PLANETEに戻る

Latest Entries

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

バルバラに関する本


バルバラに関する本 投稿者: Bruxelles 2004/09/03 18:42:47

自伝は1冊しかありませんが、バルバラのことを書いた本はたくさんあります。半分くらい書き出してみます。タイトル(著者)出版社,発行年の順に書き出します。
 
Barbara(Jacques Tournier)Seghers,1968
Barbara(Marie Chaix)Calmann-Levy,1986,1988
Barbara(Pierre Ribet)metropolitaines,1989
Barbara,une vie(Sophie Delassein)l'Archipel,1998
Barbara,une si belle histoire(A&B Reval)France-Empire,1998
Barbara,la dame en noir(Henry Jean Servat)Albin-Michel,1998
Barbara,Claire de nuit(Jerome Garcin)la Martiniere
,1999
Barbara,N'avoir que sa verite(Alian Wodrascka)Didier Carpentier,2001
La Barbara que j'ai connue(Sophie Makno)Makno Infopro,2003
Barbara,J'ai traverse la scene(Didier Millot)Mille et une nuit,2004
書き出してもあんまり意味ないかも知れませんが、とにかくたくさんあるということだけ
スポンサーサイト

Monique Serfの人生(後編)

バルバラカルトクイズ本文 Monique Serfの人生(後編) 2004/12/31
あるBiographyで年末に俯瞰してみましょう

当時の2大スターMireilleとCharles Trenetに影響を受けたとはいえ、彼女は独自のスタイルを確立してゆく。シンガーソングライターという新たなステイタスを手に入れ非常に特異な歌手としての地位を築いてゆく。
美しい詩句、ステイジ上のドラマ性、声の中に溢れる豊かな感情表現、それら全部が相乗効果となって巨大なファン層を獲得していく。30年以上に渡ってそのファン層は消え去ることはない。
1960年代になって彼女にとって切っても切り離せない名曲⑬「私の最も美しい恋物語、それはあなた達」他、「L'Aigle Noir」「Il pleut sur Nantes」「La solitude」「Une Petite Cantate」等など、彼女の名声を確立する歌が次々と誕生した。

1964年彼女はBobinoに凱旋する。その後も何度かBobinoには戻り、常にSold Outの実績を残す。パリのOlympiaにも出演、その他フランス中の主要な劇場を制覇し、国中で最も愛される歌手のひとりとなる。1965年「Barbara chante Barbara」を発表、評判も上々、レコードセールス面から見ても大成功を収め、Academie Charles Cros賞を受賞。受賞式典では賞状を破り、それぞれの切れ端を感謝の印として音響技術者達に配った。
名声を確立した後Monique Serfは、お金とその名声を、貧しい子供達の救済のためのチャリティーに注いだ。

⑭1969年コンサート活動の制限を宣言し1970年「⑮⑯⑰⑱Madame」という劇作で役者として舞台デビューを果たす。この作品は営業的には失敗作となる。
1971年には⑲「Franz」というBrelの映画でJacques Brelと共演、そのテーマ曲もBarbaraが書いた。2年後Jean-Claude Brialyの⑳「L'Oiseau rare」に出演した。最後の映画出演は1977年、ダンサー兼振付師のMaurice Bejart監督の「Je suis ne a Veniseベニスに生まれて」である。

1970年代になっても活発に活動し続け、Johnny Hallydayのようなスターと共にTVのショー番組に出演したり、また日本、カナダ、ベルギー、イスラエル、オランダ、スイスにツアーを敢行した。1980年代もツアーを続け作詞作曲をした。(21)1981年の「Seule」はその年のフランスの最も売れたレコードの一つとなった。翌年の1982年、フランス文化に貢献したのを認められて、栄えあるGrand Prix du Disqueを受賞した。上昇気流に乗る映画スターGerard Depardieuやその妻Elisabethと仕事において綿密な関係を築きレコードや映画の曲作りに力を合わせた。1982年にはNew Yorkに飛び、Metropolitan Opera劇場でそれぞれ歌とダンスで自作の曲をMikhail Baryshnikovと共演した。Luc Plamondonと劇作「Lily Passion」を創造し、Gerard Depardieuとその劇を共演した。

