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Francois Wertheimer plus BARBARA

habitrouge.jpg

Habit Rouge L'Eau de Guerlain - Making Of
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まず二人で歌うこの激しい愛の歌をおききください。
Barbara François Wertheimer - Je t'aime
Barbaraの特番「Top a Barbara」にゲスト出演したFrançois Wertheimer
こちらはMusic Cross Talk (PLANETE BARBARA)の過去記事に登場したFrançois Wertheimer :かなり早い時期にマークしていたことになる。
François Wertheimer : wikipedia

次にBARBARA論を書くとしたらFrançois Wertheimerをまず最初に取り上げようと考えてから、何もしないですでに5,6年が過ぎてしまった。François WertheimerとBARBARAの関係を浮かび上がらせたのはValerie Lehouxだった。Music Cross TalkにBARBARA論の下書きとしてとりあえず書いている。今回全く偶然だが、記事の中の間違いに気づいた。「Guerlainの服を、赤い服を僕のために買って、着させたんだよ」ではなくて、Barbaraが与えたのは「赤い服」という香水だった。訂正しておく。上の写真はその香水のCM写真、一番上のリンクはCMの撮影風景である。「Guerlainの服?」でちょっと引っかかったのだが、それもありかも、とスルーしてしまった。この本に書かれたFrancois Wertheimer とBarbaraの関係は、そう知れ渡ることもないだろうと何年も油断していたが、なんとFrancois Wertheimer のwikipediaが出来ていてその中で、1973年彼がBarbaraの愛人であったことがズバリ書かれている。「赤い服の男」というBarbara作詞の曲は別れたFrancois WertheimerにBarbaraが捧げた曲だということも今では公に分かっている、ということだ。勿論Francois Wertheimerのwikipediaを見る人はそう多くはないだろうし「赤い服の男」という曲自体ほとんど知られていないので、公とは言え、記憶の中にしまっている人はValerie Lehouxの本を熱心に読んだ人に今までは限定されていたことだろう。そうそう今年の夏の9回に渡るBarbaraの特番では、何回目の誰だかは忘れたが、「BarbaraがWertheimer を新居に誘拐した」と表現していて、少し驚いたのを思い出す。彼はBarbaraが誘拐するに値する才能を持つ若者で、彼の作品には難解だが音的にも美しく、重厚な詩的香りが漂う。並みの才能ではない。さらに驚くのはその詩を極限まで引き立てる本当に素晴らしい旋律をBarbaraがその詩に当てたことだ。どうすればこのような神業ができるのかと、驚嘆するしかない。愛の相乗作用が双方の秘めていた天才的神業を引き出したのではないだろうか。ただ日本人にとってはWertheimerの歌詞は詩的すぎて、言葉が豊穣で高級すぎて口の動きやイメージが捉えづらい。そもそも二人の愛の形、才能のぶつかり、高揚、激しさ、が日本人にはどうもわかりにくいのではないかとも思う。

L'enfant laboureur,Le Minotaure, Là bas,Les hautes mers,Marienbad ,La louve,Monsieur Capone,Ma maison,Je t'aime、どれをとっても完成度が高い。私の好きな曲を特に太字にした。レコードまたはCDをお持ちの方は、今夜お聞きになってはいかがでしょう。特別なBarbaraに出会えるかもしれません。

今日Francois Wertheimer を書こうと思ったのはDiscorama出演の以下のYou Tubeを見つけて、いろんなことを思い出したからでした。
Discorama avec François Wertheimer - Partie 01
Discorama avec François Wertheimer - Partie 02
Discorama avec François Wertheimer - Partie 03
Discorama avec François Wertheimer - Partie 04
以下は別のWertheimerのYou TUbe
Fenêtre sur : François Wertheimer 1 sur 2 
Fenêtre sur : François Wertheimer 2 sur 2
以下は別のWertheimerのYou Tube
Mi fugue mi raison: 詳細は不明
Part-1Part-2Part-3Part4Part-5Part-6,

最後にFrancois WertheimerのYou TubeまとめとValerie Lehouxがこしらえた最高に素晴らしいBarbaraサイトを紹介しておきます。

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J'ai peur, j'avance.

古いnotebooksを整理していると、こんなメモに出会った。
 Un soir, je descends dans la rue pour me prostituer. Ce n'est pas le malheur, le grand malheur; mais c'est un grand chagrin.(...)
 Enfin bref, me voila sur le boulevard Anspach.
 J'ai peur, j'avance.
 J'avance, j'ai peur.
 J'ai peur, mais j'avance quand meme, chantera Lily-Passion en 1986.
 Il pleut; j'ai faim, j'avance.(...)
 Ce n'est pas possible que ce soit moi, ce soir-la, qui marche sur le boulevard Anspach !(...)
 Il faut du courage pour se prostituer, je n'ai pas ce courage-la.
(Barbara "Il etait un piano oir..." Fayard 1998, p.77&78)
BarbaraがAnspach通りに降りていって売春をしようと試みる場面の抜書きだ。
怖い、でも進む。
進む、けど怖い。
斜体の部分では、この心境を1986年のLily PassionでそのままLilyに歌わせたと書いている。Anspach通りの思い出が、こんなところによみがえって残っている。
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Lily PassionではDavid (Gérard Depardieu)にPrudenceのことをその名前を出して語らせている。PrudenceはBarbaraが下宿させて貰っていた家の女主人で以前は売春宿を経営していた。女の子がみんな去っていってやや痴呆気味で、年老いてひとり取り残された老婦人だ。BarbaraとClaudeの結婚式の立会人にもなっている。結婚式の食事の費用はこの夫人が出してくれた。Barbaraは元売春婦のこのPrudenceが大好きなのだ。
Lily Passionだけではない。1970年の舞台「Madame」。Barbaraが演じたMadameは女の子が去ってしまって一人取り残された売春宿のMadame、言い換えればPrudenceそのものを自分自身にオーバーラップさせたのだった。(この売春宿の場所は北アフリカの都市。何故こんな場所がイメージできたのだろうと初めは不可解だったが、これはコートジボワールのアビジャンでの思い出を嵌め込んでいるのだろうと、後に納得できた。)舞台の主人公にPrudenceをイメージしたいほどの、一体何をBarbaraはPrudenceに見出していたのだろうか。

