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Barbara「黒いワシ」について

 (1)Un beau jour, ou peut-être une nuit,
Près d'un lac je m'étais endormie,
Quand soudain, semblant crever le ciel,
Et venant de nulle part,
Surgit un aigle noir,

(2)Lentement, les ailes déployées,
Lentement, je le vis tournoyer,
Près de moi, dans un bruissement d'ailes,
Comme tombé du ciel,
L'oiseau vint se poser,

(3)Il avait les yeux couleur rubis,
Et des plumes couleur de la nuit,
A son front brillant de mille feux,
L'oiseau roi couronné,
Portait un diamant bleu,

(4)De son bec il a touché ma joue,
Dans ma main il a glissé son cou,
C'est alors que je l'ai reconnu,
Surgissant du passé,
Il m'était revenu,


Dis l'oiseau, ô dis,(a) emmène-moi,
(b)Retournons au pays d'autrefois,
Comme avant, dans mes rêves d'enfant,
Pour cueillir en tremblant,
Des étoiles, des étoiles,

Comme avant, dans mes rêves d'enfant,
Comme avant, sur un nuage blanc,
Comme avant, allumer le soleil,
Etre faiseur de pluie,
Et faire des merveilles,


L'aigle noir dans un bruissement d'ailes,
Prit son vol pour regagner le ciel,

Un beau jour, ou peut-être une nuit,
Près d'un lac, je m'étais endormie,
Quand soudain, semblant crever le ciel,
Et venant de nulle part,
Surgit un aigle noir,

(省略)(省略)(省略)(省略)

Un beau jour, une nuit,
Près d'un lac, endormie,
Quand soudain,
Il venait de nulle part,
Il surgit, l'aigle noir...


この緑色の部分が「黒いワシ」の中で私が特に好きな部分。

(a) emmène-moi
私を(あなたの世界へ)連れて行って
と鳥にお願いの呼びかけをしている。鳥は今、語りかけるほどの近くまで来ている。
(b) Retournons au pays d'autrefois
昔の世界(おそらく鳥と共有した時代)へ一緒に戻りましょうよ、
と今度は誘っている。Tu(あなた)とJe(私)であった関係からNous(私たち)の距離へとさらに心理的に近づいている。

全体に目を転じると青の
(1)un beau jourと低く出ている部分では、鳥は遠い空のかなたに、突然姿を現してくる。
(2)Lentement 以下はやはり遠い鳥の存在と動きを視覚と聴覚でとらえて描写している。
(3)Il avait les yeux couleur rubis以下では鳥はさらに近づき,眼の色、羽根の色、そして額に輝くダイヤモンドのような光まで、見て取れる。
(4)De son bec以下、鳥はなつかし気に至近距離まで近づき、私の頬に触れ、私の手の中で動く。
どこからともなく現れた鳥は、まっすぐに私に会いに来たひとつの生命体なのだと気づく。
それはもう一人の過去の私なのか、あるいは、私の心の中でずっと生きてきた、私から実は離れたことのない、私を愛する人なのか。
音程の高まりと共に、鳥がどんどん近づいてくるのが、ここまでの部分。

そして、先に指摘した緑色の部分、すなわち、語りに入っていく。湧き上がる自分の想いを思わず鳥に語りかけるのだ。

(a)Dis l'oiseau, ô dis, emmène-moi,
(b)Retournons au pays d'autrefois
   ・・・・・・・
以下 Comme avant(昔のように)・・・が4回登場する。
イ)昔のように子供のころの夢の中へ
ロ)昔のように子供のころの夢の中へ
ハ)昔のように、白い雲の上に
ニ)昔のように、

イ)夢の中で、何をしたいかと言えば
Pour cueillir en tremblant
Des étoiles, des étoiles,
身震いしながら、星々を摘むのだ。なんと美しい表現だろう。cueillir des étoiesだけなら、単なる詩的表現に留まるが、ジェロンディフのen tremblant,すなわち「身を震わせながら」に私は感動を覚える。子供の頃の無垢な感性と、スリルと悦びのトキメキ、柔らかすぎる感受性が痛いほど伝わってくる。

(Retournons)pour
1, Cueillir des étoiles
2, Allumer le soleil
3, Etre faiseur de pluie
4, Faire des merveilles

