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Marcinelle & La Mansarde

2004年12月28日のMusic Cross Talkで「Le Soleil Noir」の歌詞について説明している。

Mais la terre s'est ouverte la bas quelque part
(けれど大地は裂け人を飲み込む あそこで どこかで)
Et la terre s'est ouverte et le soleil est mort
(けれど大地は裂け人を飲み込む そして太陽は黒い)
Des hommes sont mures tout la bas quelque part
(坑夫達が坑道に閉じ込められる あそこで どこかで)
Des hommes sont mures et c'est le desespoir
(坑夫達が坑道に閉じ込められる そしてそれは絶望そのもの)

と歌ったのは実はこの炭鉱事故のことである。


ここで歌われているのは1956年8月8日Charleroiの近くのMarcinelleでおきた炭鉱事故のことである。今日再びBarbaraの自伝を読んでいて、ハッと気づいた。Barbaraが1956年のベルギーの炭鉱事故をなぜ「黒い太陽」で歌っているのか。
ここは、このMarcinelleは若き日のBarbaraが暮らした思い出の土地だったのだ。・・

Bruxellesで生活に行き詰まりAnspach通りで身を貶めようとしたとき、運良くユダヤ人の実業家Charles Aldoubaramに救われる。彼はBarbaraに同情し、割れたメガネの修理代と、無銭宿泊を続けていたホテルの支払い代金にと、Barbaraに対価を要求せずにお金を与えてくれた。
その後BarbaraはBruxellesを去る。どこへ行くのか?その後の部分を「Il etait un piano noir...」から訳出してみよう。(P.81&P.82)

ちょっと前、私はPeggyと言う子と知り合っていた。彼女は妊娠して途方にくれていた。Charleroi出身で、故郷に帰ろうとしていた。La Mansardeという名の共有場所をオープンしていた彼女の友達のArtists達の話を彼女から聞いていた。私は彼女と二人で有り金全部を使ってCharleroiに向かった。
Charleroiは炭鉱の町だ。あの不幸な事故で有名になったMarcinelleはそこにある。Peggyの友達はみんなそこに住んでいた。
私がたどり着いたPeggyの故郷、そこの北部にあったLa Mansarde(屋根裏部屋という意味)は、私にとっては、冬から春に代わる太陽のようだった。そこのリーダーYvan Delporteに鍵を貰い、私はしばらくLa Mansardeに寝泊りさせてもらった。彼らは私に仕事を見つけてきてくれた。お店やアパルトマンのペンキ塗りだ。
当時未来の偉大なジャズマン達がBruxellesとCharleroiの間を行き来していた。みんなで彼らの演奏を聴いた。Christian Kellens,Bobby Jaspar,Sadi,Guerin, Bollingなどなど。
私のベルギー時代の中で、La Mansardeは、まるで林間地に光が射す空き地、楽しく明るい魂の交流が得られる花咲く美しい季節だったと呼べる。


炭鉱事故はこの地で起こった。これほどの愛着を持つ土地だからこそ「黒い太陽」で事故を取り上げたのだ。不幸を自分自身の不幸と感じたのだった。



2年間BarbaraはBruxellesとCharleroiの間を行ったりきたりする。オーディションを受け、小さなナイトクラブで歌い始める。ある日突然ここを去り、Vitruveの家族に会いたいという思いがつのる。
きっと帰ってくるからと考え、友達に「さよなら」もいわずに南への道を歩き始める。ただただ歩いて、足が棒になった頃、一台の黒いChryslerが音もなく彼女の横で止ってくれた。
「どこまで?」「Paris」「よーし。乗って」「でも私国境を越えるための証明書を持っていないの」・・・この続きは「Monsuieur Victor」という曲の歌詞に任せる。(詳しくはいつかこの曲をDU SOLEIL LEVANTで取り上げるかもしれない時に)Monsieur Victorは実在の人物、このクライスラーでBarbaraをParisまで連れ戻してくれた人の名前である。



