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16. Marguerite Monnot

Edith Piaf Paris Airport interview 1959;
1959年 Parisの飛行場にPiafを出迎えているのはMarguerite Monnot。珍しく長々と映っている。

ことPiafに関連した資料の中には、誤報、虚報が入り乱れて、その選択に苦労したと言わなければならない。

本来Barbaraの研究Blogの「Music Cross Talk」に長々と居座り続けた「Marguerite Monnot(1-16)」、これからも加筆することはあると思いますが、疲れ果てたので-16-をもって一応最終入稿といたします。
リンク不可能だった曲の一部はL'oiseau Invisible Audio 50にmusic fileとして、以下のように掲載しましたことをお知らせします。

L'oiseau Invisible Audio 50
Audio 50-1. Colette Renard : Avec les anges
Audio 50-2. Clive Revill : Valse Milieu
Audio 50-3. Suzy Solidor : Escale
Audio 50-4. Lucienne Delyle : Ma rue et moi
Audio 50-5. Damia : Mon amour vient de finir
Audio 50-6. Edith Piaf : L'étranger

60年代から70年代にかけてのシャンソンの大きな地殻変動を考えると、Marguerite Monnotの盲腸の破裂は「いく川の流れ」のひとつの象徴のような気もする。
Monnot

人の生命に終わりはあるが、その人のシャンソンの生命は永遠に続く。
Marguerite Monnotを通して、40年代、50年代を少し体感することができてよかったと思っている。Marguerite Monnotの人生はArtistのそれとして、非常に示唆に富んでいるものだったと思う。
Marguerite, たくさんのシャンソンをありがとう!
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15. Milord par Moustaki et Monnot

微妙なFilmを発見した。
Monnot- Piaf- Moustaki「Milord」 トリオが勢揃い。
これは1960-11-14の番組。1960-12-29のオランピアのプログラムは既に決まっていたのだろう。大人のMargueriteは時に微笑むが、全体的に顔が引き攣っているのがわかる。微妙で貴重なFilmだ。このあと一年も経ずしてMargueriteは帰らぬひととなった。その丸二年後にPiafもこの世を去る。
「Milord」par Edith Piaf;

意外にもMargueriteはClaude Nougaroの歌詞に2曲、曲をつけている。
Parisに出てきたClaude NougaroはAvenue des Termesに両親と一緒に住んで、あちこちのシャンソニエで歌っていた。
ある日206boulevard RaspailのMonnotの住所に”Mephisto"と”Le Sentier de la guerre"を送ってみた。もちろん返事はさほど期待していなかったが、自分の電話番号Etoile 43-07を書き入れておいた。
3日後電話がなって、とってみたらMargueriteからだった。「あなたの詩を見てすぐにイメージがわいたので曲を作りました。聞きにいらっしゃい」
翌日夢ではないかと思いながらもMargueriteの家に行った。
Pleyelの栗色のピアノの上にはChopinの楽譜があって、そこでMargueriteはClaudeに出来上がった曲を弾いて聞かせてくれた。ただ、ClaudeはPiafが歌ってくれると期待したのだが、”Mephisto"はMargueriteの夫、Paul Periによってレコーディングされたのだった。

小さなエピソードはこれくらいにして、MilordとMoustakiに話を進める。
Georges Moustakiは1951年ParisにやってきてYves Montandのギタリストで作曲家でもあるHenri Crollaの紹介でPiafと知り合い、boulevard LannesのPiafの家で1年近く一緒に住むようになった。Piafがいろいろシャンソンや歌詞についてアドバイスしたのは言うまでもない。
PiafとMoustaki、出会った頃
Moustaki

ある歌詞のアイデアをPiafが出してMoustakiの宿題にした。あるレストランのテーブルクロスに”Milord"の文字を見つけたPiafが「Milordからアイデアをスタートさせてみては?」とMoustakiに言った。
Moustaki :: Cannesに行く途中でホテルで休息する時間があった。スイートに泊まっていて、僕は僕の部屋に行った。例のMilordの文字のあるテーブルクロスが部屋にあったので、気分が乗ってきて自分でも驚くくらいにすらすら1時間くらいで歌詞が書けた。そしてPiafの部屋に見せにいった。彼女は僕が仕上げてくるのを待っていたようだった。全然驚きもしないで。実際テイブルクロスを僕の部屋のその場所に置いたのは彼女だったんだ。2,3箇所彼女が書き換えた。その後、ベルギーのSPAに温泉療養に行っているMargueriteにすぐに電話して、郵便で歌詞を送ったんだ。それから、ある日Margueriteが曲を持ってきたんだ。いつものように恥ずかしげになかなか見せようとしない。「早く見せて」と催促する必要があった。まず意見を求めて彼女はPiafに見せようとした。彼女は謙虚で内気だった。で歌詞を最大限に活かせるために、曲を2曲も書いてきたんだ。もし一方が気に入られなかった場合を想定していたんだ。ピアノのある部屋でPiafにそっと見せていた。二人で意見を交わして、決めてから僕のところにやってきて、Piafがそれを僕に歌って聞かせた。僕はもう一方も聞きたいと言った。「その必要はない」とPiafは言ったが僕が押し切った。そしたらまたピアノのある部屋に行って、もうひとつの楽譜を持ってきた。僕が押し切って、結局それ、2番目の曲が「Milord」に決まった。::
PiafはMoustakiを伴ってアメリカツアーをしたが、ツアー途中で二人は別れた。その後Piafはこの曲をレパートリーから外した。関係者からの強い説得でレコーディングされたが、結局Piafの体調も悪く、「Milord」のレコーディングが何とか成功したのはひとえにミキシングの成果だとされている。
Moustakiが語るEdith Piaf;
Moustakiが語るPiaf (2);