子供の頃の夢の中で、白い雲の上で
他に何をしたいのかとよく聞けば
2、太陽に火を灯したい
3、雨を作り出す人でありたい
4、数々の神秘現象をおこしたい

心の想いが溢れ出たクライマックスの後、鳥はそれを理解できたのか、聞き入れたのかどうか。
黒い鷲は、羽根を広げ、感情と知覚をゆだねられた鳥として、空気を乱して音をたてて、再び空を求めて遠ざかって行く。

そしてまた、夜の静けさの中ですべてが、はじめに戻っていくのだ。
Un beau jour以下が5回繰り返されるが、まるで擦り切れたレコードのように、ここで繰り返されるのは、
(1)ある日、ある夜
湖の畔で、眠り込んでいたら
突然、遠くの空に、どこからともなく
一羽の黒い鷲が現れた、
という最初の場面、あの遠い遠い描写のみ。
だが、その事実の描写と思える部分さえ、次第に言葉がポロポロと落下しフレイズが飛び、最後に鳥は、空の向こう側の世界に、まるで存在を消すかのように、曲全体と共にフェイドアウトしていく。
「黒い鷲」と言う曲には、この終わり方しかないのだということが納得できる。

私のArt Site「L'oiseau Invisible」の最終4ペイジ目に、私の大好きな歌詞の部分をピックアップして掲載した。暗闇に消えた見えない鳥にBarbaraが伝えたかった心の想いを、ここに結晶させたくて、このペイジを制作した。クリックしていただければ、幸いである。(Bruxelles記)
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Monsieur H (つづき)

Hubert Ballay par Gilles Schlesser
出典:La Lettre des Amis de Barbara No.29
・・・・・・・・・・

GS :別れた原因は何ですか?

HB :僕はAbidjanに彼女はParisに、つまり5000キロ離れて暮らしていました。彼女は歌手としてこれからという見通しがついて展開していこうとしていました。僕には彼女の歌手としての人生を断ち切る権利はありませんでした。二人は愛し合っていましたが、現実的に愛し合うことは不可能でした。本当なら100年も続く筈の恋でした。しかし現実の前に、実際は2年半続いて終わりました。お互い納得してやむを得ず、別れました。友達としては会い続けましたよ。’65年までくらいはね。65年と言うのは僕がParisに戻った年です。Barclayの部長の職に就いた年です。勿論会社は僕がBarbaraを昔から知っていると知って、彼女に会うように望みましたよ。でもね、僕はBarbaraに言ったんですよ、Philipsを離れるなよって。

GS :彼女の歌手としてのキャリアにどんな影響を与えたと思いますか。

HB :初めのころBarbaraのレパートリーは、ブレル、ブラッサンスでした。それはそれでよかったのですが、彼女は女性ですから、自分自身の表現ではないわけです。僕がアドヴァイスしたのは、自分自身の曲を書くこと、独自のスタイルを作り、独自の世界を打ち出すことです。そのために僕と一緒にいる時は、一緒にその目的のために努力しました。彼女と一緒に僕は作曲も作詞もしました。でも決してSACEMに共作者として名前を出したいとは望みませんでした。ナント、たとえば、ナントは二人で作詞作曲した曲です。

GS :と言うことはお父さんに関することを聞いていたのですね。

HB :はい。と言うのはVitruve,彼女が住んでいたあの場所に時々、その窓の下にやってきて座っている一人の男性がいたんですよ。僕はその人をよく見かけましたよ。Barbaraはそれが父親だと、知っていました。けれど、ほかの家族は誰も気づきませんでした。Madame Serf(バルバラの母)も、その男に目をやっていましたが、わからなかったのです。そのベンチに座っている浮浪者が自分の夫だと、もはや、わからなかったんです。

GS :Barbaraはあなたとの女としての愛の人生よりも歌手としての自分の夢を選んだのですか。

HB :はじめは全くそんなことはありませんでした。僕たちが出会った頃、L'Ecluseでデビューした頃は、彼女自身自分がこれほどのスター歌手になるとは夢にも思っていませんでした。彼女が歌手としての人生に集中していくのは、レコード会社が次第に歌手としての彼女に注目し、売り出そうと力を入れ始めたからです。

GS :彼女との別れに、あなたは苦しみましたか?

