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Georges MOUSTAKIバルバラを語る(2)

情報・読み物 「CHORUS」1998年春号NO.23 2004/12/08
Georges MOUSTAKIバルバラを語る(2) by Marc Legras

:バルバラは地理的にはデビュー当時セーヌ左岸派。でも右岸派のエディット・ピアフと同じくらい人気があった。典型的な左岸派の歌手は、それに後でだいたい息切れする。Barbaraは音楽と言葉とそれに声とそれから個性が相乗的に働いている。ひとつがそれだけで機能せず、他の要素と相乗的に機能する。彼女はシャンソン作家というよりむしろ、個性を引き伸ばす言葉を発見できる女性なんだよ。その個性に奥行きを与える言葉をね。

:69年にはNelly Kaplanの映画のために「Moi,je me balance」という、やはり僕の曲を録音した。映画のタイトルは「海賊の許婚」。それから何年かして、しばらく一緒にレバノンで歌いました。帰国してすぐの72年に僕のピアノの上に乗ってる僕が書き上げたばかりの「La ligne droite」を見つけました。彼女はピアノに座り、引き始めました。僕はそれに既に曲を付けていましたが、彼女の気分に水をさしたくなかったので、あえて言いませんでした。結局「これを一緒に歌おう」ということになって。

:二人で練習して、勢いに乗って録音もして、Metzから長いツアーを始めました。その二人のツアー中、彼女はいつも前半で歌いました。どうしてそうしたかったのか、不思議です。・・

:Precyに住んで、73年ですが、そしてまた僕がどんどん遠くの国に行くにしたがって、僕たちの関係は中断しました。彼女がFaxを手に入れてから、また連絡しあうようになりましたが。1997年の初め「L'Odeon」という曲を彼女に贈りました。オデオン地区にある古い映画館の、チャップリンなんかの映画をやっていたような、ある古い映画館の思い出を歌った曲です。僕たちの世代の映画館ですよ。(訳者注:ムスタキの「ロデオン」を聞くと、バルバラの声が聞こえてきた。この曲ならバルバラも気に入って、もし歌えたら、楽しげに歌っただろうにと思った)
「これを一緒にデュエットしようよ」と申し出ました。彼女は直接的でない微妙な言い方でやんわりと答えました。「この歌詞大好きだわ」そしてこう付け足しました。
「きっとあなたは全然知らないことだと思うけれど、私はね、もう歌わないのよ」ーーー  (おわり)
   traductrice: Bruxelles


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Georges MOUSTAKIバルバラを語る(1)

情報・読み物 「CHORUS」1998年春号NO.23 2004/12/07
Georges MOUSTAKIバルバラを語る(1) by Marc Legras

「背の高いブルネットの婦人のために」

すでに1961年Barbaraはムスタキの手になる2曲を録音している。1966年にムスタキにSerge Reggianiを紹介したのもBarbaraだ。’67年から’69年までツアーには彼が同行して「La dame brune」を彼女とデュエットした。1972年「La Ligne droite」を共同で書き上げ、それぞれのレコードに録音している。その後一緒にツアーに出て、Barbaraは前半、ムスタキは後半というステージを組んでいた。

:出会ったのは彼女がレクリューズで歌っている頃で、僕はその辺りをウロウロしていた。初めから共感し合えたし、引き合うものもあり、急速に固く結託しましたよ。
彼女が会いに来て食事に出かけたり、夜電話で話し合ったり、そう、その頃からすでに自分の曲の構想を聞かせてくれました。1961年に僕の「Vous entendrez parler de lui」と「De Shangai a Bangkok」を彼女は録音しました。(訳者注:1961年3月Odeonから出た45回転「BARBARA」)それには他に彼女の最初の自作曲「Chapeau bas」(訳者注:レクリューズでは作者の名を伏せて少なくとも2年前から歌っていた)と「Liberte」が入っています。「Liberte」は人は僕の作品とよく間違えますがおそらく僕の「Ma liberte」、これはもっと後で書いたものですが、これと勘違いするためだと思います。(訳者注:「Liberte」はMaurice Vidalin作詞、Charles Aznavour作曲)