Piafが歌い、Margueriteがピアノを弾いている。MoustakiもMargueriteの左側に立っている。
Piaf Chante MILORD ;
Margeuriteがピアノを弾いている、楽しげに「Milord」を弾いている、全身で弾いている。なんて素晴らしい曲をこの人はフランス史に残したのだろう!
Bravo ! Marguerite! Bravo!

14.Irma La Douce

Alexsandre Breffort原作兼作詞、Marguerite Monnot作曲のフランス製ミュージカル「Irma La douce」は1956年11月12日、ParisのGramont劇場でスタートした。一年半後にはElizabeth Seal, Keith Michelle主演で英語化されイギリスLondonにおいて母国以上の大ヒットとなる。1958年6月17日、Lyric劇場でスタートし1512回のロングランを記録。1960年9月29日にはNew YorkのPlymouth劇場でも上演がスタートしこちらは524回の公演を記録した。英国および米国で成功したフランス製ミュージカルとして空前絶後の記録である。
Margueriteの死後1963年にはBilly Wilder監督で米国で「あなただけにこんばんは」というタイトルで映画化もされた。主役のIrmaをBilly WilderはMarilyn Monroeを予定していたが、撮影が始まる前に死んでしまった。主役のIrmaはShirkey Maclaineが、相手役のNestor及びLordXはJack Lemmonが演じた。
「Irma La Douce」はColette RenardのほかにPatachou, Barbara,Marcel Amontがレパートリーに入れているという資料もある。
下は1956年Nestorを演じたMichel Roux
Michel Roux

下は1967年Nestorを演じたFranck Fernandel。この人があのFernandelの息子とは、信じられなーい。
Franck Fernandel

Irma La douce Movie」「Irma la douce
Irma

Irma la douce Musical
「Irma la douce」は1960年前後の一時期、フランスのみならず、英国、米国、カナダ、南アメリカ、オーストラリア、ドイツ、スペイン、スウェーデン、デンマーク、イタリア、オランダ、アルゼンチンなど世界数カ国で同時上演されていた。どれだけヒットしたか、その空前絶後ぶりがこのことからもわかると思う。
Irmaは若い娼婦、Irmaに惚れた青年は舞台では、法律を学ぶ学生、映画では警察官。この青年が二役をしてIrmaの愛を確認しようとするのだが、途中でもう一人の自分を殺したことになり、と決して日本では受けないだろうお話。
Alexsandre Breffortが機知にとんだ台詞をたっぷりと用意しているのだろう。この原作者はMonnotと同郷のひと。タクシー運転手上がりのジャーナリストというフランスでも珍しい経歴。筋書きよりこの人の経歴のほうがはるかに面白い。たとえば第二次世界大戦中はRoger Monclinと行動をともにしていた。

13.女性作詞家たち

Piaf-Monnotの曲の中で特に忘れたくない2曲がある。
「C'est a Hambourg ハンブルグにて」1955
Les amants d'un jour いつかの二人」1956

MonnotはRaymond AssoやHenri Contet、Georges Moustakiなど男性作詞家以外に二人の女性作詞家コンビの作品にも曲をつけ大ヒットさせている。うえの2曲がそれで、Michelle Senlis Claude Delécluseの二人の女性詩人の共作である。
女性作詞家は当時珍しく、まして女性作詞家コンビとして二人は先駆けである。さして有名ではなかったが上の2曲の大ヒットで、次々と他のシャンソン歌手たちにも作品を提供する人気作詞家に成長した。
「C'est a Hambourg 」はCatherine Sauvageも歌っていて歌詞は異なるが、作詞家達は同じである。歌詞に曲がほしいとMargueriteに最初に依頼したのはGermaine Monteroだった。したがって真っ先にこの曲を録音したのもGermaine Monteroである。
「Les amants d'un jour」はPiaf-Monnotのシャンソンのなかで私の最も好きな曲だ。余計な好みを言えば、Milvaの歌うイタリア語の「時間ぎめの安ホテル」のほうがよりすばらしいと思っている。個人的好みで言えばシャンソン・ベスト5に入れたいくらいだ。
Marion Cotillard : Les amants d'un jour
これではこの歌は台無しだけど。最近の映画でPiafを演じたMarion Cotillard.