HB :別れたことは、お互い納得してわかれたので、そのことでは全く苦しみませんでした。僕が苦しんだのは、それゆえにもう会えなくなった事実にです。時々彼女はその後も僕に電話して来ました。特にうまくいかずつまずいた時に。昔のように、僕たち二人のことについて、何か話すということでは、もうなくなっていきました。
'86年からは、もう関わりもなく会ってもいません。(終わり)
・・・・

Gilles SchlesserによるHubert Ballayへのこのインタビューは2007年1月に、Les Amis de BARBARAのために特別に行われた。
Hubert BallayはBarbaraと知り合った当時コートジボワールに滞在する外交官であった。ここにあるようにBarclayの重役にもなっている。起業家でもある。作家でもあり、作曲家でもあり、シナリオライターでもあり・・・とつまり多才でおそらく魅力的な人物であったことがわかる。
60年代Barbaraはリサイタルで「Dis Quand Reviendras-Tu?」を歌う時次のような言葉をささやいていた。
「以前は、私は他人の曲ばかりを歌っていました。ある日十字軍の遠征に出発していったある男性に、自分自身のシャンソンを書くチャンスを与えられました。そして自分のこの曲を書きました。その曲のタイトルは・・・」と言い、そしてタイトルを言うことなくピアノを弾き始め「Dis Quand Reviendras-Tu?」と歌いだすのだった。

・・・・・・・・
父親は飛び出したまま、家族を捨てて自由奔放に無責任に放浪していたわけではないことがわかる。家族と生きることに力が尽きたのだろうか。それともBarbaraへの罪悪感から、去らなければならないと思って出て行ったのだろうか?
ナントで死んだ父は、あの世から全力でBarbaraを見守ったのではないだろうかと思われる。母に走り書きを残し、たった一人でナントに向かったBarbaraの気持ちがすこしづつわかってきたような気がする。

Monsieur H

Hubert Ballay par Gilles Schlesser
出典:La Lettre des Amis de Barbara No.29
・・・・・・・・・・・・・・・

GS :Barbaraに関する本では、あなたはいつもMonsieur H.ですね。バルバラの恋人、彼女が「いつ帰ってくるの?」を歌った相手だと知られています。「どうして帰ってこなかった」のですか?そもそもどのように出会ったのですか。

HB :一番最初に彼女を見たのは、Saint-Michel。夕方。La Boule d'Orという店で。多分56,57年。Dade(Gilles Schlesserの父)と一緒にいるとき、彼が彼女を紹介した。これからL'Ecluseで歌う歌手だって。Dadeは仕事があって、そのとき僕がBarbaraを食事に誘った。Saint-Andre-des-Arts通りの店。それが最初。彼女はベルギーから戻ってきていてVitruveにとまったり、ホテルに泊まったりしていた。特にrue de Seineのホテルによく泊まっていた。僕たちは非常に気があったんだ。すぐに彼女は心を割って自分の人生を語ってくれたよ。家族のこともね。そして弟のClaudeを助けてやってくれないかとも頼まれた。そんなわけで、彼女のお母さん、妹、弟に会った。Vitruveの家でね。それから僕がまたアフリカ(コートジボワール)へ行った。59年か60年の初めParisに戻った時に、彼女との本当の恋愛が始まった。イタリア、スイスに二人で旅行した。その短い旅行中に「Dis、quand reviendras-tu?」ができた。僕はアフリカに、Abidjanに戻らなければならなかった。そのとき彼女が聞いてきた。「ねぇ、いつ戻るの」そして「私は船乗りの妻の貞操を持ち合わせてはいないわ」って言った。「あなたを愛して愛の苦しさに死んでゆくつもりはないわ」って言った。僕は彼女にもう一回言ってくれって言った。僕はそしてあの歌詞を書きとめた。もちろん後で彼女が手を入れてまとめた。二人で書いたのは他に「J'entends sonner les clairons」それと「Pierre」の一部をね」