1980年代にはAIDS撲滅運動に積極的に取り組んでいく。1988年フランス政府よりレジョンドヌール勲章を受賞。1990年代には60歳代のBarbaraはフランス芸能界の重鎮となる。しかし健康に問題が生じ、活動を妨げる。自分の時間を(22)回想録の執筆に当てるようになる。しかし1996年には(23)(24)最後のアルバムを制作し、大成功を収める。
その翌年の11月、呼吸器官の障害で(25)Neuilly-sur-Seineにて死亡。Parisの南MontrougeにあるBagneuxの家族墓地に永眠している。

フランスシャンソン史の中の記念すべき人物として名誉を讃えられ、その顔はフランス国の切手にもなっている。彼女の生涯について沢山の書物が書かれ、今日に至るまでなを多数のレコードが好調に販売されている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この本文の(1)~(25)のマークの個所についての設問と解答が近々バルバラカルトクイズのペイジに登場します。チャレンジしてみて下さいね。


Barbaraと住居(1)

情報・読み物 Barbaraと住居(1) 2004/11/08
Precy Jardin ( 最後の家)

1972年暮れ、Precy sur Marneで売りに出ている一軒の家をBarbaraの友達たちが見つけた。マルヌ川沿いのPrecyはパリの東30km。家主はインテリアデザイナー。友達たちはすぐにこれはバルバラが一目ぼれするに違いないと考えた。見に行ったBarbara、すぐに気に入り買う決意をする。
Precy sur Marneは人口400人。村の教会の鐘楼を中心にして、商人や職人が住んでいる、マルヌ川とl'Ourcq運河の間にちょこんと位置する静かな村だ。Verdun通りと大通りの角にある元は古い農家。Barbaraは1973年の初めにここに引っ越してきた。Fragsonとla Loie Fullerのポスター、そしてピアノとメガネを持って。
建物は庭を取り囲む藤で覆われている。重い木製の扉で閉じられた屋根付き玄関口はVerdun通りからこの庭を完全に切り離している。二つの通りに面している別の扉も、いつも閉められている。
各部屋は中庭につながっている。1階の金色の応接間の数箇所ある出入り口も中庭に面している。この部屋にはどっしりとした石の暖炉が鎮座している。隣が台所。上の階にBarbaraの寝室があり、そこは少し暗い。
寝室の隣の部屋には、ロッキングチェアーと自分のものといえる最初のピアノが置いてある。そこで彼女は、書いたり考え事をしたりする。
常夜灯代わりにすべての部屋に赤いランプを置いて、点灯したままにしておく。起きている時はたいていここにいる。ここで、不眠の夜は、書き物をしたり、作曲をしたり、編み物をしたり、ラジオを聴いたり、テレビを見たりする。
納屋は劇場に改造されている。この劇場は「La grange au loupオオカミの納屋」と名づけられている。舞台もありピアノもありリハーサルの必需品もある。PA装置そして大切なカセットデッキ、とロッキングチェアー。ミュージシャン達と公演のリハーサルをするのはこの部屋だ。棚にはツアー用の旅行カバンが置いてある。
Saint Marcellinに住んでいた1944年以来、初めて庭を持つことができた。庭こそこのPrecyの住居の中心である。庭の隅にはベンチも置いてある。カバの木、バラ、ボタンなどを植えている。ここでガーデニングの喜びを初めて知った。この庭を彼女の犬や猫が駆け回る。大きなビームに支えられた緑に覆われた東屋があり、そこにガーデン・テーブルが置かれている。
Barbaraは、Precyのこの彼女の宇宙の中で、閉じこもり生活をしていた。めったに外には出ない。時々は運河沿いに犬を散歩させたり、マルヌ川沿いのスタンドに立ち寄ることもあった。
Precy sur Marneの家は外も部屋の中も、何度か写真に写されている。専門家が住んでいただけのことはあって、インテリアも素晴らしく空間も広々としている。庭や住居環境は自然の良さを充分享受出来るように考えられている。
ここで、1974年には有名な自殺未遂事件があり、1977年には火災があり、その時は、命からがら裸足で逃げ出している。「Precy Jardin」歌に詠まれた住まいである。(つづく)
             

私自身のためのシャンソン(5)