12. La goualante du pauvre Jean

まずこちらをお聞きください。
The poor people of Paris by Winifred Atwell-英国(1956年)
このメロディーはフランス人のものとはどうしても思えない。
MargueriteはJazzに強く惹かれてクラシックをやめたのかも知れない。
Raymond Assoと「Mon Legionnaire」を作ったMargueriteは、つまり同じMargueriteがRene Rouzaudとこの「La Goualante de pauvre Jean」を作った。その才能には驚嘆するばかりだ。
Edith Piaf - La Goualante du pauvre jean
Jeanとgensの発音の類似性のために英語ではJeanという固有名詞がpeopleとなってしまっている。
アメリカではDean Martinの歌でNo.1ヒットとなった。
Les Baxter Orchestraのイージーリスニング演奏もヒットした(1956)。
フランスではPiafのほかに、Yves Montand, Patachou,Line Renaud, Maurice Chevalier,Philippe Clay, Jacquesline Francois, Michele Torr, Daniel Guichardなどによって広く歌われた。
この曲は英米同時にヒットチャートNo.1になった最初のフランスのシャンソンである。

Catherine Ringer sings Edith Piaf;
Patachou La goualante du pauvre Jean;

11. Colette Renard

Colette Renard ;
Irma La Douce 1963;

「Irma la Douce やさしいイルマ」の主役は最初Juliette GrecoやColette Derealが予定されていた。Colette Renardを主役に抜擢したのはMargeuriteの夫、Paul Periであった。
もともとは「Les harengs terrible」というタイトルの20分程度のお芝居でMichel RouxとGuy PierautによってLa tete de l'artで演じられていた。Alexsandre Breffortが自作の芝居に作詞をしMarguerite Monnotが曲をつけ、フランス製のミュージカルが出来上がった。
1956年11月12日ParisのGramont劇場でスタートし、そこでまず4年(962公演)のロングランとなった。

Barbaraが歌っている「Tais-toi Marseille」をColette Renardで聞いた時、その安定感のある声ののびやかさに感心した。
1924年生まれのこの人は36歳の1960年にレイモン・ルグランと再婚している。元はレイモン・ルグランの秘書をしていたが、1953年のある日、歌手の穴埋めとしてステイジに立った。しかしわずか3年後の1956年にはミュ-ジカル「やさしいイルマ」の主人公イルマ役で大当たりする。
Colette Renardは1967年文化使節として来日している。

10.夫Paul Peri

彼女の夫Paul Periはすでに二度ほどこの文章に登場している。資料はあまりないが、当時は「男Piaf」と言われ、Monnotの曲を力強くうたう歌手だっただけでなく、俳優でもあった。1949年Deauvilleのシャンソン・コンクールでMarguerite Monnot作曲、Henri Contet作詞の「Ma rue et moi」で優勝している。映画や舞台でも主演をはって結構活躍していたようだ。
Margueriteとは長い内縁関係だったが、1950年7月11日、Paris16区の市役所の前を歩いていて、突然婚姻届を出そうと思い立ち、婚姻公示の手間を省くため通行人に報酬を払い即席の証人になってもらって、その場で数分で婚姻を書類化し、二人は正式の夫婦になった。
本名をEtienne Giannesiniと言う。写真が入手できないのが残念だ。この時、Marguerite、47歳。
MargueriteのPiaf抜きの資料はフランスにもさほどない。58歳の彼女の死を見取ったのは、このPaul Periであるが、Piaf同様彼女も恋に愛に奔放に生きたと言う記録がある。社会通念に拘束されない恋愛人と言う点で、PiafとMargueriteは非常に似通っていた。
ただ、Piafの立ち姿に貧困と不幸の匂いが消えないのに対して、Margueriteの風貌には上流階級のたたずまいがある。クラシックの世界からポピュラーミュージックの世界に横滑りしたとは言え、「ポピュラーミュージック界の貴族」と呼ばれていた。
ただ恋愛で成長したのはPiafの方で、彼女の方は「恋愛のお馬鹿さん」で、現実同様、恋愛にも彼女は「生きる手ごたえ」を感じられなかったのかもしれない。
・・・・・
このPaulPeriの前にPierreという12歳年上の夫がいたようだ。
ブルゴーニュなまりの強い、パリ中央市場の仲買人で二人はとても仲良く暮らしていたらしい。
最初の結婚が何年だったかという資料は一切見当たらない。
Paul Periとの間にも子供を産んでいないMargueriteは両親の眠る故郷の墓に両親とともに眠っている。今は訪れる人もほとんどいない。