追記:
先の恩人Charles Aldoubaramから、後年Olympiaに出演中のBarbaraに花束が届けられた。

Vous Aviez raison-stop-Bravo-stop-Aldoubaram
(あなたは正しい選択をした。おめでとう!Aldoubaram)
私はあえて、あの地獄に足を踏み入れようとしていた私を知っている当人に、再会しようとはしなかった。馬鹿げていた。1997年の今、そんな自分の判断をとても後悔している。(Barbara:Il etait un piano noir...P.80)


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Barbara トリヴィア


トリヴィア Barbara 投稿者: Bruxelles 2005/06/02 17:34:24

サイト制作と同じで書くほうも資料に埋もれて手がつけにくい状態。たまたまこんな紙切れを見つけた。・・

「A Bruxelles」というベルギーの旅行案内によると:Surrealistの詩人のPaul NOUGEは1953年Tinturet通り19に住んでいた。向かいが歌手のBarbaraさん。Paul NOUGEのお友達がBarbaraの恋人、Claude SLUYS。Barbaraの心遣いのおかげで、この自堕落で破滅寸前の詩人は随分救われたことだろう、と。
Barbaraはこの後、Cheval Blancというキャバレーをオープン。経営に失敗しその後Parisに戻り、そこから少しづつ花開いてゆく。
そしてここがトリビア。バルバラの義父になるFelix SLUYSは有名な口腔外科医でかのPUCCINIの喉頭癌を手術した人だ、とあった。
今日はこれに関連する記事を久々にMusic cross talkに書いてみようと思う。

Barbara et Bruxelles (2)

Barbara et Bruxelles (2) 2005/06/03
Le Cheval Blanc (白馬)

もう少し後でBrassensの初78回転を聞いたのも、やはりCのおかげだ。La porte Louiseのレコード店で聞いたのだがその時はEtheryも一緒だった。三人に共通する忘れられない思い出だ。CはよくマジックをするためにBoondaelにやって来た。彼の芸は大人気だった。三人でしばらく仮小屋でショーをして、順調だったけれど、私たちには興行のライセンスがなかった。地区の憲兵がやって来て興行の停止を命じた。 Etheryと私はまたしても仕事を失った。
Cは地元のことをよく知っていて三人で興行を続けられるように場所を探してみようと言った。
La Malibranの古い家からそう遠くはないIxellesでLe CHEVAL BLANCという名の、ごく普通のポテトの揚げ物屋があった。油くさく薄暗いこの揚げ物屋の奥に、楽屋はないけれど、小さなステイジの付いた、ホールがあった。とてもデラックス、何しろ幕まで付いていたのだから。ホールの壁はJacques Nathanという名の若いアーティストによって装飾が施されていた。ポテトフライや小エビの詰め物の悪臭のする中に、このようなシュールな装飾の場所があるとは、それ自体がシュールだった。
詩やシャンソンや演劇が熱狂的に好きだった、ショービジネスの先駆者が、私たちがここを見つける前にこのホールを使っていた。ここでBruxellesの左岸派演劇のはしりを催して成功を収めていた。彼はここをLa POUBELLE(ゴミ箱)と名づけ、Jacques Nathanに内装を依頼したのも彼、Jo Dekmineだった。Jo Dekmineには創造性、高い芸術性、そして多方面にむかう留まる所を知らぬ好奇心がある。私は彼こそベルギー最高の知的な若き劇場支配人だ、と思った。
彼はLa Poubelleを止めていた。もっと大きなちゃんとしたところで上演したくなったのだろう。Bruxellesのあちこちで次々と劇場を開いていき、ついにあの「Theatre 140」に取りかかろうとしていた。ここは、後に作詞作曲者、芸人、歌手など沢山の人たちを集める所となる。私自身この「Theatre 140」には、その後何度か出演した。