:数年後の67年僕に曲を書いて欲しいと言いました。彼女の家に行くと毎回、僕の家には当時TVがなかったものだから、TVに気が行ってしまいました。で、見たい番組を最後まで見て、気がついたら眠っているとい有様でした!ある日彼女がTVのコードを抜き曲を書こうとしないのなら、もうこれを片付けてしまう、と脅しました。番組の続きが見たいので急いでギターを手に取りました。彼女が目の前にいて、背が高く髪の毛がbruneなのに気づいて「背の高いブルネットの婦人のために」と歌い始めました。「Au clair de la lune」を本歌にして。即興の曲に言葉が乗り彼女がピアノを弾きはじめました。それで1曲出来上がり。このデュエットでお互い一緒に行動しようと言いました。彼女のParisに於けるツアーを企画していたJean Sergeが、このデュエット曲のために舞台に一緒に登場して欲しいと言ってきました。「喜んで」と答えましたよ。Parisだけでなく地方公演にまで一緒に回りました。そして69年のオランピアです。その時はいちいち僕を紹介しなくてもよくなっていました。と言うのはDenise Glaserの「Discorama」という番組に出てから「Le Meteque異国の人」がヒットしていましたから。  (つづく)


Michel Colombierバルバラを語る

情報・読み物 「CHORUS」1998年春号NO.23 2004/12/05
Michel Colombierバルバラを語るby Valerie Lehoux

「比類なき才能の持ち主・・」

この音楽家は60年代半ばにBarbaraと出会っている。それから長い共同作業が始まった。1966年から1972年の間Barbaraの作品のオーケストレイションを担当してきた。この長い期間の友情はアレンジャーMichel ColombierがUSAに去った後も、弱ったり鈍ったりすることはなかった。Michel Colombierは今日、映画音楽、バレエ音楽の作曲で大活躍している。以下「CHORUS」のためにバルバラの思い出を証言してもらった。

:アーティストユニオンの祝祭で、パリのオペラ座で出会いました。バルバラは子供用のピアノを前にして、僧服を着たコーラスを従えてビートルズの「Yesterday」を歌いました。この特別な公演の後、一緒に仕事をしたいと言ってきました。当時の彼女のアレンジャーの一人が、彼女の作品は音楽理論に合わないと言ったそうです。彼女は僕に、その辺を正しく訂正して欲しいと言いました。僕は拒否しました。彼女のシャンソンはそのままで、完成されているのです。僕が変形させてはいけないんだ。あっちで少し長すぎたり、こっちで音が不足したり、そんなことは訂正すべきではない。Barbaraの作品は非常に個性的で、学術的理論を持ち込んで変質させるべきではないのです。個性を活かすようにアレンジすべきなんです。

:Barbaraの才能は特異で、比類がない。BarbaraをGainsbourgと比べても意味がないのは、BrassensをBrelと比べても意味がないのと同じです。彼らには全く途方もない天賦の才能があるのです。仕事のやり方に関して彼らには共通点がありました。仕事に対する愛情の寄せ方、同様の気難しさ、そして時間を気にすることなく、仕事に費やすやはり同様な熱情。さらに期待した結果に到達した時に味わう同種の喜び。すべて僕にとっては素晴らしい共同作業体験でした。Barbaraはすべて僕の自由にさせてくれました。一般的に言って、僕が彼女に提案することには、常に同意してくれました。

:彼女の想い出は特筆すべきものもありますよ。ある日、たとえば、アルバムを締めくくるために一曲足りなかったことがありました。彼女は引き出しを手探りして、そこから古い曲を取り出しました。そしてそれをちょっとベートーベンの月光のソナタ風に弾きました。
彼女の運転手のピエールが、そのカセットテイプを僕のところに持ってきて、僕の目を真っ直ぐに見つめてこう言いました。「これをヒット曲に仕上げてください。うちのパトロンのために、あなたにお願いしたいのです」!明らかに彼女が使いを寄越したのではなく、彼が彼女が大好きで自発的にやって来たのです。・・その曲がその後どうなるか想像もしませんでした。アレンジを引き受けました。それがあの「黒いわし」ですよ。

