PLANETEに戻る

Latest Entries

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「La dame brune」の本歌

情報・参照資料 「La dame brune」の本歌 2004/12/06
「AU CLAIR DE LA LUNE(月の明かりに)」

1.Au clair de la lune
Mon ami Pierrot
Prete-moi ta plume
Pour ecrire un mot
Ma chandelle est morte
Je n'ai plus de feu
Ouvre-moi ta porte
Pour l'amour de Dieu

2. Au clair de la lune
Pierrot repondit
Je n'ai pas de plume
Je suis dans mon lit
Va chez la voisine
Je crois qu'elle y est
Car dans la cuisine
On bat le briquet

1. 月の明かりに
  わが友ピエロさん
  あなたのペンを貸して
  ひと言書くために 
  わたしのろうそくは消えた
  もう火がないんです
  どうかドアを開けてください
  どうぞお願いだから

2. 月の明かりで
  ピエロは答えた 
  ペンはないよ
  わたしはベッドにいるんだ
  隣りの女の所に行きな
  いると思うよ
  台所のほうで
  火打石を打っているから
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
参考のために「La dame brune」の本歌と言われている「月の明かりに」を書き出してみました。

ムスタキとのデュエット曲はもうひとつ「La Ligne Droite(いつか戻り来る人)」があります。「Amours Incestueuses」のB面3曲目に入っています。ムスタキが作詞作曲をして1番を歌い、その後バルバラが完全にバルバラ風の作曲をして2番を歌うと言う、大変大胆な試みの曲です。二人の音楽世界の違いがイヤというほど突出して耳で確認できます。もし未聴の方がいらっしゃれば、ぜひ一度お聞きください。お薦めします。


スポンサーサイト

Laurenceに捧げた”夢”

情報・読み物 Laurenceに捧げた”夢” 2004/11/11
「L'aigle Noir」の誕生

"L'aigle noir c'est une chanson que j'ai revee:j'ai fait un jour un reve,bien plus beau que la chanson, ou j'ai vu descendre cet aigle, et je l'ai ensuite donnee a une petite fille de quatre ans, Laurence, qui etait ma niece. Apres ce reve,il m'est vraiment arrive des choses extraordinaires!
”黒いわし”あれは、私が見た夢です。ある日夢を見ました。歌詞に描ききれなかった程素晴らしい夢でした。あの鷲が現れて近くに降りてきたのです。曲にしてすぐに4歳の女の子にプレゼントしました。Laurence、私の姪です。あの夢を見て曲を書いた後、本当に奇跡のように素晴らしいことが私に次々と起こりました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1993年1月2日、Alice Donaの音楽学校で、80人の生徒たちを前にBarbaraが語った内容の記録より。

・・・・・(略)・・・・・・・
Dis l'oiseau oh dis emmene-moi
Retournons au pays d'autre fois
・・・・・(略)・・・・・・・
Comme avant allumer le soleil
Etre faiseur de pluie
Et faire des merveilles
・・・・・・(略)・・・・・・・
ねえ、あなた 私をここから連れ去って
昔いたもうひとつの国へ 一緒に帰りましょう
   ・・・・・・(略)・・・・・・・
昔のように 太陽に点火したり
雨を作り出したり それから
奇跡のように 素晴らしいことを 引き起こすために
   ・・・・・・(略)・・・・・・・

そして空前の、天に昇りつめたような、奇跡の大ヒット曲が生まれた・・・。


GOTTINGENの成立過程(最終回)