私たちのCHEVALBLANCに話を戻すと、Cは早速大家さんたちと協定を結んだ。大家さんたちは飲み物の利益を、私たち三人は入場料からの利益を、と言うことで話はまとまった。他のアーティストもあっという間に集まってきた。パントマイム、物まね、すばらしい声の少年歌手も来た。 Etheryはピアノの弾き語りでグルジアの歌を歌った。私はGill et Vilardの”L'Enseigne de la fille sans coeur",Paul de Kockの"Madame Arthur",Jean-Roger Caussimonの"Monsieur William"等を歌った。 Cは顔が広くて、CHEVAL BLANCはCのおかげで、ブルジュアの客、弁護士や、医者で賑わった。幸せな数ヶ月が過ぎた。その後曖昧だった金銭契約から口論が始まった。大家さんたちは、ショーが大当たりしているので、料金を上げようとした。私たちは入場料まで上げられるのは嫌だった。つまりは出演者たちと、劇場主達との間で金銭的に縺れてしまって、結局CHEVAL BLANCの時代は終わったのだった。

Barbara 「Il etait un piano noir...」 P.99~P.101

Barbaraにこの時代があったことを私はとても嬉しく思う。artistたちのcommuneで明日の見通しもない若い感性がぶつかり合った時代。本物の感性はこういう場でしか出会わない。社会の管理から吹き飛ばされ、目の前に何のレイルも見えない。不当なほど、社会や生活に追い詰められても、社会人や生活者の顰蹙を買っても、完全に別次元の価値体系に生きてこそ、あるいは死んでこそ、若きartistの匂いが発酵するものだ。この時のBruxelles、そしてその前のBruxellesでBarbaraはさんざんな体験をする。悲惨を悲惨と感じない若さだけで真っ暗な夜道を手探りで歩いた不安と孤独の体験があってこそ、その体験が将来(勿論社会的にでも世俗的にでもなくその人の心の中でのみとは言え)燦然と光を放つのだ、と私は思う。そしてそれは直感と本能に基づくartist特有の出会いに繋がってゆく。

Barbara et Bruxelles(1)

Barbara et Bruxelles(1) 2005/06/02
またしてもBruxellesに
Jean Wienerの紹介でPierre Prevert(Jacques Prevertの兄弟)がオープンする「La Fontaine des Quatre Saison」に行ったBarbara。店はすでにオープンしていてショーも始まっていた。手違いとはいえ、Barbaraに与えられたのは一日8フランの皿洗い。・・(省略)・・結局身体を壊してBarbaraは初めて入院生活を送ることになった。(省略)

Belgique時代の友達からBarbaraの話を聞いたCharleroiの青年が病院にやってきた。Charleroiの話や共通の友達の話をした。そして3日後この青年のバイクでBarbaraは再びBruxellesに戻る事になった。1952年冬の初め。この少年の名はJeff。maison de Boondaelという場所で他の若い画家たちと共同生活をしていた。Barbaraも見知らぬArtist仲間に受け入れられた。「歌を歌いたい」と言ったら、客を呼べるようにいろいろ計画を考えてくれた。「私にはまだレパートリーは何もなく、伴奏も出来なかった。出来ても人に聞いてもらえる代物ではなかった」
ピアニストを探したところ、Ethery Roochadzeが芸術家のコミューンのようなBoondaelに電話してきてくれた。二人はEtheryの部屋でその日のうちに会った。大きなピアノと小さなベッドのある部屋だった。Etheryはグルジア人で仕事を探していた。ショパンの「La Quatrieme Ballade」を弾いた。「なんてピアニストなんだ。すごい!と私は思った」この人は小さく痩せていたが、独特の生命力を持っていた。ピアノを弾くと音が彼女の肩から指先に流れていくのが見えるようだった。音が身体全体から湧き出ていた。伴奏を引き受けてくれ翌日から私のこれから歌う歌の練習を彼女と開始した。本当に幸せだった。ついについに私は歌うことが出来る!私は歌う場所を持った。

出て実際歌ってみたが、全くうまくいかなかった。お客の学生たちからは、時々野次が飛んできた。私の歌だけではショーは持たないという結論が出た。Etheryはベルギー人の男性をぜひ私に会わせたいと言った。彼は研修中の法学生だが、ショーのことに詳しい青年だと言った。手品が出来るので一緒にやってくれるに違いないと言った。
正直言ってはじめてあった時、運命の直感はなかった。一年後に結婚することになるのだから、本来は感じてもよかった筈なのだけれど。確かに楽しい人だった。

