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La chanson de la vie

carefrance1

2005年10月16日の記事ですが追記のために、上にあげてきました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1985年末女性シャンソン歌手25人が集まって、人道的支援のレコードを出すために「La chanson de la vie」という曲を歌った。1986年の初めに発売された。これがBarbaraとRoland Romanelli二人一緒の最後の録音になった。「Lamour incestueuses」で一緒だった、Catherine LaraにBarbaraはここで再会する。Marie Paule BelleもCatherine LaraもAlice Donaもその著作にこのときのBarbaraとの出会い再会を書いている。このとき出会った女性歌手たちもこれをきっかけにBarbaraの曲に挑戦し始める。大きな意味を持つ歌手たちの集まりだった。「La chanson de la vie」作詞はClaude Lemesle作曲はAlice Dona。このレコードが実現したのは、当時のCare France会長のMarie Claire NoahにAlice Donaが連絡を取ったことから始まる。Barbaraの人道的支援活動の、最初のきっかけとなった出来事としても意味深い。この後Barbaraはエイズ撲滅運動など、積極的に社会活動を始めた。


delavie

Maxi 45 tours n° 883 625-1 sorti chez Polydor
A面がみんなで歌ったうたB面は演奏のみ。
ついでながら参加歌手は以下のとおりである。
Catherine Lara, Barbara, Viviane Reed, Nicole Croisille, Sheila, Dorothée, Julie, Michèle Torr, Alice Dona, Bibie, Linda de Suza, Isabelle Aubret, Rika Zaraï, Jeane Manson, Marie Paule Belle, Isabelle Mayereau, Marie Myriam, Nicoletta, Jane Birkin, Nathalie Lhermitte, Stone, Claire d'Asta, Milva, Ginette Reno, Maria D'Apparecida.
・・・・・・・・・・・・・
2008年8月 追記 (Bruxelles)
Violin-Catherine Lara
Barbara
Femme de toutes les couleurs
Toi qui depuis la nuit de temps
Etait la femme de toutes les douleurs
さまざまな肌色の女
暗闇の時代から
女はあらゆる苦しみを体験してきた
Vivian Reed
Fille d'Afrique ou d'Asie
Ton homme est parti très longtemps
Très loin chercher le travail ou l'oubli
アフリカのまたはアジアの娘
娘の男は遠くに仕事を求めて
または失念のためにかずっと昔に
立ち去ったままだ
Nicole Croisille
Mais tu te défends
Tu te bats
Et seule avec ton enfant
だからあなたは
子供と自分だけで
自分達を守り
また守るために戦う
Sheila
Tu chantes
Comme on lance un défi
Tu vis et tu chantes
La chanson de la vie
あなたは歌って
挑戦するかのように
あなたは生きて
そして「生きてゆくための歌」を歌って
Dorothée
A nos pays d'indifférence
Où les photos crient du silence
私達の冷淡な国々では
声も出さずに
報道写真だけが叫んでいる
Julie
Dans les journaux de la violence
Et de la folie
新聞は暴力や狂気を
文字で報道しているけれど
Michèle Torr
Tu chantes
Seule avec tes petits sans haine
Tu chantes la chanson de la vie
あなたは歌って
恨みっこ無しで
子供と自分だけで
「生きてゆくための歌」を歌って
Alice Dona
Tu dis que les temps ont changé
Qu'il faut semer et moissonner
時代は変ったのよね
自ら種を撒き自ら刈入れなければ
ならないのよね
Bibie
Pour récolter l'égalité
Dans tous les pays
すべての国々で平等を収穫するためには
Linda de Suza
Là où plus rien ne poussait
Tu plantes le riz et tu fais
Lever le grain d'un éternel juillet
かつて何も育成しなくなった土地に
米の苗を植え、永遠の7月の穀物を育てて
Isabelle Aubret
Et c'est toi qui fait l'école
A ceux qui traceront demain
Les sillons les cités et les chemins
未来に田畑や都市や道路を
建設する子供達を
学校で教育するのはあなたの仕事よ
Rika Zaraï
Ma fille ma soeur
私の娘よ、私の姉妹よ
Jeane Manson
Sous ton ciel
Tu n'as plus faim et plus peur
あなたの空の下に
もう空腹も恐れも無いわ
Marie Paule Belle
Tu chantes
Comme on lance un défi
Tu vis et tu chantes
La chanson de la vie
あなたは歌って
挑戦するかのように
あなたは生きて
そして「生きるための歌」を
歌って
Isabelle Mayereau
A nos pays d'indifférence
私達の冷淡な国々では
Marie Myriam
Où les photos crient du silence
声も出さずに報道写真だけが
叫んでいる
Nicoletta
Dans les journaux de la violence
Et de la folie
新聞では暴力や狂気が
文字で報道されているけれど
Jane Birkin
Tu chantes
Seule avec tes petits
Sans haine tu chantes
La chanson de la vie
あなたは歌って
恨みっこ無しで
子供と自分だけで
「生きていくための歌」を歌って
Nathalie Lhermitte
Tu dis que les temps ont changé
時代は変ったのよね
Stone
Qu'il faut semer et moissonner
自ら種を撒き自ら刈入れなければ
ならないのよね
Claire d'Asta
Pour récolter l'égalité
Dans tous les pays
すべての国々で
平等を収穫するために
Milva
Ce mirage vrai en plein désert
Ce miracle quotidien
砂漠の真ん中にある
正真正銘の蜃気楼よ
日常生活の中の奇跡よ
Vivian Reed
Qui met l'embargo sur la misère
それはもう決して貧困を許しはしない
Ginette Reno
C'est bien le mien
C'est bien le tien
Oh viens
Et chante
Comme on lance un défi
Main dans la main chante
La chanson de la vie
奇跡は私のもの
奇跡はあなたのもの
さあ 来て
そして歌って
挑戦するがごとくに
手に手を取って
歌って
「生きてゆくための歌」を
Maria d'Apparecida
A nos pays d'indifférence
Où les photos crient du silence
私達の冷淡な国々では
声も出さず
報道写真だけが
叫んでいる
Ginette Reno
Dans les journaux de la violence
Et de la folie
新聞は暴力や狂気を
文字で報道しているけれど