情報・読み物 私自身のためのシャンソン(5) 2004/10/25
Liliane Benelli

バルバラが天使の顔を持つピアニストと「Il etait un piano noir」に紹介したLiliane Benelliはバルバラより3年遅れて1961年にL'Ecluseに、Georges Delerueの紹介で入店。元々はクラシックを志した音楽院の出身者。バルバラとはすぐ仲良くなり伴奏者を務めただけでなくバルバラのために2曲作曲をしている。ともに1963年で1曲は「Ni belle ni bonne」もう1曲は「Ce matin la」

Serge Lamaは1964年2月11日21歳の誕生日に審査員でもあったバルバラにその作曲の才能を認められてL'Ecluse のオーディションをパス。Serge Chauvier改めSerge Lamaの登場となる。

1965年8月16日BarbaraはChalon sur Saoneの街で出演中だった。公演が終わるとアシスタントがやってきてSerge LamaとLiliane BenelliがAix en Provenceへ向かう途中事故を起こしたとBarbaraに告げた。

LamaとLilianeはマルセル・アモンの前座として地方巡業に出ていた。1965年8月12日夜、事故は起こった。運転していたのはエンリコ・マシアスの兄弟ジャン・クロード・マシアス。彼とリリアンヌ・ボネリが即死。ラマは顎が砕け右足は折れ、脾臓は破裂し,鎖骨は砕け左足は麻痺するという瀕死の重症を負う。リリアンヌはラマのフィアンセだった。そしてL'ecluse時代のバルバラの親友でもあり、初期のバルバラの詩に曲を提供した数少ない作曲者の一人でもある。「私自身のためのシャンソン」にも「Ni belle ni bonne」を提供していた。バルバラのショックはいかばかりだったろう。もうリリアンヌと楽しいピアノを弾くことは出来ないのだ。

1965年9月30日Blanquiスタジオにて録音された曲こそ、バルバラが、Liliane Benelliに捧げた「Une petite cantate」。完成した直後に一発録音され、記録では同日発売されたことになっている。この曲の入ったLP「BARBARA」は「私自身のためのシャンソン」の次のLPである。以来コンサートではバルバラは常にLilianeとともにあり(つまりこの曲を欠かしたことはなく)Lilianeはこの曲と共に永遠の命を得ている。

ACC大賞を受賞した「私自身のためのシャンソン」の授賞式はOrsay宮殿で行われた。バルバラはその賞状を4つに切り裂いて、感謝の印としてレコード制作に協力してくれた音楽技師たちに手渡した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Barbaraのキャリアを俯瞰で見ると「Dis quand reviendras-tu?」「Barbara chante Barbara」そして64年10月11月のGeorges Brassensの元にでたBobino、この3つがホップ、ステップ、ジャンプといったところではないだろうか。その後はBobino ,オランピアの大スターとなり、70年の「黒いわし」の大ヒットまで一気にのぼりつめる。レコード的にそして表現者としてその後の5年間が黄金期、と見てはどうだろうか。ブラッサンス、ブレル、あるいはベルエポックの曲を歌っていたバルバラをその揺籃期としてみたならばの話であるけれども。
60年の「Barbara chante Brassens」(ADF大賞受賞)をホップとする見方もあるし、人気的に見れば、81年のPantinをステップとする見方もまた可能かも知れない。
今回は実は私自身ほとんど今まで無視していた「Barbara chante Barbara」にスポットを当ててみた。よりよい俯瞰が出来るよう、機会があれば、さらなる新たな検討を重ねてみたい。(おわり)

私自身のためのシャンソン(4)