:Barbaraは女性としても並外れていました。非常に人間味があり、良い時も悪い時も心理的に身近に感じられるところに居てくれます。僕の息子、Emmanuelは5歳で亡くなりました。彼女が全部面倒を見てくれました。やって来て、妻を慰めるために、衣類を整理してくれました。それから手続きの用紙の書き込み等もしてくれました。Bagneuxに墓地も選んでくれました。彼女の母上の墓地からそう遠くないところです。・・彼女もそうです、そのBagneuxのお墓に入っています。僕がフランスを離れた後も一緒に仕事をしていますよ。1981年のアルバム「Seule」。そして86年のNew Yorkでの舞台。メトロポリタンオペラ劇場で文化的大イベントがあって、Baryshnikoffが彼女のファンでどうしても彼女に歌って欲しいと言ったんだよね。あのね、彼はフランス語をBarbaraのレコードを聴いて学習したんだ。彼女はパリからやってきた。20年前と全く同じ、お互いにとってお互いが何も変わっていなかった。
実のところ、大好きな人達と一緒に仕事をするのはいつも、変な困難がないんだよ。楽しくて容易い。僕は彼女を好きだし。そう、彼女は非常に非常に並外れて偉大なアーティストだったよ。(おわり) Traductrice:Bruxelles


MAURICE BEJARTバルバラを語る

情報・読み物 「CHORUS」1998年春号NO.23 2004/12/01
MAURICE BEJARTバルバラを語る by Valerie Lehoux

「僕たちは兄妹のようだった」

バルバラの死についてMaurice Bejartが語るのをあまり聞きません。あまりに傷つき、苦痛なので、二人の友情について語れないのでしょう。60年代の半ばに出会って以来途切れることの無い友情が続いていました。お互いを熱烈に認め合ってきました。お互いにステイジの上で出会うことをどれだけ熱望してきたことでしょう。・・・

Barbaraのことはうまく語れません。思い出がありすぎるのです。旅行やら、二人で見出した様々な事、冒険やら・・。彼女は女友達の枠を超えていました。妹みたいなものです。出会いは一目ぼれのような衝撃でした。すぐに、特別なもの、たとえば、別れていた双子が偶然出会ったような・・すぐに気づきました。同類・・という直感です。好みも同じなら、考え方、惹きつけられるもの、すべて同じです。Barbaraは僕自身の中の巨大な一部分と言えますよ。彼女のステイジについて言うのですか?簡単です。彼女はそこに存在している。自宅にいるみたいにステイジに存在している、本来の場所にいるのです。そもそも人生がそのようなものでした。Precyから舞台へ、舞台からPrecyへ。それは彼女が作り出した神話的な宇宙で、そこでありったけの熱情とありったけの真摯さを持って生きていました。
90年に僕がオペラ座で舞台をした時、彼女はMogador座で歌ってました。毎日僕は彼女のところに会いに行きました。彼女は舞台裏にジプシーのテントのようなものをしつらえていました。朝の10時にはもう楽屋入りして、すでに歌うための準備は、ほとんど完了状態です!
時代が下るにつれて舞台上で多く動くようになりました。ずっと長い間、彼女はそうしたいと思っていました。一緒に「Je suis ne a Venise」を70年代に撮影したとき、彼女はフィルムの中ですでに非常に魅力的に動いています。
ある日、僕のステイジの2時間前に不意に彼女がやって来たことがありました。ピアノがあったので、弾き始めました。踊り手たちはリハーサルを中止して彼女を取り巻いて座り込み、皆彼女に聞き惚れました。夜の8時になって、劇場の支配人があわててやって来て僕に言いました。「客席は既に満員です。どうして始めないのですか?」
ダンサー達は全員彼女を取り囲んでバルバラの歌に魅了されていました。
彼女は笑って、車に乗り込み「モナムール、失礼するわね」と言って立ち去っていきました。
またこういうこともありました。歌とダンスのオーディションに彼女が審査員で参加していました。彼女は一番奥にいて大きなメガネと帽子で、誰だか誰にも分からないような姿をしていました。ある応募者が彼女の曲を歌いました。その子が歌い終わるとBarbaraは立ち上がりメガネをとって言いました。
「ブラボー、マドモアゼル、とっても素敵でした」そしてその若い女の子は気絶しましたよ。
最後まで僕たちはずっと繋がっていました。若いころの思い出をあれこれ語り合ったり。毎朝書いたばかりのFaxを送ってきました。
2年弱前でしょうか、彼女に劇場で「La Callas」という芝居をしないかと言うオファーがありました。僕は断れとアドバイスしました。神話は別人では演じきれないからと。Barbara自身ももう神話でしたし。独自性のある女性でした。完璧さ、自分自身に対する要求の強さ、そして並外れた意思の力において。
亡くなる2週間前に一枚の厚紙が彼女から届きました。そこに3つの文字がフェルトペンで書かれていました。その厚紙は僕の部屋の目の前の壁に貼ってあります。「Je t'aime」この3文字を僕は4,6時中眺めています。(おわり)             Traductrice: Bruxelles