情報・読み物 GOTTINGENの成立過程(最終回) 2004/10/31
「GOTTINGEN」の誕生 by Barbara & Bruxelles

「Gottingen」は帰った後parisで完成させた。
Claude Dejacquesは、曲を聴いて次のレコードに入れるべきだと判断した。この「Gottingen」という曲はGunther Kleinの執拗な熱意がなければ、そして10人のドイツ人の逞しい学生達がいなければ、思いやりのある老婦人がピアノを貸してくれなければ、決して生まれなかった。
ゲッチンゲンのブロンドの子供たち。和解して手を取り合おうという強い願望、すべてに感謝。そしてこの感動を決して忘れまいと思う。
いつものようにこの曲は観衆聴衆の方々、今回の場合はJungen Theaterの素晴らしく暖かな心を持つ観客の皆様のおかげで誕生することが出来た。
  「Il etait un piano noir...」P.168
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「Gottingen」は1965年7月Blanquiスタジオにて録音され同年9月発売の「BARBARA」に収録された。1967年10月特別なコンサートとしてGottingenに戻り客席1500の、完成したばかりのピカピカのStadshalleの舞台に立った。France Inter局がこのコンサートを実況放送した。この時初めてドイツ語でGottingenを歌った。観衆は立ち上がり数分間にわたる拍手を惜しみなく送り続けた。今回理想のピアノがその場にあったが、あいにくBarbaraは風邪で体調を崩していた。ピアノ伴奏Barbara、ベイスMichel Gaudry、アコーディオンRoland Romanelli。今回がRomanelli,Barbaraとの初仕事、初登場である。前任者の名はJoss Baselli,彼はPatachouの伴奏者となって去った。Gottingenも以後バルバラの演目から決してはずされることのない曲となった。
なを「Gottingen」は当初から反戦歌としてあるいは独仏友好の象徴とみなされていたわけではない。フランスでは当初単にGottingenのPRソングか、としか思われていなかったしまた評価も低かった。
この曲を通してBarbaraにドイツ連邦から国家間友好功労勲章が贈られたのは、1986年のことだ。(おわり)

GOTTINGENの成立過程(2)

情報・読み物 GOTTINGENの成立過程(2) 2004/10/31
わだかまりが感激に変わる時

Guntherは急に立ち去った。そして上手なフランス語を話す楽しげな10人の学生達と一緒に戻ってきた。彼らの中の一人が、コンサート用のピアノを貸してくれそうな老婦人を知っているという。その10人の学生達がその婦人のピアノをここまで運んでくると申し出てくれた。それは多くの時間とかなりのきつい労力を必要とすることだった。公演は8時30分開演予定だった。

Guntherは驚いている観客に遅延とその理由を説明した。観客たちは我慢して待つことに決めたようだった。
私は時とともに打ちひしがれた。時とともに怯えを感じた。一人取り残されたように感じてしまった。リハーサルもしていないままだ。
22時。ついに。大きな逞しい10人のブロンドのドイツ人の学生達によってJungen Theaterの小さな舞台に、黒のコンサート用ピアノが運び込まれた。ずっと後になって知ったのだが、この10人の中に未来の有名な俳優もいたらしい。

その夜の公演は素晴らしく感動的なものになった。Guntherは契約を一週間延長した。翌日その学生たちは私にGottingenの見物をさせてくれた。私はグリム兄弟の家を見た。子供の頃慣れ親しんだ童話がここで書かれたのだ。{訳者注:グリム兄弟は共にゲッチンゲンの大学教授であった。7教授事件の中の2教授が彼ら二人。事件の後ゲッチンゲンを去る。ベルリン大学に招聘され、その地で没す}

私は滞在の最終日の午後、劇場に隣接する小さな庭でGottingenを走り書きした。コンサートの最終日の夜、未完成の言い訳をしながら、まだ本当に未完のメロディーに言葉を乗せてメモを見ながら、「Gottingen」を声に出して歌った。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  「Il etait un piano noir...」P.167 & P.168


GOTTINGENの成立過程(1)

情報・読み物 GOTTINGENの成立過程(1) 2004/10/30
最初から私はごねた

1964年の初めゲッチンゲンのJungen Theaterの若い支配人Gunther KleinがL'Ecluseにやってきて私に出演を依頼した。私は断った。よりによってドイツに行って歌うなんて、何を好んで。Guntherは諦めない。100席ある劇場のこと、私を待っている学生たちのことを熱心に話す。
「Gottingenで私のことを知ってる人が何人おりまんのでっか?」「学生たちは貴方のことをみんな知っています」「私はドイツになんか行きたくありましぇん」
にもかかわらず、ともかく明日まで考えさせてほしいと提案した。その翌日私は唐突に何を思ったかGuntherにウイと言ってしまった。条件は黒のグランドピアノを用意すること。Guntherは了解した。公演は7月と決まった。
「Il etait un piano noir...」P.162