・・・・・・・・・・・・
歌の振り分けは今回Catherine Laraのサイトから入手した。(初めからこれがあれば、苦労しなくてすんだのにねぇ)
この記事を書いて約1年4ヶ月後に、Jacquesが作ってくれたwmvのfileをL'oiseau Invisible Visual 11の11番目にいれた。
クリックして出てきたアドレスをこのFC2Blog上のアドレス欄に入れて、移動をクリックすればJacquesのfileが開き、彼女達が歌う映像が流れる。fileの長さに制約があるので5MBにカットして貰った。歌手の名前をどれだけ言えるか、ゲイムにしようとJacquesが言ってきたが、名前を書き出すだけでその他の余裕は無かった。Jacquesは登場する歌手全員の写真を送ってくれたが「そこまで時間は無い」と写真fileも半分も開けていない。
その半分は気力を振り絞ってCorrespondances(2007年2月11日)に掲載した。写真だけでなく、さらに一人一人の歌う映像を付加し、歌手達の情報をできるだけ追加していこうと思っている。Jacquesが言っていたように最後にはクイズもつくってみたいと思っている。
参照:Correspondances 2008年8月23日:

BarbaraはLily Passionの真っ最中で、録音以外の参加はしていない。この映像では出だしのBarbaraの部分をMilvaが歌っている。女性歌手ばかりなのは、第三世界の女性達を支援するための資金集めを目的としたからだ。

追記:2008年8月20日
Barbara研究サイトの意地?BarbaraがBarbaraの声で歌っている出だしの部分をUPする事にした。Barbaraの声が抜けていてはBarbaraサイトの意味が無い。
Chanson de la vie: Barbara:
・・・・・・・・・・・・・

追記:2008年8月23日
ークイズー
問1. 白人で一番太っている歌手の名前は?最後の方でステイジを歩き回っている歌手。10年前近所のカナダ人のPCで、この人の写真を検索したことがある。カナダでは、有名なベテラン歌手。PLANETE BARBARAにも勿論早くから登場している。迫力あり。

問2. この人も25人の中のひとり。この写真とここに登場している顔とは随分違う。特に髪型が最も異なっているので、少しわかりにくい。ただし数年前に来日しているので、日本人にはなじみが深い筈。

問3. Jane Birkinのパートを歌っている歌手は、誰だと思いますか?あなたの主観でお答え下さい。

問4. 一番下の写真でBarbaraの隣にいる歌手の名前は?