Jeanne Moreauバルバラを語る

情報・読み物 「Inrockuptibles」1997年12月3日 2004/11/30
Jeanne Moreauバルバラを語る by Christophe Conte

「樹木を贈りあっていました」

Barbaraとは10年くらい前からの知り合いです。何度も何度も会いたいということをお互い言っていましたが、結局旅の途中で出会いました。その日以来仕事とは無関係の、人と人との心の通じる関係を築いてきました。彼女を知る前、彼女は私にとって秀逸な人物の見本のような人でした。バルバラと仕事をしたことがあるという理由で、私のシャンソンのアレンジャーを選んだこともありました。彼女は友情の手本のような友情を示してくれました。彼女は100%誠実な人で、その誠実さは、ほとんど何かの破壊者になりえるほどでした。決して媚態を示す人ではありません。社会活動をしていても人との関係で決して扇動するようなところはありません。彼女を語るとき、黒色の光、と人は表現しますが、私は、明るく透明な光を連想します。人が思っているのとは、むしろ逆です。外見的イメージは確かに、非常に暗がりを感じさせますが、実際内面は輝く太陽の光のような人です。
作品においても人生においても常に彼女は、本質に触れるものを求め続けていました。私生活の彼女を知っている人なら、みんなそういう印象を持っているでしょう。世間の噂には、とらわれない人です。彼女が一番重要に考えるのは、前に進むこと、常に人々の心をつかみ、人々を理解するために出発しようとすることでした。また、決して憂愁にとらわれる人でもありません。
まったく反対で笑うのが好きで、むしろ時にはからかい好きの方だったといえるでしょう。ある種の豊かな想像力に恵まれていなければ、こういう性格にはなれないでしょう。女優である私にとってさえ、彼女の女優としての潜在能力には本当に目を見張るものがありました。私なら、勇気を持ってそこまで出来ないだろうと思うことを、彼女はしていました。彼女は彼女の奥深くに潜んでいる豊かさを、まるで錬金術師のような見事さで汲みだし引き出しさらに高めて提示し、無限の気前よさで、人々と分かち合うという途方もないマジックのノウハウを持っていました。でも、私と比べれば、私の方が快活でしたが、彼女は老いる、とか死ぬとかに対しては、思い悩まずに平然としていました。
恋やその他いろんな事を笑いながら話し合っていましたが、めったに仕事のこと、人生の悩み等は話しませんでした。お互い会うときは、二人とも快調な時でした。何か行き詰っている時には決して会いませんでした。調子が悪いとき、不幸が去るまでじっと閉じこもっている人です。私もそうです。時々Faxのやり取りもしていました。二人とも夜中にFaxを送ります。目を覚ました翌朝一番に読んでもらえるからです。彼女の死を知った時真っ先に思い出したのはFaxのことでした。この二人の奇妙な習慣、そして彼女の筆跡。バルバラと私はね、お花のやり取りではなく、いつも樹木をプレゼントし合っていました。最近巨大なオレンジの木を贈ってくれました。一段落したら、彼女に最後の樹木を一本届けたいと思っています。今朝どれにするか、もう決めました。(おわり) Traductrice: Bruxelles          