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ナントが「ナントの勅令1598年」で有名なようにGottingenは「ゲッチンゲン7教授事件1837年」で有名な大学都市。ドイツなんて、と思ったのは、癒しがたい戦争の思い出があるからだろう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1964年7月私はGottingenに向かった。一人で。そして、この仕事を請けたことに既に腹立たしさを感じていた。列車を降りたところでGunther Kleinが出迎えてくれた。いつもの情熱的な態度で。車で劇場に行く前に、この季節のこの街は素晴らしいから、街の要所を案内したいと言った。案内されながら、私は目を閉じていた。何も目にしたくなんかなかった。今夜の出演なのだから直接劇場に行って頂戴と、お願いした。
Jungen Theaterの小さな舞台には二つの銀の燭台が飾られた巨大な古いアップライトのピアノが鎮座していた。
私はいつものように61cmの高さにしたイスに座ってこの巨大なピアノを前にすると、ほとんど会場も何も見えなかった。彼と二人でこの重いピアノを少し動かそうと努力したけれど、うまくいかない。これでは聴衆が見えないし、こちらも見てもらえない。
Guntherは努力して歯医者用のイスを探し、特別に自分の手でペンキまで塗ったのだと言った。そして、彼がL'Ecluseにやって来たとき私はあそこではアップライトピアノで弾いていたではないかと指摘した。
「そう。でも配置が違うでしょう。それにピアノは契約の条件だったでしょう。黒のセミグランドピアノ。守っていただかなければ」
そして言った。こんなピアノで歌うなんてことは私には出来ません。Guntherはごめんなさいと謝った。しかしこのピアノで我慢してほしいと言った。イヤです!Non!私は会場の一列目に降りて行って座った。パリで約束した黒のコンサート用のピアノでなければ、ここを動きませんと、繰り返し繰り返しGuntherに言った。これは気まぐれではない。私にとっては、この何も見えなくなってしまう巨大ピアノで弾くことは、絶対的不可能なのだ。
Guntherが私を見た。私の目には彼が少しづつ小さくなっていくように見えた。彼も降りてきて私の隣に座った。そしてGottingenでは昨夜からピアノ運搬業者がストに突入していることを告げた。
「ピアノ運搬業者のストですって?」
吃驚仰天天地転倒。さっきまでの怒りが悲しみに変わった。
  「Il etait un piano noir...」P.165 & P.166
  

ナント成立過程(最終回)

情報・読み物 ナント成立過程(最終回) 2004/10/07
「ナント」の誕生...

家に入る。母は肘掛け椅子に横たわっていた。疲れ果て,不安げに。
「埋葬に行ってきました。土の中に...」
私はその場に力なく崩れ落ちた。母の無関心な表情の下に、耐え難い苦しみが隠れているのを思って、内容を選択しながら話した。でも時々、誰かに向かってわっと叫びたい気持ちを抑えることが出来なかった。助けてくれる人も、理解してくれる人もいない、この状況に悲しみが溢れそうになった。突然気がつくと私は母にヴヴワイエ(他人行儀な話し方)で話していた。まるで見知らぬ人に話すように。多分母と距離を取ろうと、心理的距離を置いて話そうとしたのだと思う。母は状況が把握できないでいた。私も母もこの時が転換期だったと後に話題にすることはないだろう、が二人の関係はこの時から変わるのだ。お互いの立場の変化がどうのこうのと明快に正確に分析する能力は私にはないとしても。母を愛するには辛い思い出が多すぎたとは言え、私は母をいつも熱愛していた。私はその母に対してお互いの甘えを絶とうとした。一方母は「手に負えない娘」と呼んでいた私に対して、理解できなかった子供の隠れた性格を理解できた直後の母親らしい感情の高まりを、初めておずおずと表現した。母自身が、娘の私が存在を引き受けなければならない、私の愛しい子供になった。私は出来うる限りの力で、この母をずっと守っていくだろう。

埋葬の翌日から、すぐにL'Ecluseに戻って歌った。何日かの間、私はまるで夢遊病者のままだったけれど。

1959年12月28日。その時は最初の4フレイズしか出来ていなかった。それから何年もの日々が流れ、ようやく1963年になって初めて、この作品に最終的に取り組んだ。しかもそれはCapucines劇場の「Mardis de la Chanson」出演の前日のことだった。
Gilbert Sommierが「Mardis de la Chanson」を企画立案したばかりだった。11月の全火曜日が私の出番だ。その第一火曜日に家族全員が初めて揃って来てくれた。嬉しかったし、印象的な日にもなった。
前日、練習のとき、私のノートは文字で一杯になり,書いては消し,書いては丸め、書いてはちぎり、さんざんだった。でも今日書かねば、と思っていた。「ナント」は次第に形を帯びつつあった。