問5. Marie Myriam,Nicoletta,Isabelle Aubretの3人のなかで、明らかに登場して歌っているのは誰ですか? 他の二人は姿を見せていません。

問6. 上の写真の中央寄りにいて、Isabelle Mayereauの隣にいる人は誰ですか?はじめこの人をNicolettaと間違っていたのですが。昔日本に入ってきたレコード・ジャケットとは完全に別人。難問か。

問7. 一人おしゃれな帽子をかむっている人は誰?この問題が一番やさしい。

問8. 白っぽい上着、そして真っ青なブラウス。金髪。楽しそうに歌っている歌手は?

問9. ブルーの上着にピンクのリボン、この歌手は誰?

問10. この歌手のこの写真は動画の顔から充分判断できる。

同窓会で昔のクラスメイトの名前がわからないのだから、判断に困っても当然ですよね。この歌順資料が間違っているのではないか、と思えるくらいに、若い人が、若く見える人が数人いる。とは言え、人の顔は変る、と言うのが結論。これが男性歌手だったら、ずっとわかりやすい筈なんですけどねぇ。

自信のある場合はコメントにあなたの解答を入れてください。自信の無い場合は管理人のみの閲覧にチェックを入れてコメントしてください。feedbackをご希望の方は、goo.ne.jpのgooのメイルにID=correspondancesを付けたアドレスにメイルで直接解答をお寄せください。日本人なら1問か2問チャレンジできれば、既に稀有なシャンソン通だと胸を張れるでしょう。1問しか出来なくても、何も出来なくても、当然であたり前!

care3

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Barbaraの葬儀に2000人がつめかける(3)

Paris発1997年11月27日(木)REUTERS通信:Paris時間午前11時44分

歌手Barbaraの葬儀がParis近くのBAGNEUXで木曜日の朝行われ、およそ2000人がつめかけた。
灰色の空の下、午前11時前にはBagneuxの墓地に群集が集まった。日曜日の夕方Neuillyのアメリカン病院で亡くなったBarbaraの近親者は極めて内輪の葬儀を希望していた。

一方、Barbaraが数年前から暮らしていたPrecy-sur-Marneの市役所では、記帳が行われていた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Reutersでは15年とも20年とも書かず数年前となっている。正確さを期したあいまいさ。
Barbaraファンなら誰も思い出したであろう「私の埋葬式に(Y'AURA DU MONDE)」という曲。

・・・・・・
Je vous m'en souvenir longtemps
de l'heure de mon heure derniere
Et lorsque je serai couchee
Au dedans de la bonne terre
Pour vous tous que j'ai tant aime
Durant cette vie toute entiere
Si vous entendez tin tin・・・
Ma derniere petite chanson
Surtout n'en ayez pas de peine
C'est pour dire ,adieu, je vous aime
Le jour de mon enterrement
・・・・・・
私の一生の間に出会いそして好きになった
あなたたちのために
私は最後の時を長く記憶に留めたいわ
私が大地の中に横たわるその時
もしティンティンという音、
私の最後の歌声が聞こえてきたら
私がお葬式の日に
「さよなら、愛しています」と
あなたたちに言っていると思ってね。
何より、つらいなんて、思わないでね。
(Bruxelles訳)

前半は皮肉っぽく葬儀の偽善性をコミカルに歌いつつも後半は理想の葬儀を夢見て歌っている。人が死の直前にしか対峙出来ない「この世との別れ」をその歌で体験し、時間の先取りをして「死」さへ超越し「生」に組み込んでしまったBarbara。
諧謔と自虐と「死の先取り」はBarbaraにとって人生を孤独に生きるための三種の武器だったのかもしれない。

Hospitalisation de la chanteuse Barbara

Paris発11月25日(火)AFP通信:Paris時間00時53分

現在火曜日、信頼できる筋から得た情報によると、歌手のBarbaraが日曜の深夜から月曜の未明にかけてParisの病院に収容された模様。
ここ15年来居住しているPrecy-sur-Marneの消防隊(軍隊に属し治安の維持活動や、日本の救急隊のような活動もする)が駆けつけた。Brabaraは本名をMonique Serfといい、年齢は67歳。入院した病院の場所及び名前は現在未確認。
Barbaraの近親者は入院の原因及び歌手の状態に関して情報の詳細を一切拒否している。
////////////