私の未来の夫はCと言った。(彼や彼の家族に迷惑をかけたくないので名を伏せておく)偉大な手品師だった。知的で無論魅力的な人だった。よく二人で一緒にいた。彼は裁判所にいるより、私といる時間の方がずっと長かっただろう。画家のArchimboldoやRene Magritte,そしてsurrealismの詩人のPaul NOUGEの話を初めて彼から教えてもらった。共通の友達の家で、Marianne Oswaldを初めて聞いたのも彼と一緒の時だった。残忍でモダンで絶望的で、Marianne Oswaldに私は仰天した。(続く)

BARBARA 「Il etait un piano noir...」 P.95~P.98


Abidjan Cote d'IVOIRE


Abidjan Cote d'IVOIRE 投稿者: Bruxelles 2004/11/29 18:15:17

今に始まった事ではないが、コートジボアールが大変なことになっている。政府軍、反政府軍、仏軍、国連軍入り乱れて、在留外国人は全部引き上げて、難民となった国民は隣国のリベリア共和国へ流れている。フランスの旧植民地の中では一番の優等生だった筈の国が、いまや国連の手を借りなければどうしようもないところまで来た。米国がイラクでしているようなことを仏軍もここでしていて、もう米国を非難出来なくなってしまった(この表現は最新号の「SAPIO」の記事)。

実はPLANETE BARBARAのBiographyの中で唯一「恋に落ちた」という表現を使った相手Hubertはこの国で外交官をしていた。BarbaraはレクリューズのピアニストDarzieと共にこの国に来て(アフリカで歌うバルバラ・・私も初めはAbidjanと自伝に表記されている都市がCote d'IVOIREのABIDIANとは、なかなか結びつかなかった)”Le Refuge(逃げ場)”というキャバレーで歌っていたことがある。
いつかHubertとの恋について書く時がきたら、このあたりも少し詳しく書いてみたい。-
今その国が、とんでもなく紛争中。11月だけで、取材中の外国人ジャーナリストが既に3人射殺されている。(ブリュッセル13日共同通信)

Il me revient と Frederic BOTTON

情報・読み物 IL ME REVIENT 2005/03/23
Il me revient と Frederic BOTTON

リリー・マルレーンをふと思い出させる旋律。一体Toiとは誰なのか、工場はどこの工場なのか。どこへ連れ去るのか。お手上げだ。Francois Faurant氏に御教示を仰いだ。以下氏の返信より。『この曲は戦争中Isere県のSt.Marcellinで子供時代を送っていた頃のバルバラの体験に基づく。彼女は真昼間ドイツ兵に捕らえられ連れ去られていく若いレジスタンスの闘士を目撃したのだ。つまりこのシャンソンは彼女の目撃談。工場はSt.Marcellinの工場。Toi(あなた)とは、実際連れ去られ、そして恐らくドイツ兵に銃殺されただろう、レジスタンスの闘士』
何年たっても目に焼きついて、その場面が思い出から消えないのだろう。その青年の恐怖にゆがんだ顔がフラッシュバックして、クローズアップされる。そんな思い出がこの曲を生んだといえるだろう。曲には銃声を思わせるドラムの音が数回入っている。

フランソワ・モレシャンさんのお父様も、レジスタンスの闘士で、やはりドイツ兵達に連行され、半殺しの状態で帰宅されたらしい。[モレシャン談:徹子の部屋にて]
一方戦後、対独協力者だったと告発された人達も、人前で髪の毛を丸刈りにされ、全裸で市中引き回しにされ、また家に石を投げられたり、井戸に突き落とされたりしたという。[遠藤周作「フランスの大学生」より]