「Roland Romanelliバルバラを語る」

情報・読み物 「CHORUS」1998年春号NO.23 2004/11/29
「Roland Romanelliバルバラを語る」 by Valerie Lehoux

「全部彼女から学んだ」

二人が出会ったのは定められた運命だったのだろう。’66年リサイタルの前日、Barbaraは即刻Joss Baselliの代わりが必要になった。彼女は新人のアコーディオンのコンクールから頭角を現した若い男性に電話した。Roland Romanelli、20歳。二人の間には相互理解があっという間に浸透していった。彼は彼女の伴奏者になる。まずアコーディオン、そしてシンセサイザー。1981年Pantinの大観衆を前に彼女は彼に最大級の賛辞を贈った。心から感謝を込めて、ロマネリをこう紹介している。「14年間の真心をいただいています。彼は計り知れない豊饒な才能の持ち主です・・」

全部彼女から学びました。彼女が僕を作りました。音楽という境界を越えて。彼女から最初に電話があったとき、冗談と思いました。僕は20歳で、パリに出て8ヶ月目でした。僕の最大の狂気のような夢は彼女の伴奏者になることでした!だからそのときの電話を・・僕は一生忘れないでしょう。
Barbaraはすぐに僕を信頼してくれました。彼女は僕を呼び出し、僕の手をとり言いました。「心配しなくてもいいのよ。万事うまくいくわ」彼女は何よりまず作品を聞くことを要求しました。Barbaraは直観でクリエイトする人です。彼女が演奏するとき、声と歌と、歌詞とそして彼女の存在とに全く同質の息遣いがあるのに気づきます。すぐにお互いを理解しあうことが出来ました。ほとんど一体でした。彼女の体調がいいとき、僕もそうですし彼女の体調が悪い時は、僕もそうでした。一緒に仕事をするときは時刻などは存在しません。彼女の家の仕事場では、夜も昼も区別はありません。彼女は彼女自身のバイオリズムで、激しく情熱的に仕事をします。作曲するときは、ものにとりつかれたように延々と続けます。ひとつの新しい曲を作るときは、いつも必ずその新作品を今までの中で最高のものにしたいと望んでいました。
ステイジ上では自由で何でもありでした。彼女は話し始めることもあれば、曲順を自由に変えますし、いきなり歌うのを止めたり、これをしてはいけないという怯えは何もありません。・・僕たちの間には強い信頼がありました!新しい試みは何でもさせてくれ、その点僕も自由でした。順風満帆でした。
ある日ツアー中、強い痛みを感じたことがありました。公演の数時間前でした。夕方の公演の時間になると不思議にも痛みが消えました。けれど幕が下りるとまたすぐに強烈な痛みが・・。朝の6時に腹膜炎の手術をしました。こんな感じですよ。リサイタルの間は、彼女のそばで演奏している間は、いつも痛みなど消えてしまうくらい、緊張感と集中力が凄かったのです。