これが報道の第一報だと思われる。緊迫感のある記事だ。私の記憶ではまずPrecy-sur-Marneの消防隊によってPrecyの近くの病院に運ばれ、その後あわただしくParisのアメリカン病院に転院している。そのときすでに危篤状態または仮死状態だったと思われる。Parisの病院に転送されるのは本人の希望だったのか、近親者の希望だったのか、理由はわからない。それとも私の記憶違いで、この記事にあるように直接Parisの病院に運ばれたのかもしれない。後にこの点を確認してみたい。
Parisの病院で亡くなったという報道に初めて接したときは、そこに長く入院していたようなイメージをまず抱いたが、少なくともそういうことはないことだけは明白だ。
思い出してほしい。11月23日(日)の午後Barbaraは自宅から電話をかけJean-Claude BRIALYやAnnie Girardotと一見楽しく会話していたではなかったか。救急車で病院に運ばれたのは、なんとその夜のことなのだ。
・・・・・

訳者注(1):私が所有している11月25日(火)のLe Mondeによると、まずPrecy-sur-Marneに住んで15年ではなく20年と書かれている。そして自宅からBarbaraを病院に運んだのはPrecy-sur-Marneの消防隊ではなく、隣町のClaye-Souillyの消防隊となっている。

訳者注(2):Francois Faurant氏の詳しい資料で確認するとBarbaraは11月24日午前3時にまずMeauxの病院に運ばれている。その数時間後さらにParisのNeuillyのアメリカン病院に転送されている。その病院にて11月24日(月)16時10分に死亡している。
AFPがBarbara死亡の速報第一報を流したのは11月25日(火)午前9時となっている。(それは残念ながら入手していない)

Tregastel  BRETAGNE

初めて家族でヴァカンスを楽しんだTregastelに、祖母の死の知らせが来たことは前回に書いた。実はもうひとつ、何と言ったらいいか、ちょっとしたことがあった。

ある午後、私は父から逃れるために家を出た。いてもたってもいられなくなった。歩いて歩いてやみくもに歩き出した。警察にいく決心をしたのだった。警官は熱心に私の話を聞いてくれた。信じてくれたという印象を持った。でも話を聞いたあとで彼はこう言った。まだ成人してはいないのだから、両親の元に帰りなさいと!
私を迎えにきたのは父だった。父は警官にこの娘は病気で、作り話をする癖を持っているのだと言った。父は私をヴァカンスの家に連れ戻した。私は父がいやで仕方なかった。私は数日に渡って自分の行動を罰せられた。でも私のこの思い切った行動は、父に決定的な打撃を与えたと感じた。(「Il etait un piano noir」P.53 & 54)

祖母の死の知らせにBarbaraが母と一緒にParisに戻ると、父に反抗し抵抗しわめき、叫びついに父を屈伏させた出来事の前に、実はこの伏線があったのだ。16歳。Bretagneの海がBarbaraに(自分を守る)勇気と決意を与えたのだろう。16歳、社会を代表する警官は「両親の待つ家に帰りなさい」としか言わなかったとしても。
被害者が女子供の場合、被害者に耳を貸さない風潮はいつの時代にもどこの国にも根深く存在する。
この記事を書きながら、いつか日記に書いたニカラグアのオルテガのことをふと思い出した。参照はこちらです

おばあちゃんの思い出

Barbaraの祖母は1880年10月18日MoldavieのTiraspalに生まれる。そして131rue Marcadet a Paris 18区に住んでいた。

1946年の夏、Barbara一家はBretagneTregastelにヴァカンスに出かけた。Barbaraが唯一持っている家族ヴァカンスの思い出。仲間たちと深夜まで出歩いたり友人たちと映画のような夏を過ごした。このときBretagneという土地に恋をしたとBarbaraは書いている。

ある午後、一人でいるときBarbaraはおばあちゃんの声を聞く。うめき声。岩から出てくるように聞こえる。そこへ母が帰ってきた。Barbaraは今聞いた衝撃的なおばあちゃんの声について母に語る。その数時間後電報が来た。おばあちゃんが永眠したという知らせだ。母は急遽Parisに戻ることになった。Barbaraも一緒に行きたいと父に頼む。父は拒否。Barbaraは父を脅し、わめき、このとき初めて父はBarbaraの中に強い反抗、抵抗を見て、怯む。Barbaraは父に従う子供ではなくなったのだ。母とParisに戻る。