この曲の作曲はFrederic BOTTON。ちょっと調べてみると、Regineの「La Grande Zoa」の作詞作曲者でもある。実はこの「La Grande Zoa」BruxellesのBruxellesでの思い出の曲のひとつ。
Frederic BOTTON、この人の作品を最初に歌ったのはBarbara。そのタイトルは「Rue du chien qui fume」1957,8年の頃のこと。レクリューズのMarc & Andreに持っていったのだが「これはここの若い女の子、バルバラっていう子に歌わせたらいいよ」と言われた。今はもうないSaint-Michelのカフェ「Boule d'Or」でFredericはBarbaraと会う。一緒にレクリューズに行って彼女に歌って聞かせる。1週間後彼女はこの曲をレクリューズで取り上げた。Barbaraはこの曲をレコーディングしていないが、代わってCatherine Sauvageが持ち歌にして録音している。[注:「Catherine Sauvage,Serge GainsbourgとFrederic BOTTONを歌う」というCD(Rym Music 1999年)に入っている]

Helene HAZERA:自分の作品を初めて歌手にBarbaraに歌ってもらった時は嬉しかったですか。
Frederic BOTTON:勿論実際とても嬉しかったです。
H.H.:誰かが自分の作品を歌うのを聞くのは大変なよろこびでしょうね。
F.B.:バルバラとは沢山の機会があって、共作で外に3曲作って、彼女はその3曲共、録音していますよ。1曲は「彼らはまるで、水を飲むようにアブサンを飲む」という「Absinthe」もう1曲は「La Saisonneraie」最後の3曲目は「Il me revient en memoire,il me revient une histoire」という「Il me revient」です。これは彼女が作詞で僕が作曲です。この曲は彼女の最後のアルバムに入っています。ー[Les Amis de Barbara会報No.19より]
「La Saisonneraie」と「L'Absinthe」は72年3月7日発売のアルバム「La fleur d'amour」に収録されている。Martin Penetとのインタビューでは、この2曲についてFrederic BOTTONは次のように語っている。「思い出した。BarbaraとFrancoise Saganの別荘で再会したんだ。この2曲も実はそのときサガンの別荘で一緒に二人で作曲したんだよ」ー[Les Amis de Barbara会報No.19より]

Frederic BOTTONは4曲提供したと主張するが、我々が聞けるのは録音された3曲のみ。「La Saisonneraie」は、Bruxelles、Barbaraの曲の中でも好きな曲ベストテンに入る、かなり好みの曲だ。実は50曲ほど好きな曲があって、いつもそればかり聴いている。他のはあまり聞かない。新しいDSLのコーナーでは、今まであまり聞かなかった曲も積極的に取り上げていきたい。好みの観点から曲を選ぶつもりはない。


Liane FOLY(1)

情報・読み物 Liane FOLY(1) 2005/01/07
Liane FOLY & BARBARA

Barbaraファンに於いてはLian FOLYの名は、やはり記憶すべき名のひとつであろう。Lian FOLYなど何の関係もない、ただたまたまBarbaraの最後のコンサート[注:1994年3月26日(土)ToursのVinci、フランソワ1世ホール(客席2000)]に居ただけ、という意見も聞くが。

最後の日、公演の終わりにBarbaraは初めて舞台を降りて熱狂的なファンのいる客席通路に立った[descendait dans la fosse aux lions 虎穴に入った]らしい。その2000人の中に人知れずLiane FOLYがバルバラを聞くためにやって来ていた。
Liane FOLYは1998年Virginから発売されたCD上で「Dame brune」というBarbaraに捧げる曲を歌っている。
http://www.sacem.frのPortail SACEM上にLiane FOLYのインタビューがあるのでこの曲に触れた質問の部分のみここに抜粋する。

「Barbaraについての曲をお書きになりましたね」
:バルバラは私にとってはお手本でしたので、とても重要な意味を持っています。Barbaraのすべてが好きでした。女性として、生き方として、そして歌詞、曲、歌すべて。イメージ、考え方等など。パリに来てBOBINOでコンサートをしました。私が初めて受け取った電報はBarbaraからでした。彼女は書くことが好きでした。その後Faxを幾度も出し合い、また電話でも話し合いました。とてもいい関係でした。Toursの最後のコンサートにも行きました。ごく若いころからいつも彼女のステイジを見ていました。そして毎回失神するほど興奮しました。あの方は私に大きな感情のうねりをもたらせる人です。彼女の書く歌詞、彼女のユーモア全部心に留めています。Barbaraの素晴らしさにただうっとりとし続けました。