////////
このMarguerite Monnotを書くにあたり、以下の資料を使用しています。
○薮内久著「シャンソンのアーティストたち」松本工房刊
○三輪秀彦訳:Simone Berteaut著「愛の賛歌」新潮社
○永田文夫著「世界の名曲とレコードーシャンソン」誠文堂新光社刊
http://www.answers.com/topic/marguerite-monnot
http://www.lehall.com/galerie/journeefemme/
042_monnot.htm
http://www.peermusic.fr/auteurs.php?AUT=26396
http://www.sacem.fr/portailSacem/jsp/ep/
contentViewRelatedItem.do?contentType=
EDITORIAL&contentId=536882185
http://www.musiqueenligne.com/artist.php?id=133
http://fr.wikipedia.org/wiki/Marguerite_Monnot
http://www.vh1.com/artists/az/
monnot__marguerite/bio.jhtml
http://wc10.allmusic.com/cg/amg.dll?p=
amg&sql=11:66bsa9lgi23s~T1

9. La vie en rose par Audrey Hepburn

 Audrey Hepburn Sabrina 1954 
Dalida & Julio Iglesias - La vie en rose
La vie en rose par Patricia Kaas ;
La vie en rose par Marguerite Monnot
Margueriteは権利とか、名誉、お金について非常に内気な人で、フランスの資料を見る限り、「La vie en rose」はLouiguyとMargueriteの共作だと書かれている。Edith Piaf作詞で作曲はPierre LouiguyまたはEdith Piafと日本では紹介されているが、Margueriteが例によって作曲家の登録を辞退したとMargueriteに関する資料には書かれている。
こんな性格なので「Irma la douce」の大ヒットまで経済的に実際かなり貧窮していたらしい。
Audrey Hepburnが映画の中で歌っています。



Mariene Dietrich chante 「La vie en rose」 ;
Mariene Dietrich chante 「La vie en rose」 グレコのような歌い方をしている。しかしさすがの貫禄。

8. PATACHOU Chanson d'IRMA LA DOUCE


大好きなPatachou,ようやく素晴らしい魅力一杯の動画を見つけた。日本人でいうと意外と黒木ひかる、に一番近いかも。黒木ひかるって誰って?宝塚ファンコンテストの司会をしていましたよ。
英国、米国では「愛の賛歌」の作曲者としてよりミュージカル「Irma la douce 優しいイルマ」の作曲担当者としてのほうがはるかに有名かもしれないMarguerite Monnot. まずPatachouの歌で雰囲気をお楽しみください。
・・・・・・・
「Irma la douce」を作曲するにあたってMargueriteは何度も何度も引き受けるのを躊躇した。やはりPiafと離れての仕事に気が進まなかったのだろう。皮肉なことにこれが大ヒットしたのだ。
 Irma la douce 」2000年フランスにおける再演。

7.Merci Jacques : 年代別主要作品

資料と格闘してダウン寸前のBruxellesの依頼を聞き入れて、JacquesがMarguerite Monnotの主要作品に関して年代順の表を制作してくれた。以下にその整理された資料をup loadします。さらにJacquesが見つけてくれたlinkのあるものは、曲と画像を楽しめるようにできる限りlinkを張りました。クリックしてお楽しみください。Merci Beaucoup、Jacques!
・・・・・・・・・・・

piaf ::: ::: L'etranger 1934
piaf J'entends la sirene 1936
piaf ::: ::: Le fanion de la legion 1936
piaf ::: ::: Mon legionnaire 1936
::: ::: Marie Dubas ::: ::: Gainsbourg
piaf Je n'en connais pas la fin 1939
piaf Le petit monsieur triste 1939
piaf C'etait un jour de fete 1941
piaf ::: ::: J'ai danse avec l'amour 1941
piaf ::: ::: L'homme des bars 1941
piaf Ou sont-ils, tous mes copains ? 1941
piaf ::: ::: Tu es partout 1943 ::: ::: Film
piaf Le brun et le blond 1943
piaf histoires de coeur 1943
piaf Y a pas d'printemps 1944
piaf Regarde-moi toujours comme ca. 1945
piaf les gars qui marchaient 1945
piaf ::: ::: Adieu mon coeur 1946
piaf ::: ::: C'est merveilleux 1946
piaf Le chant du pirate 1946
piaf Le petit homme 1946
piaf ::: ::: Mariage 1946
piaf ::: ::: C'est pour ca 1947
piaf Il a chante 1948
piaf ::: ::: L'hymne a l'Amour 1949
piaf La p'tite marie 1950
piaf Le ciel est ferme 1950
piaf Tous les amoureux chantent 1950
piaf Avant l'heure 1951
piaf Chanson bleue 1951
piaf Demain (il fera jour) 1951
piaf L'homme que j'aimerai 1951
piaf La valse de l'amour 1951
piaf Si si si la p'tite Lily 1951
piaf Heureuse 1953
piaf Les amants de Venise 1953
piaf Enfin le printemps 1954
piaf ::: ::: La goualante du pauvre Jean 1954
::: ::: raphael & carla bruni
piaf C'est a hambourg 1955
piaf Un grand amour qui s'acheve 1955
piaf Avant nous 1956
piaf ::: ::: Les amants d'un jour 1956
::: ::: marion cotillard
piaf Comme moi 1957
piaf Opinion publique 1957
piaf Salle d'attente 1957
piaf ::: ::: Fais comme si 1958
piaf ::: ::: Les amants de demain 1958
piaf Les neiges de Finlande 1958
piaf ::: ::: Tant qu'il y aura des jours 1958
piaf ::: ::: Milord 1959
::: ::: jenifer et marion cotillard
piaf C'est l'amour 1960
piaf Je m'imagine 1960
piaf Les blouses blanches 1960