Anspach通りでBarbaraはまずMadame Dussequeを思い出す。声楽の先生達は私を探しているだろうか?誰にも何も連絡せずに、Barbaraは家出してきたのだから。
このAnspach通りの部分はいつか全訳を試みたいと思っている。
古いnotebookに少し抜書きしていたのは、いつかこれをテーマにBarbara論を書こうと思っていたからだろう。
P.77にはこうも書いてある。
Etre petite soeur d'amour, chanter, prendre le voile, tout ca, c'est du pareil au meme.
(売春婦であること、歌うこと、修道女になること、全部方向性は同じだ)
これはインタビューでもよく言っている。甚だ意味が不明だ。
この辺がよく理解できた時に新しいBarbara論をArticleに入れようと思っていたのだろう。
Barbara論のテーマはもうひとつある。社会活動参加について。特にエイズ撲滅活動とその予防・啓蒙活動については、まだほとんど、あえて触れていない。「コンドームを忘れないでね。(頭に被るもんじゃないわよ)」などと繰り返して叫ぶ、Barbaraにどうしても大きな抵抗を感じてしまうからだ。それだけではない。コンサート会場の大きな籠に大量に入れて(無料配布されるために)置いてあるコンドームについても、一切触れないできた。
Barbaraが愛についてどういう哲学を持ってたのか、を究明できればいつか書こうとするBarbara論の二つのテーマは実は、おそらく重なる筈だ。


偶然見つけたメモによる感想を少し書いてみた。
第二番目のBarbara論がArticleに登場するのは、残念ながらまだまだ随分先のことになるだろう。

Nicolas BatailleとBarbaraの交友

Nocolas

副題: または「Veuve de GuerreとGare de Lyonの背景」

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大昔NHKTVフランス語講座に出ていたNicolas BatailleとLes amis de BARBARAにたびたび登場するNicolas Batailleが同一人物かどうかの確認に随分時間を要した。
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当時NHKTVフランス語講座は、ソシュールを日本に紹介した丸山圭三郎(私Bruxellesは自分の言語哲学論「言葉と存在ー純粋抽象の極限」等を丸山圭三郎先生にお読みいただいて「感動した」というお言葉をいただいている)と
イオネスコを世界に紹介したNicolas Batailleがダブル講師という、今から思えばなんと贅沢な番組だったんだろう!
Bruxelles所有の当時の音声教材から:Charles Baudelaire作
Nicolas Bataille朗読:L'invitation au voyage廣田大地氏の訳
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そう言えばの話だけれど、1978年日本発売のオランピア・ライヴ・コレクションーバルバラというLPの解説には永瀧達治、村松英子、そしてニコラ・バタイユ3人の文章がある。

・・・・・・・・・   ・・・・・・・・ ・・・・・・・・・
Les amis de BARBARA 2008年夏No.34にはHuchette座の舞台監督であるGonzague Phelip氏の著作「
Le Fabuleux roman au Theatre de la Huchette」についてのBernard Merle氏の紹介文が掲載されている。

Huchette座が大当たりをとったのは1957年2月16日から始まった
Eugene IonescoのLa leconとLa cantatirice chauve上演されてからだ。Paif, Sophia Loren, Luis Bunuel, Gerard Philipe等など著名人が多数24 rue de la Huchetteにつめかけた。
1年後の1958年2月16日、一座はHuchette座から歩いて数歩のL'Ecluseに集まり記念Partyを行った。そこで一座のNicolas Bataille,Marcel CuvelierとL'Ecluseに入ったばかりのBarbaraが出会う。駆け出しのBarbaraは出番待ちの居場所の無さを感じたときは、暖を取るためにHuchette座の楽屋を訪れていた。俳優だったMarcel CuvelierがBarbaraに自作の「Veuve de guerre(戦争未亡人)」を与えたのはこの時だ。
(注:Marcel CuvelierがL'Ecluseにオーディションに行って落ちたが、Barbaraがこの曲を気に入って歌いたいと申し出た、という資料もある)
Barbaraは1958年3月25日に早速この曲を録音している。L'Ecluseに正式に雇用されてからわずか3ヶ月後のことである。(当時この歌はその歌詞内容の不道徳性ゆえ?ラジオでの放送を禁止されていた!)
そのMarcel Cuvelierが証言している。
Nicolas BatailleとBarbaraはとてもいい友達だった。ある日Gilbert SommierのMardis de la Chanson(Capucines劇場にて)を2回終えた頃、二人は散歩していてこんな会話をしたんだ。
「旅行でもする? Gare de Lyon(リヨン駅)に行ってみようか」そしてその後で「Barbaraはあの曲を作ったんだ」
二人の交友についてはTreteaux  de Parisの支配人Jean de Rigaultも追認している。彼はNicolas Batailleと二人でBarbaraのコンサートを追ってベルギーに行ったことを憶えている。コンサートの後の夜食の席で興に乗ったNicolasがBarbaraにオペレッタをしようと申し出た。Barbaraは終始楽しそうに笑っていて、それは3人のとても楽しい思い出になった。Nicolas BatailleとParisに戻って、Barbaraって本当に楽しい人だねって、ひとしきり彼女のことばかり二人で話した。
・・・・ ・・・・
肝心のNicolas Batailleは先に書いたLPの解説にも、そう言ったBarbaraとの個人的な思いでは一切書いていない。その後ほどなく彼は日本に来て生活の場所を変え、彼女の方は大スターへの道をまっすぐにのぼりつめたからだろうか。何れにせよ駆け出しのBarbaraはイオネスコの「禿の女歌手」という不条理演劇発信の世界の中心であのNicolas Batailleと出会い友情の華を咲かせていたという事実は、Barbara Siteとしては、大いなる発見であった。