Liane FOLYは1962年12月16日Lyonに生まれた。本名Eliane Falliex。アルジェリアのOran出身の両親はアルジェリア戦争(フランス文化史において避けて通れないので、いつか書くつもりでいる)を契機にLyonに転居してきた。4歳でソルフェージュ、ピアノ、ダンスを学び始める。家族全員が音楽好きで、ソウル及びリズム&ブルース系のバンド「Black and White」で4歳年長の姉Corineはピアノを、兄Philippeはドラムスを担当していた。
Elianeは1973年パリ祭の7月14日、消防士たちのダンスパーティーでグループの歌手として10歳でステイジデビューを果たす。レパートリーは、Barbara、Sheila, Nicole Croisille,Claude Francois、そして50年代の英米スタンダードナンバー。この人はシャンソン歌手というよりJazz Singerの声だ。1988年「The man I love」というタイトルのアルバムを出している。言わずと知れた、彼女の大好きなSarah Vaughanへのオマージュの一枚。50年代のアメリカ音楽や映画が大好きな彼女のアイドルスターはヒッチコック映画のヒロインKim Novak。

Disney映画の「美女と野獣」をCharles Aznavourとデュエットしている。1989年Claude Nougaroの前座としてOlympiaに出演している。シャンソン歌手の人道的支援にも積極的に参加。[Sol En Si(Solidarite Enfants Sida)」や「心のレストラン」等にも出演。エイズ撲滅研究のためのチャリティーCD「URGENCE」(1992年)では「Be My Boy」を歌っている。今回は簡単な人物紹介に留めシャンソン歌手としての活躍の詳細は、別の機会に譲ることにしたい。

[参考資料]http://www.chartsinfrance.net/ 他。

Monique Serfの人生(前編)

バルバラカルトクイズ本文 Monique Serfの人生(前編) 2004/12/30
あるBiographyで年末に俯瞰してみましょう

翻訳者&クイズ出題者:Bruxelles
記事出典:http://encyclopedia.thefreedictionary.com/
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Monique Andree Self(①1930年6月9日ー1997年11月25日)はBarbaraという芸名で有名な人気歌手。

フランス、パリでユダヤ人一家に生まれる。第二次世界大戦中ドイツによるフランス占領の間転々と住居を変え逃げまわらねばならなかった。10歳前後の頃である。
戦後②近所に住む音楽教師がMoniqueの歌うのを聞き才能を育てることに興味を持つ。声楽と(a)ピアノを学び最終的に(b)高等音楽院に入学する。しかし経済的余裕がなく学習を諦め当時Parisの(c)人気キャバレー”La Fontaine des Quatre Saison"で歌い始める。

繊細な少女で戦争や家庭的諸問題で心に深い傷を負う。心の中の空虚さは彼女の立ち姿にも歌の中にも色濃く出ている。背が高く黒い衣装を着ている彼女がメランコリックな失恋の歌を歌うとき漆黒の髪の毛が強調されるようだ。1950年から1952年までベルギーのBruxellesに住み、そこで若手芸術家たちのコミュニティーに仲間入りする。画家や作家の卵たちの友達が一軒の古い空き家を改造して、練習場やコンサートホールとして使用した。ピアノを置いてMoniqueはそこでEdith Piaf,Juliette Greco,Germaine Montero等の歌を歌った。歌手としてはたいした進展は見られず生活苦との戦いは続いた。
1953年10月ベルギー人の法学部の学生③④Claude John Luc Sluysと結婚するも、1956年に離婚。後に彼女は⑤自作の曲の中で、男達と自分の関係をこう書いている。
彼らは誇りを持って歩む。私の男たち。私が前で彼らがその後、と。