情報・読み物 私自身のためのシャンソン(4) 2004/10/23
スカウトした秘書も羽ばたく

Francoise Loが最初にBarbaraに見せた[Sans Bagage」では「戻って来るときは旅行かばんを手にとって」となっていた。バルバラはここを逆にしようというアイデアを出した。結果「戻って来るときは旅行かばんを持たないで」(Quand tu reviendras ne prends pas tes bagages)となる。当サイトのカルトクイズにも登場しているこの人は,他にも「Toi l'homme」「Les mignons」「Septembre」「Tous les passants」をバルバラに提供している。また「La Barbara que j'ai connue(私の知っているバルバラ)」という著作もある。GainsbourgやReggianiと一緒のコンサートを企画したのも彼女である。1966年には自分自身歌手にもなりその後数枚のアルバムを出している。さらにそれまで男性の領域だった音楽監督(CBS)に就任する。
また彼女の作詞による「Pluie et whisky」(Mercury135710MCY)はEVAが歌い、隠し味にBarbaraのtibidibidiが入っているらしい。
またピアフの死後落胆しているシャルル・デュモンを立ち直らせたのは彼女の詩作品であった。67年彼に「Ta cigarette apres l'amour 夜明けのタバコ」(一度はバルバラに見せたがふさわしくないと判断した)を提供している。
余談だがこの曲67年から数年間歌詞がきわどいという理由やアンチ・スモウキングキャンペーンのせいでTVやラジオで放送禁止となってしまう。Simone WEILの尽力で解禁となる。71年Francoise Loは独自の判断でCBSではなくEMIからこの曲を収録したアルバムを発売させる。これは人気が出て「インティメートIntimite」というタイトルでピアフ没後10周年記念盤として日本でも東芝EMI(EOP80836)から発売された。

カルトクイズのヒントにも記したが、Anne SYLVESTREの秘書であった彼女をバルバラが「あなたは私のこと嫌いでしょうけど、私の仕事を手伝ってほしいわ」とジカにスカウトした話は有名だ。Anne SYLVESTREはこの時快く了承しただけでなく、Francoise Loが羽ばたいた後、新しいバルバラの秘書に、今度は自分の姉妹Marie Chaixを与えている。この人も1986年と1998年に「Barbara」という著作を出版している。彼女は作家として75年と85年に別の分野の書物も出版している。Anne SYLVESTREとBarbaraは50年代後半「シェ・モワノー」で同時期に出演していたので,かなり古いお友達なのだろう。

「A la rose」に「Sans Bagage」を提供した秘書のFrancoise Loは次のアルバム「BARBARA」では11曲中なんと4曲に歌詞を提供している。「Septembre」「Toi l'homme」「Les mignons」「Tous les passants」。Claude Dejacquesといい、このFrancoise Loといいこの時期のBarbaraのパートナー選びは冴え渡っている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

L'Ecluseにいる長い間、いつかここを出て羽ばたきたいと思っていた。Leo Noel,Marc Chevalier,Andre Schlesser,Brigitte Sabouraudは1964年春、私がここを去ることを了承してくれた。当時出演契約といっても、ほとんどほかには無かったのだけれど。

L'Ecluseを去る日が近づいてきた。そしてついにその時が来た。私は永遠にL'Ecluseを去った。楽しかった。ここで本当に多くのことを学んだ気がする。後にパンタンで3000人の聴衆を前に歌えることになったのは、他でもないL'Ecluseを埋めた70人のお客様のおかげであると思う。
Andre Schlesser,別名Dade又はGitanは私にとってL'Ecluseの心そのもののような人だった。パンタン出演中のある夜、私は彼の死を知った。彼を愛した人たちを動揺させまいと彼はそのことを公にしていなかった。
いづれにせよ1964年のその日どうしてもどうしてもここでL'Ecluseを去るべきだと思った。
Le quai des Grands-Augustins(レクリューズのあった場所)が遠のいていく。私は旅立ったのだ。
(「Il etait un piano noir...」P.154&P.163)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

バルバラのL'Ecluseの最終日は1964年2月11日。後をSerge Lamaが引き継いだ。くしくもラマが成人となる誕生日だった。同じこの2月から録音を始めた「私自身のためのシャンソン」は、同年9月についに発売された。
退路を断った大きな賭けに挑む一枚だ。


私自身のためのシャンソン(3)