Marcadet通りから家族の墓地のあるBagneuxまで祖母の葬列に母娘二人で参加した。そして二人はVitruveに帰っていった。

私は祖母が大好きだった。今でも、祖母のことを語ると感情に流されそうになる。祖母の死は心臓を一突きされた傷跡のように残っている。あまりのショックでその後2年間程、私は祖母の死を事実と認めることができなかった。祖母はいたるところに現れて見えた。いつもずっと生きていると思っていた。
祖母はKirklesを作ってくれた。
祖母はブローニュの森にある動植物園に連れて行ってくれた。
私は祖母に私の歌を聞いてもらった。
祖母はロシアの小さな人形をくれた、箱をくれた、バッグをくれた。
祖母はお米の粉の匂いがした。
祖母はイアリングを、クリスタルのイアリングをしていた。
祖母は子守唄を歌ってくれた。
狼の話をしてくれた。大きなベッドに一緒に寝てくれた。
フルーツの揚げ物やアーモンド菓子を作って食べさせてくれた。
祖母は友人がたくさんいた。祖母の友人達は砂糖漬けオレンジと紅茶の香りがした。みんなロシア語でしか話さなかった。笑うときはみんな大声で笑っていた。身振りをまじえて。みんなかなり高齢だった。白髪を頭の周りに愛らしく編んでいて、頬はほのかに赤みがかっていた。首の周りにみんな、黒いビロードのリボンをつけていた。その真ん中に宝石が、時にはカメオ細工の色のついた石があった。そのリボンの上にピンできっちりと留められた白髪の頭があった。中には頭に、白斑のある小さな真珠の付いた長い金の鎖をつけている人もいた。
祖母はSmyrneのレーズンが一杯入ったクルミ菓子を作ってきた。自分のそばのお皿にそれをひとかけら置いた。ロシアの婦人達はみんな私をじっと見た。それを見て私は首を伸ばし立ち上がりお皿のほうにゆっくりと歩いていった。ロシアの婦人達は私を見て微笑んだ。そして祖母は私にキスした。私は祖母と一緒に笑った。・・
私は祖母を死んだものとして受け入れることができたのは、ずっと後、そのためには長い年月が必要だった。
「Il etait un piano noir...」P.53,54,55,56

・・・・・・・・
参考サイト:
Moldavieはこちら
Tregastel(Bretagne)はこちら
Moldavie参考サイト日本語はこちら

こちらの(3)を参照するとBarbaraがおばあちゃんに寄せていた思いの深さがよくわかる。このエピソードもご覧ください。こちら

Vitruveに住み始めた頃

アパルトマンに母と私と二人っきりだったある日の午後、母は私に微笑むとピアノの前に座ってショパンのワルツを弾き始めた。私はその日まで母がピアノを弾くことは知らなかった。涙が流れた。父はいない日が次第に多くなり、長い不在の日々も続いた。
  ー「Il etait un piano noir...」P.57ー

Barbaraは正式にピアノのレッスンを受けたことはなかった。耳で弾いていた、と書いている。ソルフェージュも知らなかったし、興味も、やる気もなかった。Vesinetに住んでいる頃、最初の音楽教師に出会った。Madame Dussequeは発声法と呼吸法のみを教えていたのだろうか?
Madame DussequeはConcervatoireの教授Paulet先生の家にBarbaraを連れて行く。
Paulet:どういう歌を歌いたいのですか?
Barbara:ミュージック・ホールで歌いたいんです。
彼は微笑み、私も微笑んだ。

Vitruveに住み始めた頃、Concervatoireに聴講生として入学した。Paulet教授のクラスに通う。3つのテストの中で2つしか合格しなかったから聴講生扱いとなった。テストでは、Maurice Thirietの「Les Visiteurs du soir」、Monteverdiの「Le Recit de la messagere de l'Orfeo」、Paul FortとJean Hubeauの「La Ronde」を歌った。審査員の一人は「Concervatoire de musiqueとConcervatoire d'Art dramatiqueを混同してはいけませんよ」とBarbaraに言った。声量が充分なかったのだとBarbara自身も書いている。
ConcervatoireでPaulet教授の下、Faure,Schuman,Debussyなどを学んだ。他の生徒はWagner,Rossini,Berlioz,Mozartを歌っていたが、私にはそういう作品は歌えなかったとBarbaraは書いている。
  ー「Il etait un piano noir」P.57 & 58-