GS :それから彼女もAbidjanに仕事で行きますね。

HB :そう、ただ書物に書かれているようにL'Ecluseの一団として来たのではない。僕はJo Attiaを知っていて、レジスタンスの時に出会った友人でね、シャンソン狂で。このAttiaがAbidjanに「Le Refuge」というキャバレーを買ったばかりだったんだ。それでアーティストとの契約を始めていた。僕はBarbaraという若い歌い手がいるけれど、どうかと提案したんだ。Jo AttiaがOKを出して、Barbaraがやってきた。キャバレーの経営者としてだけれど、彼はBarbaraにぞっこんになったんだ。
彼が銃を手に客席に向かってこう言ったのを思い出すよ。
「この子が歌おうとしている時にもししゃべり出す奴がいたら、弾をぶち込むぞ」ってね。彼女はそこに3週間いた。そしてParisに帰っていった。それから彼女が僕に手紙を書き始めた。一日に一通。だからこうして200通受け取ったんだ。その200通はどこかへ消えて、どこへ行ったかわからない。
僕がParisに行く時は僕の場所が必要だった。だからRemusatに家を買っていたんだ。彼女にその家を自由に使わせていた。そしてそこに彼女のために白いピアノを買ったんだ。それと例のロッキングチェアー、家具などなど。彼女はそこを新しい住居とした。ただ、そのころから二人の関係が先細りしていった。(つづく)

・・・・・
彼はBarbaraに住居と白いピアノを与えた。
Barbaraはどんなに嬉しかったか。Barbaraの状況を考えれば、充分想像できる。私からさえ、このHubert Ballayに「ありがとう」と言いたいくらいだ。Barbaraは自伝にもRemusatの家、自分のアパルトマンを手に入れた喜びをはじけるように書いている。愛する人からなら、鉛筆の一本をもらっても嬉しいのに、自分の一番手に入れたいものをもらったのだから。ただ白いピアノ、Barbaraがほしかったピアノが、Barbaraの自伝によると、結果的にはHubertの嫉妬を喚起し、決別の決定的原因にもなるのだ。

Hubertは歌手としてのBarbaraにどのような影響を与えていくのか、続きをお楽しみに! (Bruxelles訳)

誤解を解く : Barbaraカルト情報

日本語のシャンソンに関する本は一通り読んだつもりでいたがN氏に送っていただいた資料は印刷物に限定しても2倍はあった。Barbaraに関しては読み返してみてどうしても間違いが目についてしまう。それだけ、これまでほとんど情報がなかったということだろう。
例としてあげれば、1988年来日時のパンフレットの略歴。「母は強制収容所で死んだ」という記述はあまりにも露骨な間違いだと言わねばならない。また同パンフレットの巻頭記事「バルバラと同時代に生きる幸せ」には「小さなカンタータは病死した友人との対話である」とある。病死ではなく自動車事故死だった。
葦原英了氏の「シャンソン手帖」(新宿書房)のP.255「パリではエクリューズという左岸のキャバレの皿洗いになった」とあるが一年間皿洗いをしたのはプレベール兄弟の店「La Fontaine des Quatre Saisons」であってエクリューズではない。また父の職業は多分旅回りの芸人であったろう、とあるがこのように全く推量で書かれた部分もある。父親は革および毛皮製品の販売をしていた。
これらのことは「Il etait un piano noir...」を訳出する過程でこのBLOGでは指摘済みである。

今日気づいたのはもうひとつの新たな違いだ。永田文夫氏の「シャンソン」(誠文堂新光社)P.311をはじめあちこちの記述に見られるが「母はオデッサの人だった」に関して。それを読んでいたので私もオデッサと思い込んでいた。
最近ウクライナの政治史を調べていく過程で新しく「世界地図帳」を買った。それを見るとオデッサはウクライナで、それではBarbaraの祖先は今ではウクライナ人ということかと思って確認のために「Il etait un piano noir...」をチェックしてみた。P.19「祖母も母もMoldavieのTiraspolで生まれた」とあった。Tiraspolはウクライナとの国境に近い都市で、その正式国名はモルドバ共和国。昔はどちらもソ連であったことに変わりはないが、TiraspolとOdesaは全く別の都市だ。
(Tiraspolでは日本人にわかりにくいと思ってBarbara自身がOdesaと説明したのかも知れないが。Odesaはどんな簡略地図にも出ているから)