Jane Marny ah! les mots d'amour = 1ere chanson 1931
Susy Solidor ::: Escale ::: 1938
Suzy Solidor

lucienne delyle La Java du bonheur du monde 1940
lucienne delyle Je crois aux navires 1940
lucienne delyle Y'a pas de refrain ( a ma chanson ) 1941
damia mon amour vient de finir 1942
lucienne delyle L'Hotel en face 1944
Yves Montand Ce monsieur-la 1945
Yves Montand Ma gosse, ma p'tite mome.mp3 1947
Colette Renard Irma la douce 1956
film si le roi savait ca 1958
lucienne delyle Les Amants du dimanche 1960
lucienne delyle Ma rue et moi  de 42 a 51
lucienne boyer viens dans mes bras ?
josephine baker donnez moi la main ?
paul peri la priere du gitan ?

Jacquesがピックアップしたものはフランスですべて大ヒットしたもの。Monnot-Piafの作品を日本に限定すれば、Le fanion de la legion ,Mon legionnaire,L'hymne a l'Amour,La goualante du pauvre Jean, C'est a hambourg,Les amants d'un jour,Milord、などが大ヒットした。ピアフの日本でのヒット曲のおよそ半数がMargueriteの作品、確かに数は多い。

6.Margrite Monnotを語る人々

Marguerite Monnotに関して貴重な資料を発見した。
生き生きとした彼女の姿がここにある。
 Marguerite Monnot Filmをクリックしてください。
さらにVoir un extrait du filmをクリック、colette renard,moustaki,raymond assoなどが登場します。MoustakiとMargueriteは「 Milord 」というPiafの名曲を作り出しています。
短いですが、Dans l'ombre de Piafをクリックして別のFilmを見ることもできます。

Piaf- Monnotピアノの前でMarguerite Monnot,Douglas Davis,Paul Péri
1959年6月 PiafのNew Yorkからの帰郷

5.天才ピアニストとして

1903年5月28日、Loire河沿いのDecizeというフランスの小さな町で生まれた。父のGabriel Monnotは宗教音楽の作曲家兼演奏家で3歳で失明している。主に教会のオルガニストとして、そしてピアノ教師として生計を立てていた。母のMarieは音楽を教えるだけでなく、フランス文学の教師であり、また作家でもあった。
両親の生徒や友人、時には有名な音楽家も家に集まり演奏したり歌ったりの音楽的に恵まれた環境の中でMargueriteは育った。
学校には通わず、父や母に音楽教育をうけて、特にピアノのレッスンは毎日長時間に及んだ。
3歳で「Bluette」なる曲を作曲、3歳半でParisで歌手の伴奏をつとめ、1911年8歳でParisでLiszt,Chopin,Mozartを演奏し新聞に紹介された。
12歳から15歳にかけて様々な都市で演奏活動を展開、Charles Camille Saint-Saens(サンサーンス)をして「世界最高のピアニスト」と言わしめた。
15歳でParisでVincent d'IndyAlfred CortotNadia BoulangerなどにLessonを受ける。
16歳でヨーロッパで演奏旅行を開始、スペインのMadridではダンサーのVincente Escuderroのピアノ伴奏もした。スペインの宮廷音楽家にもなったが、両親によってParisに連れ戻された。
Vincente Escuderro

1921年18歳のとき、アメリカツアー中に、舞台恐怖症の発作に見舞われ、この負の苦しみは時に病的な内気や人見知りとなって、一生彼女に付きまとった。
作曲ははじめは趣味だった。1931年Tristan Bernard(孫のChristian BernardはAMORCバラ十字会の会長をしている:筆者注)原作の映画「La Fortune」に「Ah! les mots d'amour!」という曲を書き、その中でJane Marnyが歌った。
次に作詞家のMarc Helyの依頼で「Viens dans mes bras」を作曲し、それはLucienne Boyerによって歌われた。
そして1935年、Robert Malleronの作詞にRobert Juelと共同で作曲した「L'etranger」という最初のヒット曲が誕生した。この時32歳、ポピュラー・ミュージックの世界で浮上したのはBarbara並にかなり遅い。
(Marguerite Monnot 2-エディット・ピアフの生涯でL'etrangerをお楽しみください)
この曲はAnnette Lajonが先に歌っていたがPiafがその譜面をLajon宅からこっそり持ち出し勝手にGerny'sで歌った。
Annette Lajon L'etranger ;
1936年Piafはこの曲でレコードデビューしている。Damiaも同じ年にこの曲をレコーディングしている。
Piafは版権者のMaurice Decruckに何度も依頼したが拒否されてきた。当時は創唱者が最初の六ヶ月間独占権を持っていたのだった。Piafは後にLajonにお詫びをし許され、作曲家で伴奏者でもあるMonnotをこのLajonから紹介された。(Raymond AssoにMonnotを紹介されたと言う資料もある:筆者注)
Raymond Asso

