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Barbara Chanson pour une Absente

Chanson pour une Absente、または Le 6 Novembreというこの曲はアルバム「La Louve−1974」に収録されている。1992年の13CD-Boxには「Musique pour une Absente」というタイトルに変更されている。歌詞がないのでそのほうがいいだろう。長い曲(4分53秒)なので、You Tubeに出るとは思わなかった。LPに付された永田文夫氏の解説によると
ー「居ない女のために」では、作曲法の秘密を打ち明けてくれる。ピアノに向かって情景を語るうち、心に浮かぶメロディーは、歌詞のない歌声となって流れだし、オーケストラを伴って、堂々と盛り上がっていく。ーと記述されている。
11月6日(1967年)は彼女の母、Ester Brodsky (またの名をMadeleine、家でBarbaraは「ユダヤ人の女の人」と呼んでいた)が62歳で亡くなった日である。したがってこれは「亡くなった母のために」というタイトルが最もふさわしい。EsterはモルダビのTiraspolで1905年に生まれBarbaraと同じ Bagneuxの墓地に眠っている。
Barbaraには2歳年上のJeanという優秀な兄がいて、母の愛(叔母の期待も)は兄にのみ注がれ、勉強嫌いのBarbaraは比較されからかわれ馬鹿にされ無視され、愛情をひたすら祖母に求めるしかなかった。祖母の死を予感したり、死んだ祖母を幻視したりするのはそのためである。また母に疎まれる悲しみの隙間に、父が優しさを装って彼女の心の空白を埋めるのである。彼女が端からあからさまな拒絶が出来なかった理由はここにある。あの日が始まるまで幼い彼女は父が大好きだったのである。時代が父Jacquesを不幸にしたこともまた事実だった。母Esterは最も不幸であった。だから、希望と夢のすべてを長男のJeanにかけたのだ。父JacquesはEsterの夫として、Jeanの父としても居場所をなくす。戦争が彼を家族から引き離したこともそれに輪をかけた。死んだ父の港湾労働者の仲間たちはBarbaraに言う。「自分のことはほとんどいわなかったが、上の娘のことは、よく言っていたよ。歌手になったって。TVを見て、あれが俺の娘だ、って言ったこともあるよ」...
父の死の連絡の電話を受けたBarbaraが、母に相談もせずに、書置きを残しただけで、たった一人でNantesに向かうことの説明はこれでつくだろう。歌にも歌われたように、この世を去る前にたったひとつ父が求めたものは「私の微笑」だと「私の許し」だと、Barbaraは確信していたのだ。既に死んだ父に対面したBarbaraは「あなたを許します」と伝えることが出来なかった。それが唯一かつ最大の後悔だとBarbaraは言う。
母Esterの夫Jacquesにとって、Barbaraは女であり、娘でもあった。人生の前半の大部分を共に暮らした母、最も不幸だった「ユダヤ人の女の人」に死なれて、娘としてその悲しみを母への愛を壮大なメロディーに表現し追悼することはできても、その感情はどうしても言葉には、歌詞にはならなかった。

「亡き母のために」 作曲 BARBARA:

・・・追記:2012年4月29日(上記は4月16日記入)・・・
この素晴らしい音付けは編曲はWilliam Shellerの手になる。
それからイントロでBarbaraがぶつぶつ言っているように聞こえる部分は
FrancoisのPassion Barbaraから書き起こしをお借りしてきた。
以下の如しである。
"Bon faites la cette chanson, oui. C'est si tu veux je voudrais moi c'est une chanson qui s'appellera Chanson pour une absente ou le 6 novembre. Enfin je sais pas encore. Je voulais faire une chose qui est absolument sans texte. Enfin y avait un texte, bon, j'arrive pas à écrire. Et ce que je voudrais, bon disons que c'est Paris c'est un matin de Novembre, c'est encore ensoleillé mais c'est quand même frileux. Et c'est un matin de Novembre avec un temps de Mars. Y a un petit soleil comme ça, une petite pluie et c'est dans Paris. C'est une marche très lente , c'est noir, c'est comme une file, une grappe, tu vois, lourde de gens, enfin pas de gens tu vois. Bon, ça s'écoule comme ça très lentement. Enfin c'est sombre tout ça tu vois. Je voyais une chose qui ferait comme ça, tu vois, comme une espèce de lente prière."