別れたのは、Lily Passionの時です。レコードを皆で準備していて、僕はそのスタジオで皆でやっていることがどうも気に入りませんでした。彼女は僕の気持ちを知り、それを悪く取って、そして僕は去りました。この別離に至るだろう雰囲気的なものは数ヶ月前から確かにありました、今から思えば。20年間を共にすること、20年、長い年月です。彼女はいつかこんな事を言っていました。「きっと私達、二人の歴史の一番美しい頂点で、別れるかもね」そして、それが事実になりました。頂点の一番気持ちが高まった時に、それゆえに。僕たちの別離は最高の思い出だけを残して終止符を打つための、彼女の僕への贈り物だったのかもしれません。(おわり)  Traductrice:Bruxelles
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1978年のオランピア。劇場正面上部の大看板に赤字でBarbaraはスター出演者名をこのように掲示させた。
[BARBARA et ROLAND ROMANELLI]
驚いている彼にBarbaraは言った。「当然よ。二人で作ったステイジなのだもの」  (追記)


Roland Romanelliバルバラを語る(3)

情報・読み物 「Inrockuptibles」1997年12月3日号 2004/11/27
Roland Romanelliバルバラを語る(3) by Emmanuel Tellier

『仲たがいの原因は、アーティストとしての考えのくい違いですね。簡単に言うとどんなことがあったんですか?』
:Lily Passionのレコードに関して。結局彼女はそのまま出しませんでした。公演は彼女が思い描いていたように、想像を絶するものでした。ただ、作品の準備期間中、何かがおかしいと僕は感じていました。やっていることがどうもよくないと思えて。それを言うのも僕の役割だと。ただ彼女が怒るのを恐れて彼女に直接言わないでGerard Depardieuに言うという間違いを犯しました。いずれにせよ彼女は僕が賛成しないこと自体に我慢ならなかったでしょう。彼女がやって来て言いました。「みんながやってること、ダメだって?」僕は嘘をつくつもりはないから、考えていることを繰り返して彼女に言いました。彼女は「さて、どういうことかよくわからないわ」突然僕は馬鹿みたいに出て行きました。軽率な行動です。それが僕たちの終わりです。初日の1ヶ月前でした。それからの数週間、僕にとってはとても苦しい、つらい日々でした、多分彼女にとっても。そもそもBarbaraは僕を失くすだろうとずっと感じていたと思います。僕は、彼女の仕事に関していままでひかえていた事をいろいろ思い切って言っていましたし、映画音楽などを書き始め、彼女から遠ざかりつつありました。それを彼女は耐え難いと思っていたのです。

『彼女から会いたいというアプローチは全然なかったのですか?』
:1度僕のいるスタジオに電話がありました。声ですぐに彼女とわかりました。彼女は「もしもし、Jean-Michel Jarreさんのお宅ですか」と言いました。何を思ったのか、別に僕はJean-Michel Jarreに対して何の感情もありませんが、思わずこういいました。「おかけ間違いですよ、Madame」そして電話を切りました。その後、全く何もありません。・・お互いまだ充分興味があり気にかけていると人づてに聞いていました。どちらも相手が今不幸を味わっていると知っているし。でもそれから先は、どうすればいいかわかりません。僕はシャトレの公演に行きたいと思いましたが、彼女が望みませんでした。彼女は共通の友人を通して客席にいる僕の姿を目にしたら、その場で歌うのを止める、と伝えてきました。僕に見られることに耐えられなかったのでしょう。ひどい話だ。何故って僕は彼女に再会すべきだったんだ。そう、当時、生きていることがとてもつらかった。ある意味で、僕にとって、彼女が死ぬなんて、思いがけない事故のようなものだった。というのは、やはり,再会しようと決めていたんです、多分,暮れかお正月にでも。

『お話をお聞きすると、失われた恋、に関するすべての要素がそろっていますね』
:いや、恋物語そのものだったんですよ。仕事のパートナーと,こんなひどい別れ方は誰もしませんよ。20年間の二人の結託を、あっという間にダメにして、その穴を埋めるのは誰にもできません。すごいのは、僕たちの関係はいつもずっと、お互いの気持ちがミエミエだったってこと、隠しもしないし、出来るものでもなかった」(おわり) Traductrice: Bruxelles

Roland Romanelliバルバラを語る(2)