情報・読み物 私自身のためのシャンソン(3) 2004/10/21
アルバムを出すということ

この12曲を見ていると「Nantes」と「Chapeau bas」以外は、アルバムのための書き下ろしのようだ。全曲自作で固めているが、例外として「San bagages」の作詞はSophie Makhno、「Ni belle ni bonne」の作曲はLiliane Benelliである。前年CBSから出た「Dis quand reviendras-tu?」は「Le verger en Lorraine」の作詞がJean Poissonnier「Ce matin la」の作曲がLiliane Benelli,ここまではこれも、私自身のためのシャンソン、なのだが「De Shanghai a Bangkok」及び「Vous entendrez parler de lui」の2曲がGeorges Moustaki、「Liberte」が作詞Maurice Vidalin、作曲Charles Aznavourと、まるまる他人の曲が計3曲入っている。さらにこのアルバムは書下ろしではなく、61年62年そして63年に2枚出た計4枚の45回転の寄せ集めである。ただ私の好みで言えば断然63年の33回転に軍配を上げるたい。ちなみに63年のジャケット写真はJean Pierre Leloir。顔写真はCapucines劇場出演中に撮影されている。この表情がなんとも言えずに良い。なおこの「Dis quand reviendras-tu?」はジャケット及びタイトルを「L'album d'or de Barbara」と変えて1973年に再発売されている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Claude Dejacquesと仕事をする過程でスタジオワークの楽しさに気づいた。録音技師の神業にも気づいた。コンソールのボタンをいじれなかったけれど、そのうち出来るようになるわ。音が私を新たに魅了した。私の声のスペクトルも自分の目で見た。内なる感情や笑いは呼吸の終わりにあるとわかった。音が無味乾燥にならないように、また私の人生そのものである私の声と私の呼吸のイントネイション、モジュレイションに気を配ってもらえるように、いつもこだわるようになった。このこだわりのために私は頑張ってきた。
ジャケット制作の段階になって、気に入るものが見つからなかった。才能あるPierre FaucheuxをLuc Simonに紹介してもらった。Philipsの私の記念すべき最初のアルバムジャケットを彼に依頼することができた。
「Pierre」がうまくいったのはMichel Portalのサックスのおかげだ。「Pierre」を録音したのはBlanquiスタジオだった。Michel Portalはメロディーを聴きその場でサックスのパートを演奏した。そしてその後、彼の即興の場合いつもそうだが、後で音を動かすことはなかった。そのパートは後にロマン・ロマネリのアコーディオンにそのまま引き継がれた。
もう一人このアルバムに関して忘れたくないのはギタリストのElek Bacsikだ。すでに一緒に仕事をしてきたし、出来ればもっと長く一緒に仕事をしたかった。
さらにもう一人はSophie MakhnoことFrancoise Lo。すぐ後私の秘書として働いてくれることになる人だ。彼女はこのアルバムのために「Sans bagages」の歌詞を書いてくれた。
結局このアルバムのためにClaude Dejacquesと私は8ヶ月をかけた。1964年9月にようやく発売の日を迎えることが出来た。
(「Il etait un piano noir...」P.161~P.162)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

前回の追記:
「Barbaraは自らのトゲ(過去)で自傷を負った(歌を刻した)薔薇の女だった」の一行はClaude Dejacquesの著作「Piegee la chanson」(1994年3月発売)から引用した。

1967年5月「Barbara singt Barbara」の録音でHambourgに同行したClaude がある日、ホテルの前の湖にて秘書のMarie ChaixとBarbaraと三人で語り合う場面があった。そのとき初めてBarbaraはベルギー時代やそれに劣らない苦しい過去の話の口を開いた。これはその時Claude Dejacquesが思わず感じた音楽監督としての率直なBarbara評であろう。原文はこうなっている。

Dame a la rose,engratignee par ses propres epines,elle etait.

私自身のためのシャンソン(2)

情報・読み物 私自身のためのシャンソン(2) 2004/10/19
Claude Dejacques

「Barbara chante Barbara」(邦題「私自身のためのシャンソン」)は1964年9月モノで、1965年12月ステレオで発売された。日本版は1965年10月永田文夫氏の解説で発売された。録音はSaussier LeroyとBlanquiスタジオ。2月5日、3月23日、4月10日、5月4,15日、6月23日、9月7,14日。1992年の集大成には4枚目の1~12曲目に入っている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