「Il etait un piano noir...」には祖母が同胞のご婦人たちとロシア語で話しに興じる場面がある。たっぷりとロシア文化を身につけていた大好きだった祖母にロシアの話をねだったり、クリスマスにお菓子をもらったりして甘えている。(どれほど祖母を好きだったかと言うと、死後2年間その死を受け入れることができず何度も祖母を幻視してその生を確信するほどだった。しかも祖母の死の数時間前、家に一人でいるときに近所の岩から発するうめくような祖母の声をはっきりと衝撃的に聞いている。Barbaraは母にその驚きを話している。予知だ。・・)
Barbaraが父親にレンタルピアノを与えられた時期がある。そのとき初めて母がピアノを上手に弾けることをBarbaraは発見して驚く。亡命前はピアノ教育を受けられる充分な環境に母はいたのだ。文化的で裕福なロシア人一家であったことがわかる。Brodsky家の人たちは元々はロシア革命でモルドバの地から西欧に弾き飛ばされた一家なのだ。
戦時中Barbara一家を守るために活躍するのがJeanneおばさんだ。この人は医者だったCamilleおじさんの未亡人で二人は長くアフリカに滞在していた経験がある。Camilleおじさんは亡くなる前にお金を残し(Barbaraら)姪や甥たちの教育に充分配慮するように言い残している。未亡人のこのJeanneおばさんは、男子だからと兄のJeanを極端に偏愛してBarbaraに随分不快な思いをさせるのだが。
これは私の記憶だが(未確認)この兄Jeanは叔母叔父の期待通り、医者になった筈だ。

祖母も父も母もJeanもClaudeもRegineもそしてBarbaraも戦勝の日を迎える。「Il eatit un piano noir...」P.41にBarbaraは書いている。1939年から1945年の逃走の日々が人生に苦痛を与えたわけではない。空腹に苛まれたことも一度もない。家族の誰一人黄色の★を手に刻印したこともないし、誰一人強制収容所に収容された者もいない。と。
ある日本語の資料によるとJeanもClaudeもRegineも全部ナチスに命をとられたと書いているものまである。Barbaraのペシミズムは幼い日のナチスのユダヤ狩りに起因すると言わんばかりに。
しかしBarbara一家はドイツに居たわけではない。フランスにはレジスタンスに参加した人たちも多いのだ。
そしてBarbaraはこう続けている。
Mes peurs et mes douleurs d'enfant, est-ce vraiment a guerre que je dois les imputer?
(私の子供時代の恐怖、私の子供時代の苦しみ、それらをあの戦争のせいにすべきなのだろうか?そうではない。)

これまで日本語で書かれてきた通り一遍のユダヤ人としての辛酸云々のBarbara解説をそろそろ見直すべき時が来たのではないだろうか。
「Il etait un piano noir...」以前のわずかな情報のみでBarbaraの人生を推測した文章などフランスにはもはや一遍もない。
(続く)

BARBARA BAGNEAUX墓地に埋葬の日

BARBARA BAGNEAUX墓地に埋葬の日
:Barbaraの棺が見える
Muriel Robin, Catherine Lara ,Luc Plamondon,Gérard Depardieu,Mme Catherine Trautmann, M. Jack Lang, Jacques Higelin,Brigitte Fontaine, Jean-Michel Boris, Yves Duteil, Alice Dona, Jean-Claude Brialy,Fanny Ardant, Enrico Macias, Pierre Tchernia, Guillaume Depardieu らの姿があった。
Catherine Trautmannは政治家として政府を代表してやってきた。
Catherine Trautmann French & English
Muriel ROBIN: Interview 活躍範囲が広くて簡単には紹介できない。Muriel ROBIN、Catherine Trautmann,先のNicole NotatといいBARBARAに近い女性は頭がきれて、しかも全身で活動し、大変な評価を受けている女性が多いように思える。
Thanks to Gelina: Barbara Au Revoir La -Bas

Muriel ROBIN chante LES ENFOIRES 1998
Les Enfoires 1999ではCharles AznavourとLa BohemeをDuoで歌っている。
 

Charley Marouani

Marouaniとは?:

フランス芸能界に君臨する興行師一族。戦後フランスのスターのほとんどをマルアニ一族が手がけている。彼らは興行だけでなく、出版、広報など様々な分野に活躍、ブレルが「眠れないときマルアニ一族を数える」と冗談を飛ばすほどその一族は数多い。(「シャンソン・フランセーズーその栄光と知られざる歴史」P.374)