その翌日、天才的ベイス奏者のFrancois Rabbathが伴奏してくれ、私はピアノを弾いて「ナント」を歌った。家族全員が会場にいることで、胸が一杯になった。すぐには声が出なかった。イントロを何度か繰り返した後で、何とか歌い始めることが出来た。私は歌い、母は素晴らしいと言ってくれた。
その夜Capucines劇場には業界人がたくさん来ていた。Louis Hazan,Denise Glaser,Michel Arnaud。
こっそり録音されたバージョンが秘密裏に売られた。初めて歌った「ナント」,それの入ったレコード、私も手に入れたことはない。

「ナント」は翌日、すぐに人の語るところとなった。ひとつの誤解の起源にもなる。人は私がナント出身だと思い込んだ。NON。「ナント」は父のことがなければ、完全に知らない街だ。父が何故死の場所にそこを選んだのか、知る由もない。何故「ナント」なのか。

ツアーをするようになって、ロワール川の河口、100kmの街に来ると,いつも息苦しくなった。心の苦痛無く、平静を保って「ナント」に来れるまで,長い長い歳月が必要だった。
毎回こっそり墓参りをしては、花を手向けている。
「ナント」が実は、実父の死の実体験から生まれた曲だと、私が音楽関係者に告白したのは、ずっと後のことだ。  (おわり)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「Il etait un piano noir...」(P.126~P.137 & P.157~P.158)
   Auteur : BARBARA (Traductrice : Bruxelles)

ナント成立過程(4)

情報・読み物 ナント成立過程(4) 2004/10/06
ナントに雨が...

「ある夜、ゲイムが長引いたことがあって。帰ろうと立ち上がった瞬間、下半身に鋭い痛みを感じて、動けなくなったんだ」どこに行く当てもなく、その夜はPaul氏の所に泊まったらしい。
朝、医者に行くよう言われても拒んだ。ただ痛みが激しく続いていて、どうしようもなく、そのまま病院に運ばれた。荷物や所持品はどこに置いてあるのかと尋ねたら、顔を歪めて笑って、身につけているものが全財産だと言った。3週間後に息を引き取った。病名は脳脊髄腫瘍。死に至る苦痛を和らげるモルヒネさえも拒絶した。
「Paulさん、お話し、有難うございました!」

埋葬に必要なお金を取りにパリに戻った。キャバレーL'Amiralの支配人のPabloが借金に応じてくれた。言葉を交わすほど親しくしていたわけでもなかったPabloが。有難うPablo。
それから、自宅のあるVitruveに急いだ。弟のClaudeと鉢合わせ。父の死を聞いていて、一緒にナントに行きたがった。迷った。どうしても行きたいとClaudeが言う。二人でナントに急いだ。

ナントは雨。空のすべてが曇って、そのうす暗がりのすべてから雨が降り注いでいた。
墓地ではClaudeとふたり肩を並べて歩いた。一人の婦人がすすり泣いている。私の腕を取り話しかけてきた。
あの男の人達は誰なんですか?ポーカーのお仲間ですか?
墓地がぬかるんで、よくわからない間に足元を取られた。
父は共同墓地に埋められた。献花は一輪もない。

弟と私は、すぐにパリに戻った。帰りの列車の中で、ポケットの奥に手を入れ、ずっとべっ甲のメガネに触れていた。哀れな形見。人の手のぬくもりを求めるように、私は傷のついたメガネを指先で撫で回していた。

..........小雨降る     ナントの街.......
..........沈む心に     暗い空..........

........それは一年前   同じような朝.......
........初めて駅に   降りたったとき...
....ナント見知らぬ街の   見知らぬ雨に....
.....怯えるように   後退りしていた...

モンパルナスの駅で、強い衝撃を受けたままの弟が、Vitruveへ帰りたくないと言った。
私は帰った。Vitruveへ。一人ぽっちで。ゆっくりと。取り乱したままで。
そして母の前に立った。
労わってあげたかった。出来るだけあらん限りの優しさをこめて、母に、話さなければと思った。お母さん。  (つづく)

ナント成立過程(3)

情報・読み物 情報・読み物 ナント成立過程(3) 2004/10/05
「さよなら」さへ言わないで...

