ビールがよほど好きらしい。昼食時にもジョッキで飲んでいた。(日本のワインはまずいからかな?)それと箸の使い方が3人とも上手だった。マリー・ポール・ベルは1時間位で部屋に戻ったがミッシェルとウィリアムは最後までいた。日にちが変わったところで打上げも終了。

1時から竿灯祭りの竿灯を展示しているねぶり流し館で竿灯を見学その後昼食に稲庭うどん&きりたんぽを。それから秋田空港へ(自分はここから参加)5時の飛行機で名古屋へ。無事見送る事が出来てひと安心。

マリ・ポール・ベルはとても神経質だと聞いていたので色々と心配していましたが気さくで何のトラブルもなく無事公演が終り気が抜けた状態です。bruxellesさんミレミルさんレポート遅くないましたがこんなとこでよろしいでしょうか?質問等ありましたらカキコして下さい。

「あなたのお力になる」と言ったバルバラその通りですね。日本に連れて来たのはある意味バルバラなのだから。bruxellesさん納得です。ラジオ出演は無しです。

マリ・ポール・ベルのサインから2枚のLPに。
1枚にはずっと以前からファンでありがとう。もう1枚には「 A bientot 」と。



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投稿者: bruxelles 2004/07/18 16:41:54

なまはげ様、レクリューズの会の皆様、お疲れ様でした。そして有難うございます。
待ちに待ったリポート手に取るように状況が見えて楽しかったです。大変なことを成し遂げられました。お疲れのところリポートお願いしてすみませんでした。
マリー・ポール、バルバラファン以外にはおそらく無名でしょうし、リスク大きかったと思います。マリー・ポール、バルバラのこと何か語りましたか?楽しい思い出を持って帰ってくれてよかったです。
なまはげ様お疲れのところ、レポートほんとに有難うございました。
・・・・・・・・・・・・・・
une autre lumiereの大意訳、偉大な歌手バルバラと、バルバラよ蘇りなさい、は歌詞にないです。あなたの声は、の一行だけが歌詞にありますが、一行だけでは大意にならない。それにマリー・ポールが、バルバラよ蘇りなさい、とは歌わないと思います。ここは
Rappelle toi Barbara
Nous a dit Prevert
例のプレヴェールの「バルバラ」の引用で、思い出しておくれ、バルバラとプレヴェールは私たちに言った、くらいの意味。


RAFFAELLA BENETTI CANTA BARBARA

CD紹介「FEMME PIANO」 RAFFAELLA BENETTI CANTA BARBARA 2004/09/13
ラファエラ・ベネッティ バルバラを歌う

Barbaraを一人でも多くの人に知ってほしい。-イタリアにもBruxellesのような人がいた。この人はBruxellesよりも若く、才能があり、プロの歌手でプロの演劇人でもある。収録場所はTEATRO CAMPLOY VERONA 日時は2002年11月28日。イタリア語で歌われている訳は、RAFFAELLA自身の訳。Chapeau Basから始まって、Dis Quand Reviendras-Tu?,Drouot,Gottingen,La Solitude,Joyeux Noel, L'aigle Noirなど全16曲。バルバラの写真とバルバラの紹介文もありオマージュであることがわかる。
かなり歌いこんでいて、自分の作品にしている。熟成が感じられる。Barbaraが聞いても微笑んで握手を求めてくるだろう。私もこのへんの曲をピアノ伴奏で歌ったことがあるが意外や意外、L'aigle NoirとMa plus belle histoire d'amourが一番手が届きにくい。彼女の場合も(素人と同じにして申し訳ないが)どちらかというと、この2曲が物足りない。-
9歳から18歳までダンスを、その後歌と演劇を学ぶ。1993年VERONA ABACO音楽院の声楽科を卒業。スタイルはピアノ、又はアコーデオン、ギター又はその複合のバックを伴って歌う。レパートリーはBrel,Brassens,Edith Piaf,等のシャンソン、ドイツ語ではWeill,Eisler,Dessau,米国関係ではGershwin,Joplin,Ives,Copland等。
女流詩人Emily Dickinsonの作品及び人生を舞踏劇にした「Emily」の原作者、出演者でもある。
子供向きの戯曲、シャンソンを多数発表している。Barbara以外の活動についてはwww.raffaellabenetti.netにより詳しくでている。
Merci Beaucoup RAFFAELLA!! (文責 Bruxelles)