その名前に見覚えがある。Charley Marouaniは顔も知っている。Barbaraのマネージャーだ。今までBarbaraの才能豊かな秘書達に注目ばかりしていたが、マネージャーのCharley MarouaniのBarbaraのキャリアに果たした手腕は、もっと注目すべきだったと反省している。

1966年12月、Barbaraのマネージャーに就任している。Barbaraは1966年12月13日から67年の1月にかけてBOBINOに主演出演している。BOBINOの実況録音盤33回転は12月13~15日にかけて制作され1967年1月4日に発売された。
伴奏はJoss Baselli(Accordeon)とMichel Gaudry(Contrebasse)。
Michel Gaudryは1966年11月、BOBINOの直前、もともとGeorges Brassensの伴奏者だったPierre NicolasがBrassensの元に戻ったので、彼の後釜としてその後Barbaraの伴奏(Contrebasse)を勤めた人物。
Barbaraが1963年Capucines劇場で初めてNANTESを歌ったときの伴奏者はFrancois Rabbath(Contrebasse)。1964年Francois Rabbathに変わってPierre Nicolasが登場した。(Francois-Pierre-Michel)
一方Joss Baslli(Accordeon)は1967年9月、Roland Romanelliと入れ替わった。(話がそれないように伴奏者に関する詳細は日を改めて書くことにする)

時期的背景を曲で言うと、Ma Plus Bell Histoire D'amourのBruxellesに於ける初録音の直後、またこの曲の最終完成そしてBOBINOに於ける初披露の直前あたりに、Charley MarouaniとBarbaraはマネージャーと歌手としてのコンビを結成したことになる。
ついでながらMa Plus Belle Histoire d'amourは1967年4月25日スタジオ録音され同タイトル33回転は1967年11月7日に発売されている。

Biographyに書かなかったが1967年2月9日Serge REGGIANIとMilanのPiccollo劇場で共演し、同じく1967年その後2月3月はJacques Brelとフランスのツアーに出ている。

大スターBarbaraへ転換はこのCharley Marouaniとの出会いから一気に確実なものとなっていることがわかる。Charley Marouaniがついたと言うこと自体、すでに大歌手の証だとも言えるのだが。
・・・・・・・・・・・・・・

Charley Marouaniがどれくらいすごいマネージャーだったか、いつも思い出すエピソードがある。このエピソードはいかにBARBARAが大スターであるかを語るものでもある。
Parisの東30キロ、Precy Sur Marneで家が売りに出ていた。Barbaraは友人に薦められて下見に行きすっかり気に入ってしまう。1972年ツアー前だった。Charley Marouaniにあの家がほしいと言ってみる。
「そんな資金はあなたにはないよ」とマネージャーは返事した。
ツアーから帰ったBarbaraに今度はCharleyの方が家について口を開いた。
「あの家の鍵、これをもう欲しくはないのかい」

discretionについて

バルバラ自身が好きな言葉の一つにあげていたdiscretion。今回(Barbara死亡記事報道の訳出)もBarbaraを語る人たちの口から一番多く出現したBarbaraを表現する言葉であった。「慎み深さ」「遠慮深さ」と辞書通り一応訳しておいたが、何故かしっくりこない。
他者との関わりにおいて、藪から棒に「相手が自分を欲し、自分を受け入れている、自分のために存在している」という態度で振舞わない、ということだ。「」のような態度は、自尊心の強い人が陥りやすい傾向にあると思われがちだが、実は逆だ。自尊心の低い人ほど自分が相手を支配しているという妄想に捕らえられる。むしろその妄想が心のよりどころとなっている。