シスターJeanneにもらった紙切れを持ってタクシーでその人を訪ねた。街角のコーヒー店。
入っていく。4人の男がカードゲイムをしている。1人が立ち上がり、近づき、やさしく私の手を取る。「あなたが娘さんですか?」「.......」
「ここにいる皆はお父さんの友達です」
メガネをかけた人(この人がPaulさんだった)が一言いいたげに私に近づく。
4人ともいろいろ話してくれた。一人の風変わりな男の話を。何にも聞いてないさ。ただ家族に見捨てられたって言ってたよ。可愛い子供が4人いたって。特にその中の娘は、歌手になったって。
「何で暮らしを立てていたの?どこに住んでいたのですか?」
野宿することもあったよ。でも朝になると、しゃきっとして俺たちのところにやって来た。皆で延々とカードゲイムをするのさ。楽しくて、気前よくて、大食いだったな。神様なんて信じていない。人生に期待なんて何もしてなかった」
「恨み言は一切言わなかったよ」Paul氏が私のために伝えてくれた。
ただ一度だけ、グデングデンに酔っ払って「もう先が見えてきた。俺も終わりだな」って俺に言ったよ。大丈夫かって肩担いでやろうとしたらね。Paul氏が続ける。私はすっかり動転しながらただ聞くのみ。想像だに及ばない一人の男の人生を。けれど、節々に父の性格が現れているようにも思える男の、最終章を。

死を看取れなかったことを後悔した。父のいやな思い出は忘れよう。後悔を伴った一番深い絶望、それは、大嫌いだった父に、最後に今溢れ出る言葉を、かけられなかったことだ。
「お父さん、許します。忘れます。どうぞ安らかにお眠りください。私は、もう苦しんではいません。お父さん、私、歌手になったの!歌ってるの!」
父は、どこに居ても、犯した罪の悔恨と思い出を引き摺りながら、長い間苦しんで生きてきたに違いない。
私はハッと気づいた。父だったのだ。何度か家にかかってきたミステリアスな電話。出る度に、何も言わないで切れた。電話の向こうに居たのは、父だったのだ。
あのメロディーが頭の中に再びやってきた。

Paul氏は私の前に、古い財布とレンズに傷の入ったメガネを差し出した。そして「もし知っていたら、あなたのお人柄を知っていたら、いずれにせよ、もっと早く連絡していましたよ」と言った。
「もし知っていたらって、...ひどい!」私は叫んだ。
「私たちではなく、父が、私たちを捨てたのです。母は苦しみをじっと耐えて生きてきました。私だって、父には...」
「わかります。お嬢さん。わかります」事情がわかる筈のないPaul氏が言う。気持ちが伝わり優しさがフッと流れた。
「ごめんなさい。父の気持ちを尊重して下さったこと、感謝してます。ご好意有難いです。で、どのような最期を迎えたのですか、父は」        (つづく)


ナント成立過程 (2)

情報・読み物 ナント成立過程 (2) 2004/10/04
埋葬手続き...

「気分落ち着きましたか?」シスターが声をかけた。「なんと言っても、お別れは、とてもつらいものですから」
「誰かこの人に会いに来た人はいませんか?」
「いますよ。シスターJeanneにお尋ねください」
シスターJeanneは何も話さない。シスターは死者に敬意を持っている。この方の秘密を守るとお約束しました。突然思い出した。父は昔から、シスター達に優しく接し好意を示していたことを。私はシスターJeanneに微笑んだ。
「わかりました。有難うございました」
「Paulさんの住所をお渡ししましょう。この方はお友達で最期を看取られましたから」
「その前にお聞きしたいのですが..埋葬の事とか..」