言葉は勝手にあふれ出た。「A mourir pour mourir」は言葉とリズムとメロディーが同時に生まれた。「Le petit bois de Saint-Amand」は、ある夜眠っているとき、その歌詞とメロディーをはっきりと聴いた。テイプに録音している夢をみた。翌日目覚めると、驚いたことに「サンタマンンの森で」はほとんど完成していた。
それからだ。言葉がとんと走らなくなった。どこへ消えたの、言葉たち?足踏みがひどくなった時Louis Hazanが私にいった。「遅かれ早かれ作曲家や作詞家はみんな、体験することなんだよ」と安心させてくれた。「一種の病気さ」全くその通り!
Claude Dejacquesは私の自作自演のアルバムに多大な力を与えてくれた。彼は私が作曲の制約を逸脱していることにすぐに気づいた。彼は優しくて、ユーモアがあって、耳を貸してくれ適切な距離にいてくれた。そして沢山のアイデアを提供してくれた。彼こそ才能を引き出す名人だ。彼は作者の産みの苦しみを、そのままボールのように投げつけられる、ある種の壁のような存在だと言える。
(「Il etait un piano noir...」P.160~P.161)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Claude Dejacquesは本名をClaude Bergeratというスイス系フランス人。1928年生まれで1998年、鬼籍に入っている。Claude 35歳Barbara33歳で出会っていることになる。5年間軍隊に在籍、インドシナ戦争で戦い、捕虜になった体験がある。
様々な仕事をした後、Philipsには平社員として製造部門に入社。Boris Vianのアドバイスで制作部門に配置転換を希望し、Georges Meyersteinの目に留まる。1961年から芸術監督に就任。Philipsにおいては、Canetti,Meyerstein,Louis Hazanの元で多数のシャンソン歌手の才能を引き出してみせた。

Nicole Croisille,Yves Duteil,Serge Gainsbourg,Jacques Higelin,Nana Mouskouri,Claude Nougaro,Catherine Lala(初アルバム),Jean Louis Murat(初レコード),Nicolas Peyrac(初レコード),Catherine Ribeiro(初レコード),Anne Sylvestre(初アルバム),Maxime Le Forestier(初レコード),Yves Simon(初レコード)・・・あまり多いので以下省略。

彼は写真、絵画に才能を発揮した他に数冊の著作出版物がある。彼がバルバラを語った言葉の中に以下の一行がある。
「Barbaraは自らのトゲ(過去)で自傷を負った(歌を刻した)薔薇の女だった」

Claude DejacquesとBarbaraは1964,1965,1967,1968、1969年と33回転を5枚、他に45回転を3枚出している。Claude Dejacquesはジャケットに制作責任者として名前を記した初の業界人である。


私自身のためのシャンソン(1)

情報・読み物 私自身のためのシャンソン(1) 2004/10/18
CBSからPhilipsへ

1963年4月、Raymond DevosとLa Tete de l'Artに出演していた。(注:L'Ecluse出演時、歌手として羽ばたくために他のシャンソニエにも出演している。L'Amiral,La Villa d'EsteそしてLa tete de l'art。Raymond DevosとはL'Ecluseにも同時期に出演した間柄)ある夜そこで噂に聞くClaude Dejacquesと出会った。彼はPhilipsの芸術監督だった。何度も会うようになりアイデアを交換しあった。私のレコードを出したいと言ってくれ、私は彼と、どうしても仕事をしたかった。私のことを本当によく理解してくれたからだ。Capucines劇場のMardis de la Chansonのリハーサルにずっと付き合ってくれた。私はまだ業界に詳しくなかったので、どうして彼が、私の所属するCBSで私を担当してくれないのだろうかと、思った。彼は笑いながら、自分はPhilipsと契約しているので上司のLouis Hazanに許可が要るのだといった。「わかったわ。会ってみましょう、その方に」Capucines劇場で会った。決定的な出会い。知性があり、面白くて魅力的な仕事人だ。悪く言う人も多いが、私は往々にして悪く言われている人を好きになる。

彼のオフィスに行った。CBSから「Nantes」「J'entends sonner les clairons」「Dis ,quand reviendras-tu?」「Le Temps du Lilas」の入った45回転を出したばかりだった。「CBSでClaude Dejacquesが私と仕事をすることをどうか認めてください」といきなり言った。彼はギョッとしていた。そして笑ったが、私は何故だかわからなかった。そんな申し出を今まで聞いたことがない、と言った。彼は私にPhilipsと契約することを勧めた。そのほうが万事うまくいくと。
「わかりました。CBSとの契約を解除してきます」
彼はまた、笑った。
「そんなことは、無理でしょうね」
「きっと、自由になって、戻ってきます」
彼は私の態度にとても驚いた。

1964年の初め、私はCBSとの契約解除の書類と、さらに「Dis quand reviendras-tu?」及び「Nantes」を再度録音する許可を持って、Louis Hazanのオフィスに行った。
Philipsと契約したとき、特別条項を一筆入れた。それは私は、他の誰でもない、Claude Dejacques,彼と共同で仕事をすること。新年のお祝いででもあるかのように、快くそれも認めてもらった。他の内容はよく読みもせずPhilipsと契約した。その契約書にClaude Dejacquesもサインした。ついに彼と仕事ができる!