情報・読み物 「Inrockuptibles」1997年12月3日号 2004/11/25
Roland Romanelliバルバラを語る(2) by Emmanuel Tellier

『ステイジ上での仕事に関する思い出は何ですか?バルバラは決して固定しないで常に問い直し続ける、と言う噂ですが』
:完全にある意味仕事人間です。ひとつの曲に6ヶ月費やすのも平気な人です。本当の意味で完全主義者でとても気難しく、つまり細部にまで要求があり、一旦仕事に取り掛かると、集中を妨げるものすべてを拒否します。時に丸2日間食事しなかったこともあります。しかし僕はいつも、この仕事は、あきらめて受け入れて従わなければならないことは必ずある、自分を投げ出し、ある程度犠牲にすることが必要だと考えています。僕から見れば、彼女は生まれながらの歌手、そして直観でクリエイトする人だと思います。後天的な努力がすべてではないところがあります。

『排他的という表現を使われました。バルバラはあなたが、彼女とかかわりのない自分自身の生活があることに、嫉妬しませんでしたか?』
:勿論です。その点は大変でした。一緒に仕事をし始めて4年後に僕は結婚しました。厳密に音楽をする者として彼女は、僕が他の歌手とツアーに出ることを嫌がるだろうことを、僕は知っていました。めったにないことですが、僕が他の歌手のTV出演に一緒に出るときは、いつもバルバラに断りを入れていました。尊敬の念がありますから。それと、彼女に出会うまでの僕は、誰かに必要とされるようなたいした存在ではなかったわけですから。僕をつくったのはそれはバルバラなんです。・・・そして僕が不誠実なことをすると、しばしば頭ごなしに、がなりたてて、僕を揶揄したりしました。バルバラはからかうのが大好きなんです。本質的にそうです。電話で声を変えて、他の歌手の名前を名乗ったりよくしました。「もしもし。Untelです。Rolandをお願いします」こういうおふざけをしては、よく楽しそうに笑っていました。

『20年間人生を共有し、突然一緒に仕事をするのをやめましたね』
:僕が去っていきました。何でもないんです。理由も何も。何の原因も!馬鹿馬鹿しい言葉の行き違い!彼女が作ろうとしていたレコードに僕が賛同しかねただけです。・・僕は安易に譲らない性格です。そして彼女は僕の10倍もそういう性格です。だから愛し合っていてもまた一緒にやりたいと思っても、それまで。二人とも何かきっかけがあって言葉を交わしたり、再会したり、それを待っていましたが、何も起こりませんでした。バルバラは事をはっきりさせたい人間です。こういう結果がそれを立証しています。20年共に歩み、それから次はゼロ。極端から極端へ。僕たちの関係は一気に振れました。(つづく)

「Roland Romanelliバルバラを語る」

情報・読み物 「Inrockuptibles」1997年12月3日号 2004/11/24
「Roland Romanelliバルバラを語る」by Emmanuel Tellier

「バルバラは美しくこの世を去ることを望んでいた」

20年近くの間、バルバラの伴奏者として中心的役割を果たしてきたのは、彼Roland Romanelli。
時に冗談を言い合ったり、時にお互いに残忍であったり。二人の出会いは喜劇で始まり、そしてそれは悲劇で終わった。

僕がバルバラに出会ったのは20歳の時だった。僕が20歳で彼女が36歳。バルバラのアコーディオン伴奏者だったJoss Baselliは去るにあたって二人のアコーディオン奏者を紹介した。バルバラは僕の名前の方を記憶に留めておいてくれた。少し前にパリに来たばかりだった。Colette Renardのツアーの伴奏をして、ほんの少し名前が売れていた。コンクールで2,3回賞もとっていた。まあまあのデビューだったけれど、普段は音楽関係の店でアコーディオンを弾いているような、パッとしない仕事をしていた。ある日、その店にバルバラが電話をくれた。一緒に仕事をしてほしいと言った。初めは冗談だと思った。それくらい信じられないことだった。バルバラと仕事をする。それは僕にとっては狂気に近い完全な夢の話だったから。一生の仕事として伴奏者になるという目標をずっと前から決めていた。そう、バルバラやブレルの伴奏者になりたかった。でもブレルは少し前にコンサート活動を止めていた。