Monteverdiの参考サイトはこちら
Maurice Thirietの参考サイトはこちらです
Paul Fortの参考サイトはこちら
Jean Hubeauの参考サイトはこちらです

ピアノがなくなって家を出た(最初の家出)

当時父と母の関係はひどく悪化していた。口には出さなかったが母はつらい時期を過ごしていた。そしてついに父は家を出ていなくなった。Vitruveの家族を捨て二度と戻らなかった。少し息苦しさが弱まった。
でも父が出て行って私はピアノのレンタル料が払えなくなった。あれは水曜日だった。覚えている。ちょうど午後の2時、三人の大男がやってきて私からピアノを奪っていった。文字通り身を切られる思いだった。助けてほしかった。腰の下辺りに痛みを感じたのを覚えている。この痛みは人生で苦境に立ったときその後もいつも感じることになるものだ。(注:ナントの病院でもこの同じ痛みが彼女を襲っている)絶望した。激情に駆られてその日のうちに私はピアノのなくなったVitruveを去った。18にも達していなかった。・・
突き当たりのSaint-Blaise広場で女友達がタバコ屋をしていた。私が歌手になりたいと思っているのを彼女はよく知っていて私の狼狽を共に感じてくれた。カールした髪のかわいい子だった。彼女も苦労してきた子で、人の話を聞くやさしさのある子だった。彼女を信用できると思っていた。打ち明けた。
「というわけで、もう家を出て行くことにしたの。でもお金が一円もないの」
彼女は引き出しから300フラン取り出し私にくれた。私にとっては大金だった。二人で一緒に泣いた。この気持ちの優しい女の子はずっと前にこの場所からいなくなった。私は彼女に大きな借りがある。少なくとも300フランを借りていて、いまだに彼女に返すことができないでいる。
(「Il etait un piano noir...」 P.70 & 71)

この辺のことはほんの少し以前にも書いた。さらに詳しく書いたのは、ピアノがBarbaraにとって、どれほどの意味を持っていたかを改めて書きたかったからだ。この時期のBarbaraにとって、ピアノを奪われたことがどれだけショックだったか。その日のうちに家出を決めた、そのことからもよくわかる。どれだけの絶望だったか。

BarychinikoffとBarbara

BrychnikoffからのリクエストがあってBarbaraは1986年6月28日(金)ニューヨーク行きの飛行機に乗った。New YorkのMetropolitan劇場でBarbaraがPierreを歌いBarychnikoff(Micha)がそれを踊るのだ。
・・・・・・・・・・

7月1日(火)午後Pierreのリハーサルをしながら私はBarychnikoffが文字通りシャンソンを飛ぶのを見た。今日目の前で行われていることが、信じられなかった。母が生きていれば、この場面を見せてあげたかった。
Michaの望むように心を通わせて歌いたかった。私はもう一人Maurice Bejartとも素敵な出会いをしている。BejartにしてもBarychnikoffにしても私にとってダンサーとの出会いは、とても大きな意味を持つ。

Michaは自分の家においでと言ってくれた。私はホテルにいるほうがいいと言った。私は好きな人の世界に近づくことにいつも臆病なのだ。私が断るとあまりにMichaが面食らった顔をしたので、ついに私は申し出を受け入れることにした。
活力に満ちた美しい家で、扉という扉は全部常に解き放たれていた。彼はそこで暮らしていた。
私が着くやいなや、彼は小さなCASIOのキーボードで、私のレパートリーのすべてを弾いた。私は度肝をぬかれた。彼は私に私の歌を口ずさみながらフランス語をマスターしたと言った。
Billy(?)がMichaがステイジで何度も履いた3足のバレーシューズをプレゼントしてくれた。Billy自身もくつろぐ時は、Michaのバレーシューズを履くのだと言った。
Barychnikoffが履いて踊ったバレーシューズを履いてくつろぐことなど、誰が想像できようか。
私はいただいたバレーシューズを持ち帰った。一度も履いていない。まるで熱烈なファンの人たちがするように、大切に特別にとってある。
(「Il etait un piano noir...」P.185~P.187)
・・・・・・・・・・