パリに戻り⑥Jacques Brelに出会う。そして生涯の友人となり彼の作品も多く歌う。後に⑦⑧Georges Brassensに出会いBrassensの曲も多く取り上げついには⑨(d)最初のレコードに吹き込む。
1950年代小さなクラブのいくつかで少しづつ出演契約を確保し始める。特にカルチェラタンの若い学生たちの間に、ファンベイスをうちたて始める。1957年Bruxellesに戻りそこで、(e)最初のシングルを吹き込む。しかし彼女が知名度を上げるのはモンパルナスの有名なミュージックホール⑩⑪Bobinoに出演した1961年だ。黒色のロングドレスを着て忘れがたいステイジを見せた。しかし厳しいパリの批評家たちは、固く自然体でなく、自由さに欠けると、不親切な批評をした。また小さなクラブに戻ってせっせと歌った。そして2年後Capucines劇場で⑫自作の新作で驚くべき素晴らしい出来ばえを見せ、聴衆と批評家の両方の心を鷲づかみにした。それ以後歌手としてのキャリアは花開き、1964年にはPhilips Recordsというメジャーな会社と専属契約を結んだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

[翻訳者注]
この記事には正確を期してはいますが、完全に正確であるとは断言できませんという断りがありました。確かに間違いも数ヶ所ありますが、再度一生をまとめて振り返るきっかけになればと思って訳出しました。
この記事に特に間違いが多いわけではなく、よほど注意しないと、この程度の間違いは、一般的記事(特に記名記事でないもの)にはよく見受けられます。

[翻訳者注][間違いについて]
(a)ピアノは学んでいない
(b)三つの試験の二つにしか合格しなかったので、正規のコンセルバトワールの学生ではなく、Barbaraはいわゆる自由聴講生だった。
(c)"La Fontaine des Quatre Saisons"では皿洗いをしたのであって、歌ってはいない。
(d)最初のLPは1960年1月Pathe Marconiから「Barbara a l'Ecluse」が出ている。
(e)Bruxellesで録音された最初のシングルの年代は1955年説と1957年説がある。1955年が正しい。

椅子にまつわるもうひとつのエピソード

情報・読み物 椅子にまつわるもうひとつのエピソード 2004/12/15
1961年のボビノ出演に関して by Bruxelles

1961年Felix Marten(1919-1992)がL'Ecluseにやって来てBarbaraを聞き、2月9日から始まる彼のボビノ出演の前座(la vedette anglaise)に出るように依頼した。自伝の中でBarbaraは「不思議なことに私はこのボビノ出演に関してあまり思い出せない」と書いている。緊張し過ぎたためか、私生活が多忙を極めたためか。バルバラにとっては初めてセーヌを渡る、左岸から右岸への転出であり、パリの大劇場初出演でもあり、非常に大きな意味を持ったものの筈なのだけれど。
一番最初のBarbaraの音楽個人教師だったマダムDussequeに教えられたように高さ61cmに合わせたピアノの椅子を持参していく。

一部出演はBarbaraの他にコメディアンのJacques Ary,アルジェリアのアルジェの民謡を歌うLes Alcarson,曲芸師のAlverti,寄席芸人のMaurice Horgues。二部は真打ちのFelix Marten。

Barbaraは黒のビロードのロングドレスを着て登場した。毎夜L'Ecluseでそうしているように(古いBruantのレコードを聴くとBruantもそうしている)各曲歌う前に、タイトルと作者名をまず言っている。Barbaraがこのボビノで歌った曲は:
「La march nuptiale」「La femme d'Hector」(Brassens)、「Les flamandes」(Brel)、「Veuve de guerre」(Maurice Cuvelier)、「Chapeau bas」(Barbara)「Liberte」(Charles Aznavour,Maurice Vidalin)、「Vous entendrez parler de lui」「De Shanghai a Bangkok」(Georges Moustaki)
「Shanghai a Bangkok」を歌うときはL'EcluseのピアニストDarzeeがピアノを担当、バルバラは立ち上がって歌った。「Liberte」のパーカッションの部分は、ピアノの蓋を自分の手で叩いて例の音を出した。Barbaraはこのやり方をとても気に入った。