こうしてLouis Hazanは「Barbara chante Barbara」制作を可能にしてくれた。暖かい態度で見守ってくれ、アルバム制作にも充分な時間を与えてくれた。(注:L'album a la roseとも呼ばれる、真にバルバラ自身のための最初のアルバムは、1965年3月14日、Academie Charles Cros,ACCディスク大賞を受賞する)
  (「Il etait un piano noir...」P.155~P.160)


L'ECLUSE (2)

情報・読み物 L'ECLUSE (2) 2004/09/19
L'ecluseのバルバラ by Bruxelles

毎週水曜日がL'ecluseのオーディション。バルバラは1954年にパス。代役で9月から11月まで、単発で8日間のみ出演。(1952年一度目のオーディションは不合格。審査員のMarc Chevalier,Andre Schlesser,Brigitte Sabouraudらは歌い方がクラシックすぎて、客へのアピールに欠けると判断した。)
1956年2週間のみ出演。1958年数週間(資料によれば数ヶ月)の契約を1月からスタート、それが延期を重ねて、次第に人気が出て「真夜中の歌手」と呼ばれ始める。1958年4月ジャーナリストのHenri MagnanがBarbaraを素晴らしく紹介した文を書いて、少し注目され始める。この記事にはPol Ferjacの筆になるBarbaraのマンガが付随していた。
最終出演は1964年2月5日(資料によれば5月)、この間の丸6年がバルバラのL'ecluse時代ということになる。この時期数え切れないほどの歌手に出会う。その一人がGribouille。
専属のピアニストもいて、初めはFrance Olivia,1959年からDarzee(2004年3月13日死去)1961年からはLiliane Benelli。(DarzeeとLilianeについては、別項目で書くかもしれない)。L'ecluseのピアノはバルバラが行く前から舞台の左。したがって何度も右手の手術をしたBarbaraには都合よく観客側に左手を向けてピアノを弾くことができた。レクリューズの時代のレパートリーはBrel, Brassens,Fragson,Paul Marinier, Xanrof, Leo Ferre, Francis BlancheそしてPierre Mac Orlanの作品。
「レクリューズのバルバラ(1960年1月)」とは別に「レクリューズの一夜」というレコードが1959年5月に発売されている。ジャケットは錨の図柄。これはレクリューズの看板にあるものと同じ。BarbaraはAndre Schlesser作詞作曲の「Souvenance」を歌っている。1998年にワインバーL'ecluseの20周年記念としてCD化され発売されている。
Barbaraの後を継いだのはSerge Lama。Biographyにあるように1973年L'ecluse救済のため駆けつけ2日間出演した。当時大スターとなっていたBarbaraを聞くために客が殺到、あふれた客が店の前の歩道にひしめき合った。-
1954年から、1964年初めまでのL'ecluse時代の間に、Discographyで完全カットした78回転45回転を書き出すと、かなりある。
一番最初は1955年3月5日Deccaから発売になった45回転と78回転。(1992年の集大成の1枚目の1,2曲目にCD化されている)。「Mon pote le gitan」と「L'oeillet blanc」が収録されている。「L'oeillet blanc」の作詞作曲はL'ecluseの共同経営者の一人、Brigitte Sabouraud。1958年4月には早くもPathe Marconiから45回転「La chanteuse de minuit真夜中の歌手」が発売されている。プロデューサーはPierre Hiegel。A面に「L'homme en habit」「J'ai troque」(Barbara作詞作曲、ただしRawsonというコンビニのような仮名を使っている)。B面に「La Joconde」「J'ai tue l'amour(バルバラ作詞作曲)」1958年11月3枚目の45回転がPathe Marconiから発売される。A面にFragsonの「Les amis de monsieur」とXanroffの「Maitresse d'acteur」B面には「Veuve de guerre」「D'elle a lui」。1959年4月にも「Barbara」という45回転がPathe Marconiから発売。A面「Les boutons dores」と「Les voyages」B面「La belle amour(Jean Poissonnier作詞Barbara作曲)」と「Souris pas Tony」1961年3月Odeonから45回転「Barbara」が発売。A面「De Shanghai a Bangkok」(ムスタキ作詞作曲)と「Vous entendrez parler de lui(作詞作曲ムスタキ)」B面「Liberte(作曲アズナブール)」と「Chapeau bas」(すでにレクリューズで2年以上前から歌っていたBarbaraの作詞作曲の録音)1962年5月15日,Odeonから45回転「BARBARA」が発売される。A面は「Le temps du lilas(バルバラ作詞作曲)」と「Le verger en Lorraine(Jean Poissonnier作詞Barbara作曲)」B面は「Tu ne te souviendras pas」と「Dis quand reviendras-tu?」共にバルバラの作詞作曲。さらに1963年4月CBSから45回転「BARBARA」が発売。A面「Attendez que ma joie revienne」「Tu ne te souviendras pas」B面「Ce matin la」「Le verger en Lorraine」1963年12月同じくCBSから45回転「BARBARA」が発売。A面「Nantes」「J'entends sonner les clairons」B面「Dis quand reviendras-tu?」「Le temps du lilas」
こうして書き出すだけでL'ecluse時代に花開いてゆくBarbaraの様子がよくわかる。その間にDenise Glaserを初めとする音楽関係者やレコードプロデューサーとの出会いがあり、ラジオ・TV出演、レコード発売となる。その出会いについては、別の機会に書きたい。なをこの間、ほかの劇場にも出演している。
夫との別居、破局、コートジボアールのAbidjianに住むMonsieur Hとの生涯を決定付ける恋、破局、更なる出会い、何より1959年12月21日には父が死に、1963年11月には曲が生まれる。
大忙しのBarbaraのL'ecluse時代。近日中にこの時代の人間関係や曲の提供者なども少し明らかにしてみたい。
[9月22日一部追加訂正]