Raymond Asso作詞とMarguerite Monnot作曲のヒット曲としては、「Mon Legionnaire」「Le fanion de la legion](以上紹介済み)など特に大ヒットした。
Margueriteに関するFilmを偶然発見した。
 Marguerite Monnot をクリックしてみてください。

4.Adieu Marguerite

 
「Non, je ne regrette rien」Edith Piaf

Charles Dumont 作曲、Michel Vaucaire 作詞
「Non, je ne regrette rien」 par Edith Piaf
こちらにはMarguerite Monnotの顔が見える。 この時期Olympia公演ではまだMargueriteの曲が予定されていたのだろう。

1959年Michel Vaucaireの紹介でPiafの家でCharles DumontとPiafが出会い、Piaf晩年の名曲「Non, je ne regrette rien」が完成する。PiafはDumontが大いに気に入り翌1960年のOlympia公演では予定していたMarguerite Monnotの曲、11曲をプログラムから取り下げDumontの作品に置き換えた。
Margueriteがショックを受けたのも無理はない。25年の歌手と作曲家としての友情と共同作業の終焉を意味した。
原因のひとつは後に書く「Irma la douce」である。自分以外の歌手に手を差し伸べ大成功をおさめたMargueriteをPiafは許せなかったのだろう、と言われている。
もうひとつはMargueriteの夫、Paul Periがある夜、Piafよりも重視されたプログラム割りで歌い、Piafよりも喝采を受けた事件があったらしい。それもPiafを怒らせた原因のひとつだろう。真の原因はおそらくもっと複雑に違いない筈だが、これらが噂だ。
Piaf4度目のオランピア公演は1960年12月29日に始まり大成功し、1961年4月4日まで続演された。
「私には悔いなど何もない、ゼロからやり直すわ」と歌ったPiafの大成功の半年後、Piafの作曲者としてのidentityをなくしてMargueriteは手術台の上で、死ぬ必要もない病気で死んだ。

・・・・・・・
Michel Vaucaire作詞、Charles Dumont作曲
 「Mon dieu」par Edith Piaf 1961 
・・・・・・・

Charles Dumont :: 僕とMonnotの関係は、ちょっとうまくいかなかった。なぜって、彼女の場所を僕が取ったようなものだからね。その次にFrancis Laiが僕に取って代わったようにね。
・・・・・・

死のわずか2年前MargueriteはPiafについてこう語っている。
Marguerite :: もし彼女が世界の果てにいて、私に心配事があれば、電報を打つだけでいいの。彼女はすぐに来てくれる筈。私と同じよ。私だって彼女のところにかけつけるためなら、どんなことだってほったらかしにするわ。私にとって妹なのよ。私たちの間に何の隠し事もないし、お互い相手の悩みも全部知ってるわ。最高の友情なのよ、私たちは」

健康、仕事、恋愛、さまざまな想像を絶する理由があったとは思うが、PaifはMargueriteの葬儀に列席していない。

3.盲腸の破裂 ・ 心の破裂

いろんな資料を付き合わせていると、必ず数箇所は食い違いが見つかる。Marguerite MonnotとEdith Piafは誰の紹介でどのように出会ったのかについてもそうだ。
先に引用したSimone Berteautの”Piaf"について、永田文夫著「世界の名曲とレコードーシャンソン」誠文堂 新光社刊、P.129には(ピアフの妹と詐称して伝記を書いたシモーヌ・ベルトーによると)という一行がある。
一流ジャーナリストが書いた「伝記」と近親者が書いた「伝記」とでは、私は前者により信頼を置く。恋人や友人や肉親を名乗る人は、愛があふれて(?)場合によっては、ほとんど妄想を語る愚を犯す危険があるからだ。
Simoneが自ら「愛の賛歌」を作詞したという部分などが、怪しいのだが、Margueriteに関する以下の(P.301)部分はよく書けていると思うので、再び引用する。

・・・シャンソンがだいたい出来上がると、エディットは夜中の何時だろうとかまわず、ギートに電話をかけた。
「もしもし、ギート? エディットよ。すぐに見せたいものがあるの」
ギートは決していやと言わなかった。私たち同様に時間の観念がなかった。なかば慣れていたし、それに髪をセットしているときにエディットが思いつくので、頭にスカーフをかぶっていることがしょっちゅうだった。それで私たちが出かけて行った。
マルグリットの家に着くと、エディットは詩を読み上げた。
ギートはすでに手をピアノにかけて、耳を傾けていた。そして彼女だけが秘密を知っている音楽が流れ出した。
「愛の賛歌」の音楽をつかんだ夜、エディットは例のテーブルに身をかがめて、マルセルに言った。(エディットはこの時期、交霊術によりマルセルと会話をしていた。:筆者注)・・・