『当時バルバラについて、どの程度しっていましたか?』
:バルバラは当時まだすごく若かった。でも僕にとっては巨人過ぎるスターだった。電話で彼女はこう言った。「3日後にツアーに出るの。大至急お会いする必要があるの」その時は思わず笑っちゃったよ。とりあえずMoulin de la Galetteで会う約束をして、そこに出かけた。そしてこの話が冗談でないことがわかった。バルバラが本当にいたんだ。ほんの2,3メートル先に。こちらよって、僕に手で合図してきた。本当に僕に合図しているのかどうかわからなかった。「こっちだよ」って僕に声をかけてきたのはバルバラの運転手だった。バルバラは僕の手をとり「心配しないで。万事とてもうまくいくわ。明日家で会いましょう。私のレパートリーを覚えて頂戴」と言った。バルバラの秘書がレコードを何枚も僕にくれた。僕はその晩、全部聞いた。全部僕用の譜面に書き換えた。僕の小さな下宿部屋で、夜を徹して。
翌日バルバラの家に行きリハーサルをした。そして3日後に一緒にツアーに出た。イタリアだった。

『あなたは20年間バルバラの元にいたわけですが、それはミュージシャンとしての関わりを大きく越える役割ではなかったかと思うのですが』
:どういう風に表現すればいいでしょう。「le role d'homme de vie」と言えばいいのか。そもそも「生活の場の男の役割」などと言う表現は正しいかどうかわかりませんが。ある意味でともに生き、共に旅行し、お互いの時代を共有して来ましたから。僕は彼女のミュージシャンで、彼女の運転手で彼女の護衛でした。彼女の存在全体を守る役目もしてきました。つまり、彼女が亡くなった今、僕がとても不幸だと思うのは、間違いなく、関わりの深さ大きさのためです。実際、彼女があの世に行ってしまったんだとなかなか実感できないんです。あまりにも近くに、あまりにも長くいましたから。昨日もまた、これは冗談に違いないと思いました。、彼女、そういう冗談が好きでしたし。全部彼女が仕組んでおいて、それから「みなさん、あのね、私が死んだらどうなるかちょっと、知りたかったの。ちょっとしたリハーサルをやってみたのよ」とか何とか言いながらまた現れる。(笑い)・・・彼女の死のニュースを聞いた時は、自分が崩壊すると思いました。最初の日完全に打ちひしがれました。彼女は僕の人生の20年間そのものです。うん確かにバルバラは厳しく、独占欲が強く、排他的なところもありましたが、それは女性的な愛の形ですから。あまり知られていませんが、その女性的な形の愛とは、それは同時に極端に残酷でもあるのです。彼女がユニークなのは、まさに二つの面を極端に持っていたからです。-(つづく)


Barbaraに捧げる詩

情報・読み物 Barbaraに捧げる詩 by 元秘書Marie Chaix 2004/11/25
作:1997年11月25日:発表「CHORUS」1998年春号

Voyageuse de la nuit bleue
n'oublie pas tes lunettes
ni tes mules de velours
Pour les pianos
ne t'inquiete pas
le ciel en est rempli
et les anges les accordent

Quant a nous
pauvres de nous
l'oreille dressee
nous comptons les etoiles

(Marie Chaix)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

青色に輝く夜の
しじまの中を旅立つあなた
忘れないでね あなたのメガネ
忘れないでね あなたの部屋靴
ピアノのことは
心配しないで
あなたが向かう旅のゆく先
神の国にはピアノがいっぱい
天使たちもあなたに合わせて
ピアノの音は夜空にいっぱい

残された私たちは
なす術もない私たちは
耳をそばだてじっと聞き入る
星を数えてリズムをとって
星を数えてあなたを探して

(Marie Tailor)


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