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演劇に興味のある方に:参照
当時演劇界の話題を独占していた
ベケットとイオネスコに関するエッセイ
イオネスコ寺山修二や唐十郎など日本のアングラ劇団にも大きな影響を与えたものと思われる。それを裏付けるかのように、こちらの生涯藝術三昧のペイジには、日本でのユシェット座写真展会場に於ける寺山修二と、演出家のNicolas Batailleの写真がある。
(余談)
ルーマニア人の私の友人Carmenが「イオネスコとかチャウチェスクとか、最後にスコとかスクとかつくのはルーマニア人の名前に多い」と言った、のを今ふと思い出した。
京都でフランス語を学んでいた昔、教師のJean Claude Rossigne先生が私のめがねを見て(お金が無かったので、片方割れたレンズに緑色のビニールテイプを貼って、そのままかけていた)「イオネスコ風だ」とおっしゃった。未だにその意味はわからない。誰か教えて!
当時、いつも「シュールレアリズム宣言」を小脇に抱え、親友はサルトルのつもりで、頭の中は言語哲学で行き詰まっていて、好みはAmerican Pop ArtとContemporary  Danceで、出かけるコンサートは実験的な現代音楽、好きなのはモダンジャズなのに聞くレコードはフリージャズばかりでかなりお疲れ、「霞を喰って非日常を生きている」といわれたのは、Barbaraの「黒い鷲」の噂を帰国した留学生達からちらほらと聞くようになる、およそ1年弱前の私の姿です。
当時の特技は長~い一呼吸の詩を書くこと。

 

Jacques Serfの行方と心情 (2)

Nantesの街角の喫茶店で四人の男達とBarbaraは会う。
「彼は、家族に捨てられたのだと言ってましたよ」
「それは違います。父が私達を捨てたのです」・・・
この違いは何処から来るのだろう。本心では家族と離れたくは無かった。しかし居辛くなった、と言うことだろうか。
NantesでBarbaraは父Jacquesの最後の世話をしたというシスターにも会う。
「お約束ですから、何も申し上げられません」とシスターは言う。
おそらく父Jacquesは彼の罪をこのシスターに懺悔してこの世を旅立ったのだろう。


歌詞では父は娘に会いたがっているが、実際は誰にも連絡してくれるなと、誰にも何も言ってくれるなと、言い残している。
Barbaraは「あなたを許します」と父に言えなかったことを悔いているが、父はそんな言葉を露ほども欲していなかっただろう。
父は一人で、共同墓地に一輪の献花もなく葬られる。それこそ父Jacquesが望んだことだと私には思われる。
生前娘に異様に執着した男であればこそ、それが男にとっても、娘にとっても理想の死に方だった筈だ。

TVの中に歌手として出演している娘を見て、思わず「あれは、オレの娘だ!」と叫んでいる男の心情を想像してみよう。
この喜びとバランスを取るためには、自分が転落し惨めに死ぬ以外に、人生を完結する方法は無いと、おそらく彼は知っていたのだろう。それが彼の懺悔であり、最後の唯一の祈りであった筈だ。
そしてその死を、さらに完璧にするために、Barbaraはたった一人で父の死を背負おうとする。
これ以上の愛情表現が他にあるだろうか。
人が人生を完結させるためには、その死を背負ってくれる生者の存在、生者の側の愛、生者の肩が、必要なのだ。
この父と娘の心情は、当人さへ感知できないほど深い部分で、実は呼応し続けている。
それが無ければ、少なくとも名曲Nantesは決して誕生しなかった筈だ。

Written by Bruxelles
参照: 「Barbara」 par Valerie Lehoux P.48~P.50
参照: 「Nantesの成立過程」-PLANETE BARBARA

Jacques Serfの行方と心情 (1)

家に一人でいる時に突然ナントの病院から電話がかかってきたことは以前に書いた。
姿を消して10年。
父にレンタルしてもらったピアノの費用も支払えなくなり、業者が引き取りに来た。身体の一部をもぎ取られた思いだったとBarbaraは書いていた。
父をなくしピアノを無くし、未来を描けなくなったBarbaraは、一人ベルギーへ、Bruxellesへ、家出を決行した。
喰うや喰わずの生活の後、一時は街で身体を売ろうと決心して歩き回ったこともあった。後を付けまわして来た男、最初の客になりかけた男が、偶然、人間の心を目覚めさせて話を聞き、空腹のBarbaraに食事とお金を与えてくれた。
Barbaraは娼婦に対して非常に強い理解を示している。(愛の行為に対してBarbaraは独自の思考があるので、詳しくは別の機会に書いてみたい。)
おそらくこの時の経験が(彼女達)の側にBarbaraを引き寄せているからだろう。
家出少女は父が放浪している10年の間に既に歌手になっていた。