この場面を見る限り、Margeuriteは「愛の賛歌」をほとんど数時間で完成させている。ピアノに関して、作曲に関してMargueriteが本物の才能にあふれた、きわめて協力的で心優しい、世間的拘束のない天才肌の音楽家だったことがわかる。

さて、Piafとのかかわりはこの辺にして、前回抽象的にしか書かれていなかったMargueriteの死について、具体的に見てみよう。
Margueriteは前から盲腸を病んでいた。「心ここにあらず」の夢子さんの彼女は、天才芸術家の直感として、それが命取りになる予感があったようだ。しかし現実対応力に欠けるこの天才は医者の忠告を聞かず手術を受けない。(Colette Renardによると、ある女占い師に、あなたは手術台の上で死ぬと予言され、Margueriteはそれを気にしていた)
1961年10月12日、58歳で盲腸の破裂とそれに伴う腹膜炎でパリのDenfert Rochereauの病院で死亡した。夫が病院へ連れて行く途中破裂し、結局手術中に手術台の上で意識をなくしてそのまま死亡した。
1963年彼女の故郷Decize市は偉大な作曲家を讃えて彼女の住んだEcoles通りをMarguerite Monnot通りと改名し生家の玄関に記念盤を飾った。1989年には町の中央にある保育園にも彼女の名前が冠せられた。
Margueriteのように才能や美貌があり天才らしい奔放さで生きた女性の晩年と言うのは、たいてい極端な孤独に陥るようだ。山高ければ、谷深し、賞賛と名声の減少を酸欠のように敏感に感じてしまうためだ。
彼女が死の数ヶ月前、友人のNiaudet夫人に書いた手紙から抜粋する。
・・・愛する人に囲まれて暮らすなら、老いることなど辛くはないのです。しかし孤独と老いが重なると悲惨です。私は今特に心理的感情的に耐えられないほど追いつめられていて、絶対的休息が必要なところまできています。感受性が敏感過ぎるように生まれついたことはなんと不幸なことなんでしょう!絶対的休息をもうすぐ見つけ出すことができるでしょうか。絶望に落ち込んでいます。一人で部屋にいて、聞こえるのはラジオ、ラジオの音、流れる時間、その果てには死が。本当に生き終える前に、人は心臓が止まり、愛の暮らしが止まり、消滅するのでしょう。今私の中にある空虚さが、死に向かう空虚さが耐えられません。・・・

Piafに成功をもたらした立役者と言ってもいい作曲家の彼女が、何故このような手紙を書かねばならなかったのか。
二人三脚にも見えたPiafとMarguerite、歌手と作曲家の間に、決定的とは言わないまでも、表面化はしないまでも、それはある時期実は深い亀裂が入ってしまったからだ。(つづく)

Monnot

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「Mon Legionnaire」 Raymond Asso作詞、Marguerite Monnot作曲
RaymondはMarie Dubasの秘書をしていたことがあり、その時期にMarieのために書いたもの。
息を呑むほど驚いたのだが、You TubeにMarie Dubasが歌うMon Legionnaireが動画で出ていた。奇跡を見る思いでご覧ください。
Marie Dubas 「Mon Legionnaire」  
 「Mon Legionnaire」par Serge Gainsbourg 
上のこの曲は勿論Piafの重要なレパートリーでもある。
同じくRaymond Asso作詞、Marguerite Monnot作曲
 「Edith Piaf - La Fanion de la Légion - 1954」 
ナチ支配下のドイツにおいてもPiafは歌うことを許されていたが、この曲はフランス人たちの愛国心を喚起するからと歌うことを特に禁止されていた。
 

2.「エディット・ピアフの生涯」より

日本語の資料でMargueriteについて語られるのは、やはりPiafとの関連を見るしかない。
N氏にいただいた「愛の賛歌ーエディット・ピアフの生涯」Simone Berteaut著、三輪秀彦訳、新潮社刊 P.108-P.110にはPiafにとってのMargueriteが他の資料よりも生き生きと簡潔に描かれているので数箇所引用してみる。

・・・アッソはいわば堅物で、神経質だった。アルグリットは卵形のやわらかい顔つきで、ブロンドの髪、ぼんやりした表情、そして口元にはいつもさまよえる愛情のようなかすかな微笑がただよっていた。アッソは肯定するにつけ否定するにつけ、大声でまくし立てた。マルグリットは夢見る人だった。・・・

・・・エディットは信頼をこめて、マルグリットの手を握った。
「あなたは、素敵な方だと思いますわ。きっと! それに立派な才能をお持ちだと言うことも!」
「あらまあ!」とマルグリットは、自分が犯されるのに気づいたばかりの婦人のような口調で言った。
エディットはすぐに彼女を「ギート」と呼んだ。すぐ彼女を好きになってしまった。・・・