61年のボビノの評判は、無愛想で硬いとあまりパッとせず、Barbara自身もこの最初の大劇場にしっくりなじめなかった。何事もなかったように、再びL'Ecluseの歌手バルバラに戻っていく。

さて、最終日、Felix Martenの太っちょのピアニストRobert Valentinoが61cmに調節されたBarbaraの椅子をその体重で真っ二つに潰してしまう!!
何故か知らないけれど、その代償にBarbaraは歯科治療用の椅子を贈られる。これにくすんだ黒色を塗らせて、そのあとこれを愛用することになる。(1964年Jungen TheaterのGunther Kleinが「歯科用の椅子を苦労して探して自分でペンキで色まで塗り変えた」と言っていたのを思い出していただきたい。Gunther Kleinがレクリューズに来た時妙な椅子に座っているBarbaraに気づいたのだろう。(参照:「ゲッチンゲンの成立過程(1)」)

歯科用の椅子と言われても、このボビノ出演の後、Barbaraがどんな椅子に座ってピアノを弾いていたのか、どんな歯科用の椅子なのか、我々の想像を超えてしまう。
この椅子、落札価格は不明なのだけれど、2000年、Chevernyで行われた競売で販売されたらしい。それだけのエピソード、ストーリーを孕んだBarbaraの固有の椅子なのである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
参考資料:www.passion.barbara.net &「Il etait un piano noir...」P.140,141


Barbaraのロッキングチェアー

情報・読み物 Barbaraのロッキングチェアーby Bruxelles 2004/12/13
参考資料・www.creatweb.com/moustaki、他

Barbaraの遺品の競売で、ロッキングチェアー(複数あったと思われる)いくらで売れたか?Le Parisienの報道によると20万フラン。これが見出しになっている。Barbaraのファンでこのロッキングチェアーを知らない人はおそらくいないだろう。

ムスタキが「La dame brune」を書くずっと前から、二人は61年当たり、今に比べればごく一握りだけれども非常に熱心なファンがL'Ecluseにバルバラ目当てにつめかけていた頃に、知り合っている。お互い新しい曲ができれば、夜の何時であろうとお構いなく電話をかけ合って、歌って相手に聞かせていた。
「La dame brune」の頃でさえ、ムスタキの家にはTVがなかったのだから、それより前なら、ムスタキの家には、何があったのか?ムスタキのあばら家にはBarbaraを心地よくさせる物は実は何もなかった。そこでムスタキ、Barbaraを迎えるに当たってロックングチェアーを買った。買ったのはムスタキだが、そのチェアーはBarbaraの居場所になり、そこがBarbaraのテリトリーになり、Barbaraの所持品になった。それを知って、他の誰も、あえてそこに座りたいとか、座ろうとかはしなかった。ロッキングチェアーはBarbaraの訪問を待つ、ムスタキの心情の象徴になっていた。

BarbaraがPrecyに引越し、ムスタキも海外ツアーが多くなり、現実に会うことは無くなっていく。年月が過ぎL'Ecluseも店を閉めた。連絡は電話やFaxだけになる。
見捨てられたロッキングチェアーは、来ぬ人を待ちながら、絶望的な表情を見せ始める。ムスタキ一大決心をしてそれをBarbaraに言った。
「ロッキングチェアーさんに言っておいて。また座りにいくから」とバルバラ。

約束を破るのは初めてのことだけれど「彼女はもう来ないよ」と、一体どういう風にロッキングチェアーに伝えようか、今ムスタキは悩んでいる。(参考:「France-Soir」日付不明)

ムスタキが買ってくれたロッキングチェアー、バルバラはとても気に入ったのだろう。Precyにもステイジにも、それはあちこちに登場して、メガネやピアノと共に彼女の生活のシンボルにもなっていく。
ムスタキがバルバラのために1969年に書いた「Moi、je me balance」は、それを思えば、実はムスタキとバルバラだけがわかる、ムスタキの家にある、元祖のバルバラ・ロッキングチェアーの歌だった、ということがわかる。

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