さて、今日の最初の調査はBarbaraは父がNantesにいることを、前から既に知っていたかどうか、だ。

一家はRue Vitruveに暮らしていた。ある日父Jacquesは職を無くしふさぎ込むようになる。母Estherは最愛の母を亡くしまだ悲しみに浸っていた。夫婦間に引き返せない亀裂が生じていた。
1949年のある日、父Jacquesは突然姿を消した。
どこへ行ったのだろう。

戦時中一時一家がいた、Saint-MarcellinのホテルServeにJacquesは現れる。1950年のことだ。ロイヤルゼリーのセイルスマンをしているということだった。
Madame Serveの証言: 1日、1日半、このホテルにいました。お金は全く持っていませんでした。少し都合してさし上げました。本当に貧窮しておられたので。とても悲しそうで酷い状態でした。「ひとりぼっちになった」と言っていました。どうしてそうなったのか質問しませんでした。ー
(ホテルServeに関して:スター歌手になったBarbaraも、ツアーの途中、ある日遠回りして、運転手と秘書をメルセデスに待たせたまま、ひとりでこのホテルServeを訪れる。「私よ、Moniqueよ、ここにいたMoniqueよ」とMadame Serveに叫ぶ。詳しいことは「Mon Enfanceの成立過程」としていつか記事にしようと思っている。)

父JacquesはNantesには数ヵ月後に現れる。証言者により、浮浪者のようだったとも、港湾労働者のようだったとも、船会社の会計係だったとも言われている。
Nantesに於いてもすぐに友人を見つける。毎晩ポーカーをするあの男達だ。Jacquesは友人達から「Monseigneur(大将)」の愛称で呼ばれていた。Jacquesは立派な押し出しを持ち、尊敬される品位を身につけていたのだろう。
Barbara自身は父がNantesにいることを知らなかったと言っている。そんなことは無い、とSophie Makhnoは否定する。
Sophie Makhnoの証言: 全くの偶然があって、実はBarbaraは父の居所を知ったのです。Pathe-Marconi(レコード会社)の社員がナントの港にある店で一杯飲んでいたんです。そしたら店のTVにBarbaraが映ったんです。その時、店の中にいた男が「あれは、オレの娘だ!」と言ったんです。その社員がBarbaraにお父さんの居所を教えたんですよ。勿論その日からBarbaraはその社員と口をききませんでしたよ。ー

では次は、Barbaraはいなくなった筈の父に、再度会ったのかどうか?


これは以前にどこかに書いたと思うが、
Hubert Ballayの証言: 50年代の終わりに僕達はよくデイトしました。その当時彼女はお父さんのことばかり言っていました。お父さんがいなくなった後、何度も父親を家の近くの野外ベンチで見かけたと言っていました。既に変わり果てていたので、彼女以外の家族は、父を見ても、誰も父だと気づくことは無かった、と言っていました。ー
もう一人は
、今回Valerieの「Barbara」で初めて証言したJacques Vynckier。(このJacques Vynckierは例の「Atelier 1954」を、新発売されたばかりのアメリカ製テイプレコーダーで録音していて、Barbara最古の歌声を、去年CD化することに尽力した当人だ。)
Jacques Vynckierの証言: 1954年か1955年だったと思う。ParisのSaint-Michel通りをBarbaraと食事に行こうと静かに歩いていました。いきなり彼女が私の腕をとり私の影に隠れようとするんです。完全に怯えていて「私を隠して、私を隠して。顔をあわせたくない人がいるの」と言って。もうショック状態で、それまでそしてその後もこんなに取り乱したBarbaraを見たことはありません。しばらくして言いました。「お父さんなのよ。あれが」
私は何も質問しませんでした。ー


(続く)

少女 Monique

Barbaraは自分の容姿が大嫌いだ。インタビューからは相当の劣等感をもっていたように見受けられる。随分悩んでいたという証言もある。ブレルの映画「Franz」はさえない男と冴えない女のお話なのだ。
「Brelは、醜いから私をあの役に選んだのよ」という発言もある。
それを文字通り受け取ってはいけない。
男にとって抗しきれない魅惑的な少女だった筈だ。それゆえに父を惑わせたのかそれとも父が娘に謎の魅力を付加したのか、微妙なところだ。
BarbaraはSaint Marcellin(1943-1945)にきた時13歳だったが、すでに大きく成長した女の子で16-17歳に見えた。
Valerie Lehouxは当時の近隣の人たちから直接証言を取っている。
Henriette Brun :年齢より上に見えてすでに女性でした。パリジェンヌと言う感じで、私達田舎者とは違っていました。
Madame Cattot :着ているものも違っていました。お母さんのドレスを着ていました。私達はブラウスにスカートでした。着こなしが身についていて、この辺の子供とは違いました。
この頃の学級写真のようなものを見たがMoniqueひとりだけ、頭ひとつ他の子供より大きい。
Barbaraより少し年長だったHenriette Brunさんが、ちょっと驚くエピソードをValerie Lehouxに語っている。
ーあの娘が誰であれ、誘惑しようとしたわけではありません。ただ、あの娘には男を捕らえる魅力がありました。そういう意味で、男を虜にする女の娘でした。意図的かどうかわかりませんが、彼女は男を狂わせるのです。
ある若い教師がMoniqueに恋をして、理性を失ってしまったんです。家族を捨てる決心をしました。目敏い校長がそれに気づき、適切な処置をしたのです。他の学校でよりよい地位を準備して彼を転校させたのです。校長のおかげで、悲劇を未然に防げたのは幸いでした。ー