L’ECLUSE(1)

情報・読み物 L’ECLUSE(1) 2004/09/13
L'ecluse  by Bruxelles

場所は15du quai des grands Augustin a Paris VI。サンミッシェル橋の近くのサンミッシェル広場からポン・ヌフに向かってケ・デ・グラン・ゾーギュスタンへ数歩行ったところ。もともとセーヌ河で働く水夫や潜水夫たちのためのレストランであったらしい。その店を1947年Rene・Legueltel(ルネ・ルゲルテル)が買い取りシャンソンを聞かせる場所にした。客席わずか60席。店の奥に幅3.5メートル奥行き2メートル高さ20センチのステイジがある。入口で潜水服をつけた人が客を迎えた。室内装飾も魚とり用のネットや浮標などecluse(水門)に関連あるもの。当時Leo Ferre,Francis Lemarqueなどが出演した。
1951年出演者だったBrigitte Sabouraud,Leo Noel,Marc Chevalier,Andre Schlesserの4人が2万フランづつ出し合ってこの店の経営者になる。Leo Noelがl'animateurで(司会兼歌手で雰囲気を盛り上げる役割)50年代後半のカルチェ・ラタンでは流行の先端の大人気店に発展、セーヌ左岸派シャンソンの牙城になる。
出し物は新人歌手、パントマイム、人形劇、影絵、コミックショー、スター歌手などの6部からなる。ショータイムは夜の11時から深夜の1時まで、各部10~20分くらい、すでに夜の10時には満員になっていた。
Barbaraの他にここから巣立った歌手を列挙すると、Cora Vaucaire,Marie Paul Bell,Christine Sevres,Philippe Noiret,Pierre Richard,Marcel Marceau,Pia Colombo,etc.
1966年Leo Noel死去。時代の流れもありその辺りから人気が衰え経営悪化、多くの人たちが救済に駆けつけたが、1974年初めについに閉店。
現在はワインバーになっている。店名はL'ecluseのまま昔の場所に存在している。


«  | HOME |  »

2017-06

  • «
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • »

MONTHLY

CATEGORIES

RECENT ENTRIES

RECENT COMMENTS

RECENT TRACKBACKS

APPENDIX

Bruxelles

Bruxelles

FC2ブログへようこそ!

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。