Luc Simon est mort

 
上の絵はLuc SimonがBarbaraのために描いた「眠れBarbara安らかに」

Luc Simonに関しては画家なので
日本のシャンソン界ではほとんど知られていない。
Barbaraに関する書物を目を皿のようにして読んでいる人のみが、心に留めている存在であるだろう。その死(2011年11月8日)も日本では全くフランスでもほとんど報道されていない。彼はPicassoを捨てた唯一の女、Francoise Gilotを受け止めて結婚、子供もできている、そういった意味では美術界では有名かもしれない。しかしあくまでもFrancoise GilotはPicassoとの間の二人の子供にPicassoの名を継がせたくて、認知を求めた。嫉妬に狂ったPicassoは自分もすぐ後に内緒で再婚するにもかかわらず、認知の条件としてFrancoise GilotにLuc Simonとの離婚を求めた。二人のこどもは、再婚したPicassoには懐かず、Luc Simonとの親子関係の方が良好だったようだ。もう一つ、ここでLuc Simonの死を取り上げる理由は、彼がBarbaraの恋人だったからだ。
Luc Simon: wikipedia
Luc Simon : Ceci n'est pas une pipe: Artist として
Francoise Gilot Picasso:詩集「2N世代」
Barbara's lover, Picasso's rival, is dead
従ってこういう報道↑になる。
Francoise Gilotの50年代
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必死にさがしたので思いもよらない映像を見つけることができた。しかし若き日のLuc Simonをメディアを通して間接的にではあるが知っているゆえに、これはショッキングな映像だった。彼は87歳で亡くなったのだが、死の3年前からアルツハイマー病を患っていた。若き日は映画に主演したこともある、カッコいい男性であった。この映像を見ると、老いること、に激しいショックを感じた。そう言えば、抽象表現主義画家のWillem de Kooningもアルツハイマー病を晩年に患った。あのWillem de Kooningがである。
Luc Simon 晩年の映像


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Luc Simonに関してはいつか書こうと思っていた。すでにどこかに書いたかもしれないが私は「
Attendez que ma joie revienne」はBarbaraがLuc Simonにあてて書いた曲だと思っている。その辺の肉づけをしたいと思っていた。今日フランス人のBarbaraサイトの一つにいくと「Je ne sais pas dire je t'aime」が、BarbaraがLuc Simonに書いた曲だとあった。この歌詞そのものをBarbaraは手紙にしてLucに書き送っているそうだ。心情的には「Attendez que ma joie revienne」と非常に似ている。しかも時期的に何故BarbaraがAttendezと言っているかもわかっている。その時Barbaraには心からどうしても消えない人がいたのだ。名前も勿論わかっている。そしてそもそもLucはその人物と知り合いで、彼に頼まれて、ParisでBarbaraに近づいたのだった。話すと長くなるので今日はこの辺で。

参照:
BarbaraとPicassoの子供達との繋がり(3)
参照:
Luc Simon:BarbaraとPicasooの子供達(4)
参照;
Picassoの息子と娘?(1) Music Cross Talk


Barbara - The Inner Voice of France

Barbara - The Inner Voice of France
という番組がなんとイギリスのBBC3で2011年の12月18日に放送されたという情報を、後の祭りでつかんだ。何時間もかけて放送の実際を探したのだけれど、すでに時遅し。
それで、なんとか文字情報でもと思って、あきらめずに探してみました。
BARBARA ?  a portrait by Norman Lebrecht on BBC radio
La Belle Dame Sans Publicite
Barbara Images from Lebrecht Music & Arts Photos:
Why is Nana Mouskouri on classical BBC Radio 3?
Barbara sur votre radio
Like Piaf, tragic
Barbara is the true voice of France
出演は
Valerie Lehoux、Jacques Attali, Marie Chaix,
Bernard Serf, Norman Lebrecht, Nana Mouskouri,
Roberto Alagna ,Martha Wainwright、Didier Millot
 という豪華メンバー。
BBCがBarbaraの特集を組むとは、見逃したことが残念!

その代わりと言っては何だが、前から探していた
音楽誌Chorusに掲載された
まだ駆け出しのBarbaraが大御所Marie Dubasを
病院に見舞う写真を入手した。こういうことが可能なのは
ユダヤ系つながりのフィクサーがシャンソン業界に存在した
ということだ。

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Barbaraに関する著作もある
Didier Millot 氏のBarbaraサイトをみていたら、
日本語が出てきた。この書き方は私だと直感した。
Music Cross Talkを調べると
同じ文章がそっくりみつかった。
「discographieがある」、と続くので「本には」で
正しい日本語なのだが、後ろをカットしているので
「に」が余分のおかしな日本語になっている。
Didier Millot氏の書いた「Barbara J'ai traverse la scene」
という本は全世界で発売されている
discographieがある。
(Didier,全世界で発売されてないよ。)

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Barbaraの一発ギャグ

Poisson Rouge

出典:「Barbara」par Valerie Lehoux P.103
証言者:Claude Vinci
場所:La Boule d'Or : Francesca Solleville, Pia Colombo, Christine Sevres, Marc OgeretそしてBarbara等の溜まり場
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Barbara: "Quelle est la couleur des petits pois?"
(グリーンピースの色は何色?)
Barbara: "Non,c'est pas vert, c'est rouge. Parce que les pois sont rouges!"
(緑じゃないわよ、答えは赤。だってポワソンルージュ(=グリーンピースは赤い)ポワソンルージュ(=金魚)って言うでしょ)

日本語は金魚なので、このギャグは不可。日本でも赤い金魚が一般的なのに。昔は金色だった?!上の写真は16ヶ月ほど前から準備していたのだが、この話を打ち込む時間が無くて、今日になってしまった。