Valerieの本で初耳の話はもうひとつある。
この時代、住居の中庭、学校へ行く道、レストランの中、その他ありとあらゆる所でMoniqueは歌いまくっているのだ。学校でもコンサートごっこして、級友達にも歌わせたり、勿論自分も中心になって歌ったり。もうみんなそれを知っていて、何かあると人々は「Monique歌ってごらん」と言い、彼女はまた喜んで歌った。近所にピアノのある家がありBarbaraはそこで初めて、空想の鍵盤ではない、本物の鍵盤に触れることが出来た。
無理に歌わされたJuliette GrecoとBarbaraはここが違う。このBarbaraこそが、後年Claude Sluysの父の心を揺さぶりMarcel Hastilのアトリエでの最初の本格的コンサートに辿り着き、そしてその結果、意外と早い時期に、ベルギーでのレコード・デビューを果たすのだ。
Barbaraの「歌う女」を目指す人生は、秘められた意図ではなく、表に現れた迷いの無いチャレンジと実行の連続であったことに、驚くばかりである。
一気にブレイクした歌手ではないが、常に一歩前進のBarbaraには、苦節何年の思いはおそらく無かっただろう。
・・・・・・・・・・・・

参照:「
Du Soleil levant
参照:「
Music Cross Talk
参考資料:「Barbara」par Valerie Lehoux p.39

追記:
戦争中JeanやBarbaraを保護し、避難や疎開に付き添うJeanne Spireのことを以前に多分叔母と書いたが、実はこの人は父Jacquesの叔母、すなわちBarbara達の大叔母と言うのが事実のようだ。お詫びして訂正します。
亡き夫は軍医でアフリカに暮らしたこともある、ということは既に紹介した。
Barbaraの服装センスで、ふと思い出したのだが、この戦時中Barbara達を保護したJeanne Spire,20世紀の初め、
Poiretのモデルだった、ことがわかった。Barbaraの身近には、そんな華麗な親族も居たのだ。
・・・・・・・・・・・・・・
参考資料:「Barbara」par Valerie Lehoux p.30

Double CD 「Femme Piano」 ( disque d'or )

Femme Piano

そのとっぴな発想に、噂のBarbaraのユーモア力のパンチを顔面に受けた気がして、思わず笑ってしまった。
しかし考えてみると、これは恐ろしい、気まぐれな、軽いタッチの、それは的中する予言であり,Brabaraは自らの運命を言い当てる、預言者となるからである。

Barbara晩年のCDとしては、1996年11月6日に発表されたスタジオ録音のCD「BARBARA」と1997年11月12日、Barbaraの死の数日前に市場に出たコンピレーションアルバム「Femme Piano」がある。共にプロデューサーはJean-Yves Billetだ。
歌わないと決心したBarbaraが一大決心をして、ステイジではなくスタジオでであれ、もう一度新しい自分をつかみ出そうとしながら、最後の力を振り絞ってチャレンジしたのが前者であるならば、後者は自伝の執筆と平行させながら、その選曲によって歌手人生の集約を試みた自選作品集だと言える。

「Femme Piano」がほぼ完成に近づいた頃、Jean-Yves BilletはBarbaraに会うためにPrecyを訪れた。
ー彼女は元気で機嫌も良かった。彼女の家の例の劇場にいた時だ。-
ー猫を抱いてロッキングチェアーに座っていた。突然彼女が質問したー
ー「ところで、このdisque d'orの発売のためのマーケティング・プランはどうなっているの」-
ーマーケッティング・プランなどと言う俗な言葉を彼女は使ったことはなかった。販売など気にしない人なんだからー
ーでも一応、僕も答えた。ラジオ局やプレス関係と連絡をつけています。それとテレビのスポット広告等も考えています、とー
ー「そんなの全部中止してちょうだい。私、いい考えがあるのよ」-
ーいい考えって?-
ー「そうよ。いい考えよ。私が死ぬって言うのは、どお!」

彼女のところで録音技術を担当しているBeatrice de Nouaillanと二人で、Barbaraって本当にユーモアが爆発した人だねって、言い合ったんだ。本当のことを言って、その時はほとんど気にもとめなかった。冗談だと受け取っていたからね。

ー「気をつけて帰るのよ」って言いながら、いつものようにお菓子をくれた。ロッキングチェアーに座って「さよなら」って言って手を振っているBarbaraを見たのを今も覚えているー

「Femme Piano」を担当したJean-Yves BilletがBarbaraを見た、これが最後である。
Jean-Yves Billetのこの証言に今も驚愕するのは、私だけだろうか?