再び廊下に出て、階段を降りて小さな事務所に行く。メガネをかけた老婦人が一人いた。名前を言う。その人は棺が楽しげに列を作って並んだカタログを取り出した。点線をたどると、そこに価格が記入してある。
「お決まりですか?どれになさいます?」
「一番高くないものを...」
「材質がよくありませんよ」
「持ち合わせが、少ししか、都合がつきません」気持ちを働かせずに言った。老婦人は思いやりのある態度をコロリと消し去り、棺の営業ウーマンに早変わりした。材質がどうの、耐久性がどうのと、くどくどセールストークを並べた。私は口を閉じ表情も閉じた。老婦人は私のバッグに目をやり、私の手を見た。手首に巻いている銀のブレスレットを露骨に見つめる。そしてため息をつき、神学の立場から人を咎める目つきを露にして、その後諦めたようだった。
埋葬は翌日8時と決まった。
「その時間に葬列は霊安室を出て、教会に向かいます」
「教会に?でも父は..。わかりました。その時刻に参ります」必要充分なお金が無かった。この老婦人にお願いして支払いを翌日まで猶予してもらった。

受付に戻る。父は時計だけを残していった。たった一つ、私の見覚えの無い。身分証明書が必要だということで、引渡しを拒まれた。Non,に対して「結構です。わかりました」と答えた。ナントのあの病院の死者遺留品ケイスには、今もなを父の残した大きな腕時計がある筈だ。(つづく)

ナント成立過程 (1)

情報・読み物 ナント成立過程 (1) 2004/10/03
突然の電話...

1959年12月21日、月曜日だった。一人でアパルトマンにいた。静かに時が流れていた。私は優しい呼吸をしていた。電話が突然ブルブル震えて、静寂を破った。聞き覚えのない声、少し聞き取りにくい。
「お父さんが、...倒れられました。...ナントのサンジャック病院にいらっしゃいます。お越しください」
言葉が出なかった。声が動かない。電話機を手に、ただ茫然と。・・
父が連絡して来た?10年、10年間も一度も姿をみせない、居場所も教えてくれない父が・・私を呼んでいる?夢遊病者のようなままで、病院名を聞いた。外科?事故?
「何ですって、誰が?名前は、いつ?」
...頭が混乱する。電話が切れた。のみこめない。もう一度ダイヤルしてみる。同じ人が出た。「霊安室につなぎます」なかなかでない。焼けるような痛みが下半身に走る。
「変わりました。娘さんですか?ご家族を探したのですが、わかりませんでした。2日まえに亡くなられました。受付につなぎます」
解剖しないようにお願いしたのだけれど、よく覚えていない。はっとわれに返って、じっと電話機を見る。静まりかえった物体だ。のろのろと、しかし正確に、無意識に動く。コートを引っ掛けバッグを手に取り、母への伝言を走り書きする。
「お父さんがナントで死にました。そこへ行きます」
駅までタクシーを飛ばす。ナント行きの列車に乗るために重い身体を引き上げる。

ナントは雨。雨の中をタクシーで病院に向かう。入り口で先ほどの痛みが走り立ち止まる。ドアに寄りかかり、長い間身体を支えていた。人が「どうかしたのですか?」と声をかけてきた。受付で私は自分の出した声に少し驚いた。針金のように尖った声。
「C室へご案内します」返事の声はむしろ何倍も優しい。メロディーが、それはずっと後にしか思い出せなかったのだが、頭の中で鳴ったような気がした。C室のドアの前まで、耳に悲しげなメロディーがまとわりついた。C室のドアが巨大化して歪む。Cという文字が揺れて見える。ノックした。ドアを開けてくれたのはシスター(修道女)だった。
「遅かったですね」「知りませんでしたから」
「最後の最後まで、意識がありました。誰にも連絡するなとおっしゃいました。口を堅く閉ざしたまま質問にも答えてくださいませんでした。シスターJeanneに会って下さい。最後を看取った方です。...こちらです」
ドアの向こうに小さな部屋があった。その人はベッドに横たわっていた。顔に布は無く、眠っているように見えた。10年も会っていなかった父をじっと見つめた。頬がこけ、老いて、顔は蝋人形のように死んでいた。シスターに目をやる。シスターが頷く。近寄って父にそっと触れてみた。私は2,3語途切れ途切れに小さく叫んだ。誰かが私に話しかけ、私を捕らえ、引き離す。そしてイスに座らせたようだ。気がつくと、私は暖かい飲み物を手にしていた。それを飲んだ。  (つづく)


«  | HOME |  »

2017-09

  • «
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • »

MONTHLY

CATEGORIES

RECENT ENTRIES

RECENT COMMENTS

RECENT TRACKBACKS

APPENDIX

Bruxelles

Bruxelles

FC2ブログへようこそ!

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。