・・・「ギート、あなたは、わたしに音楽を吹き込んでくれたわ」
こうしてエディットはピアノを弾くことを覚えた。彼女はそれが大好きだった。楽譜を見て歌うよりもずっとよくわかると彼女は言っていた。
レーモンとマルグリットと並べてみるとまるで兵隊靴とシンデレラの靴みたいだった。しかし、二人がひとつのシャンソンを作るとなると、がらりと変わるのだった。いわば、恋愛結婚だった。二人がエディットを生み出したのである。・・・

・・・マルグリットの死はひそやかなものだった。彼女は病気のようには見えなかった。とにかく、私たちは知らなかったし、彼女も自分のことは話さなかった。ただ、彼女は普段にもまして、心がそこにない様子をしていただけだ。彼女は生きている時と同じように死んだ。-音もなく。人生をわたってきたのと同じくらい軽やかに、生から死へと滑っていったのである。・・・

・・・エディットはいつも口癖のように言うことになった。
「レーモンがあたしにくれた一番美しい贈り物は、ギートだわ! なんとまあ、びっくりしちゃう女性よ!彼女は地上には住んでいない、どこか別のところに。空色や、きれいで美しいものがいっぱいの世界に住んでいるのよ。ほら、天使ね、あたし天使はギートみたいなんだと思うわ」・・・

・・・マルグリットはシャンソンの世界でなく、立派なコンサートで身を立てるべきだったかもしれないー彼女はナディーヌ・ブーランジェとコルトーの弟子だったのである。・・・

・・・その後同じようにあっさりと、彼女は「異国の人」を作曲した。それは大ヒットになった。それから「私の外人部隊兵士」だ。
それ以後はもう成功がマルグリットを手放さなかった。・・・

ここには、ほかの資料で読んだMargueriteの特色が全部書かれている。他でもみんなが口をそろえて証言しているように、Margueriteはどうやら「心ここにあらず」というタイプだったようだ。
ただピアフの資料ではMargueritoはこの程度しか書かれていない。Piafの数多い男たちの影に偉大な作曲家の彼女の影が、かすんでしまったのだ。「愛の賛歌」にしても作曲家よりも、 世界チャンピオン、マルセル・セルダンとの恋 にスポットを当てるほうがドラマになるのだ。モンタンやアズナブールやムスタキやテオやピルスやルプレや、Piafを取り囲む男たちがMargueritoを霞ませる。
Piafの人生ではなく、Piafの曲を取り上げて、初めてMargueritoの偉大さに光が当たると言えよう。

Piaf Monnot

Piaf, Monnot, Moustaki et Michel Rivgauche
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Edith Piaf 「L'etranger」 
1936年 DamiaとPiafがレコーディングしている。
作詞: R.Malleron.
作曲: Juel et Marguerite Monnot
「L'etranger」 1934

Damia 「L'etranger」  

Damia L'etranger

1.「愛の賛歌」 美貌の作曲家

Marguerite Monnotについて書こうと思っている。「愛の賛歌」の作曲者、Piafの周りの重要な女性なのに、名前以外日本ではあまりに知られていない。資料収集の真っ最中。 Jacquesがとても貴重な動画を探してくれた。 MargueriteがPianoを弾く姿も見ることができる。記事のなかにいれようと思ったがあまりに素晴らしい貴重な資料なので、まずここで先に紹介します。Marguerite、まるで女優と見紛うばかりの美貌だ。Ava Lavinia Gardnerに似ているとまでいわれたこともある。 ”Milord","L'hymne a l'amour","Mon legionnaire","La goualante du pauvre Jean","Les amants d'un jour",うっかりさんなので、他にも作詞家登録していないヒット曲も多い。(たとえば、「La vie en rose」)

Marguerite Monnotをクリックしてお楽しみください。

Boxingが好きなもので、少し寄り道ですが。
「愛の賛歌」はこのMarcel Cerdanに捧げられたもの。
Marcel Cerdan

MARCEL CERDAN, Boxing
Marcel Cerdan -vs- Tony Zale 1948
アッパー気味の左フックが相手の顎に決まってMarcel CerdanのKOが勝ち。

今回の調査でわかったひとつの小さなこと。「L'hymne a l'amour」と言うこの永遠の名タイトルは、そのころPiafの近くにいたまだ無名のCharles Aznavourが当時のPiafの生き方を感じ取って命名した。
Charles AznavourはPiafのもとに8年間いた。
Aznavour

「愛の賛歌」はMarcelに捧げられた歌だが、Marcelが死んだ(1949年10月27日)後ではなく、その前(1949年9月14日)にすでに出来上がっていた。逆に言えば
「いつか人生が、わたしからあなたを奪い取っても
 あなたが死んで
 私から遠く離れてしまっても・・・
 Si un jour la vie t'arrache a moi
Si tu meurs, que tu sois loin de moi」
という歌詞のほうが、後に現実を引き寄せてしまった、と言うのが事実のようだ。

Patrick Fiori & Lara fabian - L'hymne a L'amour
chimene badi l'hymne a l'amour
Mireille Mathieu L'Hymne a l'amour;

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