・・・・・・・・・・・・・
Valerie Lehouxは言う。このCD2枚は選曲を通した彼女の人生の追想だと。
それが証拠にいままで決して揃わなかった、Marie Chaix( 元Barbaraの秘書で、後に作家となっている )が言うところの、「父親三部作」, L'aigle noir,Au coeur de la nuit,Nantes ,が初めて一緒に収録されているではないかと。
「disque d'or」とBarbaraが名づけたこの40曲からなるCD2枚組み、もう一度その選曲の必然性を検証してみる必要があるかもしれない。
・・・・・・・・・・・・・・
参照 :「Barbara Portrait en clair-obscur」 P379~P383 par Valerie Lehoux

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追記: 2008年5月20日
原稿の下書きに存在し打ち込みの際省略した内容を追記しておく。
1.このCDの選曲の時期、つまり1997年秋にBarbaraは片目の白内障の手術を受け成功している。もう一方の目の手術も年末に既に予約されていた、という事実がある。
2.このCDの選曲でもうひとつ特徴的なのは、初めて「Gottingen」を仏語と独語の両方で選出したことだ。たいして評判も売れ行きも良くない独語版を入れたこと、Barbaraなりのこだわりがあったのだろう。

追記: 2008年5月20日 (独り言)
死んだら、あの世に行く前に、いま少しこの世に留まって世界一周旅行をしてみたい。だから私は死んでも旅行中で「墓の中にはいません」。
親戚や友人の葬儀の毎に「死ぬ死ぬと言って、結構長生きしてるね」と必ず誰かに言われる。「20歳までに死ぬ」と言われて、それなりに育ってきたので、20歳を過ぎてからの人生は正直言って、試行錯誤の連続だ。船に乗せられ荒野の地に放たれる開拓移民の心境だ。未知と不安定だけが、いつも心の糧だ。過去を常に遠くに感じるのはそのためかもしれない。
死は一番の未知なのだが、決して不安定であってはならない。良い意味でも悪い意味でも、死は絶対的安定への到達でなければならない。そうBarbaraのように...。

Zanが象徴するもの

さりげなくではあるが、Barbaraは「Il etait un piano noir...」でZanについて触れている。
BarbaraにとってZanとは、生涯大切に保持し続けたかった父との唯一の肯定的思い出に繋がる「味覚」だからだ。

1939年9月3日第二次世界大戦が勃発し、父Jacques Serfは出征する。残された母Esterは父方の大叔母Jeanne Spireに長男長女を託す。三人はPoitiersに逃げJeanne Spireの知人である医師の邸宅に寄宿する。Barbaraにとって、これが後に何度も繰り返される戦時下での逃避行の最初のものとなった。
ある日大きな驚きであったのだが、軍人の父が学校の門まで子供達に会いに来てくれた。共に過ごす時間は2時間しかない。
-行かないで、と言ったがダメだった-
-父は遠ざかり、そして振り返り、私のところに戻って来て私を抱きしめてくれた-
-そして私を慰めようとして、その時お小遣いをくれた-
それでBarbaraはZanを買ったのだ。それからZanは、どこへ行くにもいつも私と共にある、とBarbaraは書いている。
-ずっと後に、自分が食べるだけでなく、Zanが血圧に害を成すということを全く知らなかったので、友達と言う友達みんなにもどんどんあげた-
-(Barbara自身を投影させた)Lily-Passionも当然バッグをZanで一杯にしていた-
-自覚は無かったが、私はこの時の父との幸福な時間をずっとずっと求めつづけてきたと思う。しかしこの父と子供の関係はその後二度と復活することは無かった。-
-なのに私はその後長い間ずっと、この時の思い出、そして父に対する恐れ、軽蔑、憎悪、どうしようもない絶望などが入り混じった思い出を、ずっと持ち続けるのだった。20年後Nantesで父の死を引き受けた時、再びこの複雑な感情に捉えられた。-
 (以上参照「Il etait un piano noir...」 P.21&P.22 )

2007年11月4日France 2「The ou Cafe」で放送されたBarbaraの特別番組でCatherine Ceylacが取り出したZanを見て、Roland Romanelliが「それだ、それだ」と指をさして笑いながらBarbaraのZanを懐かしんでいた。それほどBarbaraとは切っても切れない「お菓子」だったのだろう。

1942年父が一時復員し、Tarbesの5 rue des CarmesでJeanne大叔母と共に家族全員の生活が復活した。
勉強の出来る男の子の兄Jeanは、母や、特に教育熱心なJeanneに溺愛され、一方勉強の出来ない女の子のBarbaraはほとんど無視され、劣等感と屈辱に苛まれる。父親に対しては次第に恐怖心を募らせてゆく。二人きりの時だけしか、決して優しくはないからだ。父が繰り返して言う。お母さんはお前よりJeanが好きなんだよ。Barbaraはその通りだと思い、それゆえに深く苦しむ。父が明らかに妙な態度で孤立したBarbaraに接近してくる。兄のJeanに守って欲しかったのだけれど、家の中でJeanが占める立場の優位性ゆえにJeanには近寄りがたかった。
それでもある日兄の部屋に入っていった。兄はZanを口にしていた。Zanが欲しくなったBarbaraは何を思ったのか、自分の大事なBaigneur(ベビー人形)とたった3個のZanを交換してしまう。
-Je vende mon enfant pour trois bouts de zan!-
(私の子供を私はたった3個のZanと交換した!)とBarbaraは書いている。
BarbaraはZanの中に優しかったあの日の大好きな父の姿を認めたかったのだろう。
Barbaraの窮地を知らない兄は、守るどころか人形を奪い、その交換を知ったJeanneは「Zanと人形を交換するなんて、この子は頭が空っぽね」とあざ笑い、子供として兄と同等の愛を望んだBarbaraの心の透きに、父親は生身の男として、11歳の娘に女を求めてきたのだった。
 (以上参照「Il etait un piano noir...」 P.25~P.29 )
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Barbaraは生涯にわたって天文学的量のZanを食べた。常に予備のZanを手提げカバンにしのばせていて、それを切らすことはなかった。
90年代になるとBarbaraの血圧はZanの副作用で異常に上昇し、医者からそれを口に入れることを禁止された。幻の父との幻想の絆であり続けていたZanもついに、毒薬と成り果てたのだ。
(以上参照「Barbara Portrait en clair-obscur」 P30& P31 par Valerie Lehoux )