Barbaraには昔から熱狂的なファンが多い。「ストーカーと呼ばないで♪」という歌がヒットしているらしく最近よく耳にするが、Barbaraからdiscretionを要求されるまで、過半数のファンがそれに近かったと思われる。Barbaraもドアを開けて招き入れたり、食事をご馳走したり、道で立ち話に興じたりしていた。
当然のことながら、誤解が生じ亀裂が走り、トラブルにまで発展する。
Barbaraの新曲が出ると「あの歌詞は自分のことを歌っている」と思ったり「Barbaraが自分に会いたがっている」と思い込んだり、さらにエスカレートして「Barbaraを助けるのは自分しかない」「Barbaraは今自分と同じ気持ちで苦しんでいる」と思い込む。
可愛さあまって憎さが百倍、逆恨みに走る場合もあるし、そのまま坂を転がり落ちる場合もある。
Sandra Thomasがその一例だろう(彼女は1980年にBarbaraとのかかわりを記した「La Barbaresque」という書物さえ出版している)
過激なファンに戸惑いながらも、Barbaraに於いてファンの存在は日に日に重要になり、そこに深い感謝と愛情を感じている自分に気づく。
Barbaraはファンにdiscretionを要求し、同時に自分にとって唯一の愛は、あなた達だと表明する。私は特定の誰かと一緒に暮らすことは一生涯なく常に一番大切なあなたたちファンとともに生きてゆくのだという決意をその歌に託して表現する。
フランスのファンがBarbaraに対して示す過度なまでのdiscretion、そしてそこからファンの間の独特のsentiment de solidarite(筆者がBarbara Galaxyの発芽と呼ぶもの)が発酵し始める。繰り返すが、そこからBarbaraとフランスのBarbaraファンとの独特の関係が出現した。
・・・・・・・・・

Les Amis de Barbaraの創立メンバーの一人でもあるJeanne Sudourがその辺の説明を始めたとき、私はそこにfacticiteを感じ納得できなかった。
好きな人に「あなたが好き」と言われれば嬉しいが「あなたたちが好き」と言われれば、喜びは激減する。「Ma Plus Belle Histoire d'Amour, C'est Vous」のvousが2人称単数なら、納得できるが「ファンの皆様」などと言われれば白ける。かねがね疑問に思っていた。しかしSandraの存在を知り、Danyの様子や、Jeanneの話を思い出し、彼らフランスのBarbaraファンの気持ちをようやく理解することができたのだった。
BarbaraとフランスのBarbaraファンとの関係はそれ自体がdiscretionから派生した”発明”にも匹敵する関係だと言える。

Barbara ecrivait ses memoires

Paris発11月25日(火)AFP通信Paris時間12:12

Neuilly-sur-Seineの病院で昨日亡くなった歌手のBarbaraは”思い出の記”を書いている途中であったことが、Fayard社社長のClaude Durand氏とのインタビューで明らかになった。
「Jacques Attaliの紹介でした。ステイジをやめてファンとのコンタクトが無くなったので、今度は書くことによってコンタクトしようと彼女は決心しました。書くことは彼女にとっては初めての経験です。」
「Barbaraの文体は独特で、息遣いが感じられ、色彩的で表現力豊かで、時にやさしく時に激しく、明快で彼女のシャンソンそのものです。」
「毎朝ファックスで出版社に書いた分を送ってきました。30分後には僕が受け取った返事を出しました。毎日の対話のようになっていました。彼女は何度も書き直しをするし、ある文章を書くのに一度に7,8パターンを書き送ってくることもありました。」とClaude Durand氏は語った。
「完全に人生を時代に沿って書いたものではありませんが、その”思い出の記”は、L'Ecluse時代、デビュー当時の売れない頃、「ナント」を生んだ実父の死、出会い、感情などが書かれています。出会いは有名人だけではなく、バックミュージシャンや音響技師他、無名の人達にも区別なく触れています。」
BarbaraもClaude Durand氏も本のタイトルは未決定のままで「なにしろ未完なので実際に出版するか否かについては、遺族の方々との話し合い次第ということになるでしょう」と語った。(Bruxelles訳)
・・・・・・・・・

実際1998年に出版されたその本の巻頭には、出版するか否かについてその決断にいたるまでに幾たびかの葛藤があったことが「Claude, Regine et puit Jean」というBarbaraの兄弟達の名において記されている。
流れに沿っているのは1964年までで、あとは編集者を戸惑わせる短い文を寄せ集めた断章である。次第に細部まで書き込まれ始めた文章は1964年で中断している。その後気力を振り絞って思いつく限りを書こうとしたのだろう。何にぶつかったのだろうか。何故書く気力を無くしたのだろう。Barbaraの自伝はつまり、2度中断されているのだ。歌手Barbaraが広く認知されるのは1965年のBOBINOからと言える筈なのに。日本人ファンとしては、Barbaraが立て続けにレコードをだしたあの1970年代前半、その頃の生のBarbaraの姿を是非書き残してもらいたかったと望むのだけれど。(Bruxelles記)

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