BarbaraをBarychnikoffに紹介したのはMichel Colombierだった。
ある日Michel Colombierは「君にはアメリカンドリームのようなものはあるか?」と聞いたことがあった。それに対し「歌うこと」というただひとつの夢以外、私にはない、と答えたとBarbaraは書いている。

New York、Metropolitan劇場においてのBarbaraとBarychnikoffの共演は様々な雑誌にも取り上げられた。また機会があれば、そのあたりについての記事もいつか訳出してみたい。(Bruxelles)


追記:
1977年20世紀フォックス配給の「愛と喝采の日々」。私はこの映画、特にEmma(Anne Bancroft)とDeedee(Shirley MacLaine)がハンドバッグで殴りあうシーンを見て驚いたが、全体的にバレーシーンも多くあり、ストーリー的にも内容が深く、いい映画だったと思った。Mikhail Baryshnikovがこの映画に出演していた。ご覧になった方も多いと思う。

Barbaraによる文学作品の朗読

1991年10月BarbaraはRainer Maria Rilkeの「Les Lettres a un jeune poete」をオーディオカセットに録音している。以下がBarbaraが録音している内容。
Barbara lit les lettres suivantes :

- Paris, le 17 février 1903 (7' 04)
- Viareggio, le 5 avril 1903 (3' 32)
- Viareggio, le 23 avril 1903 (7' 31)
- Worpswede, le 16 juillet 1903 (10' 21)
- Rome, le 29 octobre 1903 (4' 06)
- Rome, le 23 décembre 1903 (7' 44)
- Rome, le 14 mai 1904 (11' 07)
- Sonnet de Franz Kappus (0' 34)
- Borgeby gard, le 12 août 1904 (13' 26)
- Furuborg, le 4 novembre 1904 (3' 04)
- Paris, le 26 décembre 1908 (3'21)


参考資料:http://www.passion-barbara.net

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再び「Nantes」について

事実を作品化することによってArtistは人生を再構築し、素手で受け止められるまでに浄化していく。したがって作品の完成とはある意味リターンマッチなのかも知れない。Nantesの事実を受け止めるために、歌詞はどのように置き換えられているのか、今日は検討してみたい。

(1)まず突然の電話で自伝では「父の死」が告げられているが、歌詞では、まだ亡くなってはいない。
(2)当時La rue de la Grange-aux-Loupsという場所はなかった。したがってこれはBarbaraの創作地名である。
(3)父の埋葬に際して、献花はなかった。歌詞ではバラの花の下で眠っている。
(4)歌詞では「会いたがっている筈の父」は死に際して、誰にも会いたがってはいない。シスターJeanneは死者に敬意を払って何も話さない。「この方の秘密を守るとお約束しました」父は弧絶した死を望んだのだった。
(5)父は病院で亡くなっているが、歌詞ではLa rue de la Grange-aux-loupsのアパルトマンで亡くなっている。
(6)歌詞では父のポーカー仲間の4人の男は父の死の場所、廊下の奥の部屋の暖炉のそばに座っている。自伝でBarbaraが彼らに会うのは、街角のコーヒー店である。
(7)歌詞では4人の男たちと言葉を交わさないが、自伝では父の生活した様子を聞きだしている。

この歌詞で特異なのは「Voila tu la connais l'histoire」の一行。ここで突然歌詞の世界を飛び出して、歌手は(2人称単数形で)聴衆に語りかける。「そうこんなお話なの。もうお分かりでしょう」
この1行があるために、過去からいつも飛び出だして、瞬間の現実に戻ることができる。この1行が天秤の片方の錘となって、心のバランスを維持しえているのだろう。


Nantesstation


BarbaraがNantesの駅で雨を見たのは1959年12月21日月曜日である

P.S. 出典は未確認だが、私がいつも思い出すBarbaraの言葉がある。
「私は朝から晩まで絶望している女ではない。私の父が毎日毎日ナントで死ぬ訳ではない」


参考資料:2005年No.21 Les Amis de BARBARAの会報
参考資料:Music Cross Talk こちら

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