Barbara-Chatelet 1993

蒲田耕二氏の「聴かせてよ愛の歌を」P.420にこうある。
・・・歌手としても、93年のコンサート・ライヴを聴くと、もはやカネを取れる歌を歌えなくなっていたことが分かる。この人は奇妙な癖があって、わざわざコンサート日程の後半の、声の疲れた頃を見計らってライヴを録音していた。(中略)下ろし金をタワシでこすりあげるような絶叫をのべつ聞かされるほうは、いい迷惑である。・・・


あいかわらず、人情味の無い毒舌のみが炸裂している。確かに1993年のシャトレは壮絶だったと思われる。ライブ録音は12月11,12,13日に行われた。14日には肺炎で、死亡時亡くなったと発表のあった例のアメリカン病院に入院している。BARBARAはおそらく契約履行のため、PhilipsはこれでもBarbaraならば買い手が殺到すると状況的に判断して録音したのだろう。(その判断は単に正しい以上の成功をもたらすのだ)

1992年6月Barbaraは1993年の2月にパレ・デ・コングレでコンサートをすると発表する。
1993年のはじめにマネージャーのCharley MarouaniはBarbaraの健康上の理由から2月のコンサートは延期、場所はシャトレで11月6日からと発表する。
そしてコンサートは1993年11月6日にシャトレでスタートした。予定では12月31日まで続くはずだった。しかし健康上の理由から12月3日から10日の間に既に6公演がキャンセルされたのだった。11,12,13日はおそらく決死の覚悟で決行されたものだっただろう。13日に録音終了して14日に入院しているのだから。そしてこの13日を最後として、入院のためにこの公演は打ち切られている。”奇妙な癖”など次元の話ではないのだ。


"Plus jamais je ne rentrerai en scène.
Je ne chanterai jamais plus
Plus jamais revêtir le strass, le pailleté du velours noir.
Plus jamais cette attente dans les coulisses, le cœur à rompre.
Plus jamais le rideau qui s'ouvre, plus jamais le pied posé dans la lumière sur la note de cymbale éclatée.
Plus jamais descendre vers vous, venir à vous pour enfin nous retrouver."


1994年Barbaraは医者の制止を振り切って1月29日から地方公演をスタートさせる。そして3月26日ToursのVinci劇場で、最後のお別れをするのだ。
(Chris-Tian-Vidal氏が自ら撮影したBarbara最後のToursでのステイジ写真

”もう2度とステイジには立ちません。
もう2度と歌いません・・・”
歌手の引退はスポーツ選手の引退と同様大きな葛藤があるのだ。何度か葛藤と決断が繰り返され、葛藤がついに息絶える寸前に決断がなされ、最終に向かってエネルギーが集中する。引退とは歌手にとっては、今までの自分のある意味事実上の「死」にほかならないのだから。
特にBarbaraにとっては、翌日からの日々は、長い葬儀の準備期間にほかならなかっただろう。


参照:Passion-Barbara:Ma plus belle histoire d'amour c'est vous
参照:PLANETE BARBARA過去記事、Barbara最後のコンサート;
参照:PLANETE BARBARA過去記事 人生を振り返って;

Drouot

              Drouot


Barbaraを日本語で歌えるようにしようと、和訳をスタートさせたのは、1978年前後、それを印刷して小冊子にまとめたのは1984年あたりだったと思う。長い年月をかけたが、後回しになったままの作品も多い。「Drouot」もそのひとつだ。その気になって和訳を仕上げたのだが、恥ずかしい話だけれど、「Drouot」の意味がわからなかった。歌詞の中の何かと呼応する固有名詞だとは思ったのだが、そこに鍵があるような気がして、レコードのように「ドルオー」のままのタイトルで出すことを避けた。


1986年交通事故で脚の膝の皿が粉砕されて入院中、友達のセンナヨオコが見舞いに来てくれて、その時「こんな全集の配本が始まった」と言って「フランス文化百科事典」のような本を見せてくれた。その本をパラパラとめくって思わず声をあげた。Drouotは通りの名で、その通りには競売場がある、と書いてあった。歌詞の情景が目の前で動き出した。

競売場の描写、そこに立ちつくす一人の婦人の描写で歌詞は進むのだが、最後の方で

Hagarde, elle sortit de la salle des ventes
Je la vis s'eloigner, courbee et dechirante,
Des ses amours d'antan, rien ne lui restait plus,
Pas meme ce souvenir, aujourd'hui disparu...
(取り乱したまま彼女は競売場を出た
背をまるめて、打ちひしがれて、
いにしえの彼女の愛の思い出から
こうして婦人が遠ざかってゆくのを私は見た
彼女と共に残るものはもう何もない。
その思い出の品さえもない。
今日ここにこうして切り離されて消されてしまった。)

と歌われる。

1) たった1度だけBarbara自身が「私は見た」として、その歌詞の中に登場するのだ。これは後の彼女の証言にピタリと一致する。
(参照:
Du soleil levant
このJeひとつが使われたことで、単なる歌詞から一気に現実味を帯びた目撃談に変身する。
しかもよく見ると、
Je la vis s'eloigner de ses amours d'antan...は、真中あたりの
Elle vit s'en aller le dernier souvenir de ses amours d'antan...と対応し、彼女は思い出が売られていくのを目撃し、Barbaraはそんな婦人を、その悲しみを目撃している、2重構造になっていることに気づく。