石井好子コンサートのお知らせ

石井好子コンサートのお知らせ 石井好子・小原孝「逢えてよかったね2」 2004/09/04
石井好子歌手生活60周年・小原孝コンサート開始10周年記念

日時:2004年10月27日(水)18時会場18時30分開演

場所:Bunkamuraシアターコクーン

料金:全席指定8000円

制作:ネオ・ムスク フリーパーツ
主催:TBSラジオ 東京音協

チケット:東京音協、チケットぴあ、ローソンチケット、CNプレイガイド、e+、文化村チケットセンター

お問い合わせ:東京音協:03-3201-8116、 石井好子コンサート事務局:03-3533-1300 、小原孝コンサート事務局FAX受付:044-833-6562

ゲスト:古川展生(チェリスト)

古川氏と小原氏とでドビッシーの曲の演奏、さらに
石井氏の「モン・デュー」「水に流して」との共演等など。石井氏は今回特に、1960年中村八大氏が石井氏のために書き下ろされたオリジナル曲を公開予定。

10月27日は文化村シアターコクーンへ、急ぎましょう!!(文責Bruxelles)

石井好子・80歳の交響曲

DVD紹介 石井好子・80歳の交響曲 2004/08/10
NEAVA NMV-001 79分 8月新発売 3500円

「80歳の」と付いているのは、前半、2002年11月4日、昭和女子大学人見記念講堂で行われた、東京交響楽団とのコンサートが収録されているためだ。交響楽団をバックに「愛の賛歌」から、途中1曲「ムーラン・ルージュの唄」の演奏を入れて「二人の恋人」まで10曲歌われている。沢山のレパートリーから10曲に絞り込むのは決断の連続だっただろう。全国北から南まで日本のシャンソニエで歌われているシャンソンの、初源であり集約を聞く気がする。この時間と空間そして、シャンソンという言葉の持つイメージは石井好子が作り上げ発するイメージそのものかもしれない。

石井好子がナチュリスト出演中、渡仏した今日出海氏は「フィナーレで一人出てきたときは立派な土俵入りだったよ」とからかわれたそうだ。が敗戦後意気消沈している日本人の目に、沢山の西洋人の出演者をはべらせて、中央に立つ石井好子の姿はプロレスの力道山以上に日本人を鼓舞したのではないだろうか。さらにフランスシャンソン界の人々に、日本人シャンソン歌手のイメージをたった一人で醸造、具現し続けているのではないだろうか。

後半は「ROBAは一日にして成らず」というタイトルで数々の写真を元に石井好子自らが人生を語る。ROBAというのはミスプリではなくシャレである。こういうところが懐の深さ。しかも並みの人間では決して許容できないインパクトのある言葉遊びだ。脱帽。
ブックレットが付いていて著作出版物、LP、CDのdiscography等もあるが、それだけでは、やはり収まりきれない。大正11年からの日本のカルチャー史そのものを集約した存在であるということも、この「ROBA]を通して実感させられる。
写真に登場するキラ星の如き人生の共演者達の名をごくごく一部列挙して、皆様の想像力を刺激してみよう。
石井光次郎、石橋正二郎、服部良一、山本富士子、三島由紀夫、ルイ・アームストロング、ジョセフィン・ベーカー、中原淳一、ピエール・カルダン、イブ・モンタン、宋美齢、朝吹登水子、サルトル、ボーヴォワール、ジャコメッティー、岸恵子、小林秀雄、佐藤栄作、石原慎太郎、藤田嗣治、etc.,etc.,etc., 人生まさに桁外れのスケール

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そしてその中に石井好子と向き合って会話中のバルバラの写真。石井音楽事務所社長時代の’75年、45歳ほとんど絶頂期のバルバラを日本に招聘してくださった。Bruxellesとしてでなく、PLANETE BARBARAを代表して、改めてここに心から感謝を申し上げたい。 
 (文責Bruxelles)

マリー・ポール・ベル秋田公演のお知らせ

コンサート MARIE PAULE BELLE 2004/05/19
マリー・ポール・ベル秋田公演のお知らせ

マリー・ポール・ベル シャンソン・リサイタル
時:7月13日(火)PM6:30より(開演6:00)
所:秋田市アトリオン音楽ホール
チケット/4000円(税込)全席自由
主催/FM秋田・秋田シャンソンファンクラブL’ECLUSE

前半オリジナル曲/後半バルバラの曲を歌う予定です。
他のところでも公演がありますが日本人歌手の方が前座に出る予定で秋田のみマリー・ポール・ベル一人の公演です。(秋田ではいっぱい曲が聞けます。)

宜しくお願いします。チケット欲しい方はなまはげまでメールでご連絡下さい. マリー・ポール・ベルについては、BBSに紹介文あり。BBSに当日プログラムの曲目紹介もあります。(planetebarbaraにメイルいただければ転送いたします) L'ecluseの会 なまはげ


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