2) 私の持っている1970年日本発売のレコード「黒いワシ/バルバラ」の歌詞カードによると、、このHagardeがA gardeとミスプリされ、訳も「見張りの中を、彼女は立ち去った」と誤訳されている。このシーンで彼女に目を留めているのはBarbara一人で、彼女の存在自体、悲しみ自体は競売場というセッティングの中で彼女の声と共にかき消されている。
語学力よりも想像力で防げた誤訳だと思う。
また、同歌詞カードには、先に書き出した
Elle vit s'en aller, parmi quelques brocantes, le dernier souvenir de ses anours d'antanは無く、この部分は
Tout se passa si vite,a la salle des ventes, tout se passa si vite, on ne l'entendit pasとなっている。


3) これは余談だが、ずっと近年になって、6,7年前か、稲垣直樹先生の「レ・ミゼラブル」の解説を読んでいたらDrouot将軍の名前が出てきた。エルベ島からナポレオンが帰国するという演説をDrouot将軍がしたとか、そういう話の場面だったような気がする。(はっきりとは覚えていない) その時、この競売場をはじめ、Drouotと言う通りや、メトロの駅名や劇場の名前、ホテルの名など等、すべてはこの将軍に由来するのではないかと思った。長い間その推量のままで放置したが、この文章を書くにあたって、そのことを今日Netで再確認した。
上の写真はナポレオンが最も信頼した、清廉潔白、頭脳明晰、軍事的才能はナポレオンに匹敵する、そのDrouot将軍の写真である。


4) もう20数年前のパリ祭で深緑夏代さんがこの「ドルオー」を歌われた。イントロがチラと聞こえただけで、ハッとし、ドキドキした思い出がある。タイトルを見たら「貴婦人」となっていた。5,6年前だったか、今度はTVでパリ祭を見ていたら、美川憲一さんが、その「貴婦人」を歌われた。このとき初めてその歌詞に耳を傾けたが、何か変だ。クミコさんの歌う「我が麗しの恋物語」ほど、原詩に対して凌辱的でもないし、100%創作というわけでもないが、少しだけ変だ。
この「貴婦人」は家財道具の差し押さえにあって、家具を持ち出されている。しかもこの「貴婦人」はどうやら自宅にいる。当然Barbaraの視点からの目撃も無い。
今、手元に、嵯峨美子さんのCDにある矢田部道一氏の訳詞がある。


「屋敷を背に立ち去る前に」
「はじめてこの広い屋敷に」
「2階にあるあの寝室は」
「明日にはこの屋敷の中も競売場になり下がるだろう」
「古い家具も持ち出される」

と言うわけでタイトルの「Drouot」が活用されていないし、重要な競売場という場の現実がはずされてしまっている。だからと言って、訳詞の矢田部氏が、20数年前の私と同じように「Drouot」の場所やその場所の象徴するもの、及びその名の由来について、無知だろうと言うつもりは無い。ただBarbaraが「Drouot」と言うタイトルをつけたのは実際「Drouot」でこのような婦人の姿を目撃したからなのだ。そしてこの歌から「競売場」の臨場感をなくしたら、歌詞にある競売場の小槌の音が聞こえてこない。メロディーも歌詞も最高に素晴らしいこの曲の良さが半減してしまうように思うのだけれど、いかがでしょうか?
「貴婦人」を歌われる歌手の方たちにちょっと問いかけてみたい気がする。


5) フランスのバルバラファンは自分の書く文章の中に、Barbaraの歌詞からの引用を、心憎いほどうまく散りばめる。
そんな彼や彼女らが、一番よく使うのは、この歌詞の最後の部分、Aujourd'hui disparu...(今日ここに消え去った)だ。この言葉といい、そのメロディーといい、この曲の最後に置かれて、なるほど確かに歴史に残るほどの、決まり方、締まり方になっていると感心する。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


Delphine Mailland  chante " Drouot" ;
Barbara chante "Drouot" ;

Au bois de Saint-Amand

Le petit bois de Saint -AmandはLignieresの森だということがわかった。(P.98)

1957年夏、仕事もお金もない状態のBarbaraをJean Poissonnierが友人のYvesとSylvie夫妻の城に連れて行った。Jean PoissonnierとBarbaraはそこに六ヶ月間滞在した。そことはChateaurouxという場所で、その近くにLignieresの森があり、LignieresにはJean Poissonnierの母の家があった。YvesとSylvie夫妻のシャトーのピアノのある部屋でBarbaraは毎日歌い、ピアノの練習に励んだ。
以前葦原英了氏がBarbaraには、どうにもわからない1年間の空白があって、そのあと現れた時にはピアノが弾けるようになっていた、と記述されていたことがあった。ひょっとたら、このあたりの1年間のことかもしれない。

上に記した「サンタマンの森」はLignieresの森だという証言は、Jean Poissonnierの古い友人のYvesの妻Sylvieのものだ。


Catherine le Cossecの「Barbara, la douleur de l'absence」(1998年)には「Si la photo est bonne」をBarbaraはJean Poissonnierの母をイメージして作曲したと記述されている。(Julien Clercが「Si la photo est bonne」を歌っている。)


「La belle amour」と「Le verger en Lorraine」と「J'ai tue l'amour」はJean Poissonnier作詞、Barbara作曲の歌である。

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