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Je crois que le rire etait pour nous ( Barbara, Sagan, Greco) la meilleure facon d'exorciser la douleur, l'inquietude .
(私達にとって笑いは辛さや不安感を追い払う最良の手段でした)
L'humour de Barbara etait une defense, une fenetre ouvert sur la liberte.
(バルバラのユーモアはある種の自己防衛でした、自由・解放に向かって開かれた窓でした)
「Barbara」par Valerie Lehoux P.104 :
Greco
Juliette Grecoが単なるシャンソン歌手ではない、ことの論拠となりえるほどの素晴らしい分析だ。

上はCorrespondances(2009年8月9日)にBruxellesが書いた記事をこちらに移動したものです。


Roland ROMANELLI

Roand Romanelli

Roland ROMANELLI 56min
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Le 22 mars dernier Yves Calvi dans son émission
radio Nonobstant sur France Inter invitait Roland Romanelli

・・・・・追記2010年4月18日・・・・・
Barbaraの自殺騒ぎがあった時、結局Barbaraがかけた間違い電話から、その電話を受けた見知らぬ人が救急車を呼んでくれて、Barbaraは死を免れたのだった。睡眠薬の飲みすぎ。魔がさしてうっかり間違えて飲んだのだと、Barbaraは自殺説を完全否定している。眠れない苦しさから、ちょっとばかりアルコールを飲みすぎるような勢いで飲んでしまったのだろう。Dalidaを初めシャンソン歌手には実際驚くほど自殺者は多い。あのJohnny Hallydayでさへ、自殺未遂経験がある。「魔がさす」というのは、説明を拒否するためのジョーカーだ。今朝ふと思い出したのだが、この間違い電話をかける前に、私の記憶ではBarbaraはRoland Romanelliに電話している。が留守だったのだ。睡眠薬が致死量に近づく前に、BarbaraはRolandを相談相手に選んだ。ある時期Rolandは間違いなくそういうポジションにいたのだ。そしてもう一度Rolandにかけようとして意識が混濁して番号を間違えたのだろう。(結果としてはそれが命を救ったのだが)・・・
上の放送でRollandは五月蝿いほどしゃべりにしゃべっている。Planete Barbaraでは既に書き記したことばかりなので解説は省略する。繰り返しになるがひとつだけ、やはりBarbaraらしさを感じるので再記しておく。BarbaraとRolandはLily Passionの稽古中の諍いが元で、ぶち切れたRolandが稽古場を飛び出し、そのまま永遠に去ってしまうことになる。後はお互いの意地の張り合いだ。(Lily Passionで目も当てられない程あの俳優と目の前でいちゃいちゃされたら、Rollandでなくてもぶち切れるだろう-Bruxelles発言)「その後は一度も会っていないのですか?」の問いにRolandは答えている。「一度だけBarbaraから電話がありました。すぐに僕はBarbaraだと分かったのですが、Barbaraはこう言ったのです。『Jean Michel Jarreさんのお宅ですか』?ってね」「それで?」「それで僕はこう言いました。いいえ、違います。番号のおかけ間違いですよ、ってね」
どちらの気持ちも非常に良く分かる。こういうシチュエーションの経験は誰にでもあるだろう。「久しぶり、よく電話をかけてきてくれたね」ってRollandが言えたら、二人はすぐに再会しただろう。あなたがRolandなら、どう対応しただろうか。私がRolandなら、私がRolandなら、同じようにもうBarbaraの元には戻らないだろう。

上はCorrespondances(2010年4月18日)にBruxellesが書いた記事をこちらに移動したものです。

Luc Simon:BarbaraとPicasooの子供達(4)

Luc Simon

とりあえずLuc Simonの個人資料をなくさないように置いておく。
Francois Faurant Site  :
Luc Simon :
Luc Simon was born in Reims in 1924, where his father was a master
glassworker; Simon himself has designed stained glass windows for a number of churches, including the church of Saint Remi in Reims. Luc Simon studied at the Ecole des Arts Decoratifs in Paris. Although chiefly a painter, Luc Simon has also made sculptures and designed tapestries. Among his prizes are the Prix de la Casa Velasquez in 1950, the Prix Feneon in 1954, the Prix de la critique de la Ville de Paris in 1963. He has works in the National Gallery of Modern Art in Tokyo, and the Musee National d'Art Moderne in Paris. Between 1955 and 1962 Simon was married to the artist Francoise Gilot (between her partnership with Picasso and her later marriage to Jonas Salk). There is a 1973 film about his work, Le peintre Luc Simon, by Denise Glaser; Simon also appears as Sir Lancelot in the classic 1974 film Lancelot du Lac, directed by Robert Bresson.
・・・・・・・
○1973年にDenise GlaserCorrespondances過去記事Je suis mort.com
によってLe peintre Luc Simon, 「画家、リュック・シモン」という映画が製作されている。
○Robert Bresson監督の映画Lancelot du Lac (1974) 「湖のランスロット」で主演のランスロットを演じた。上の写真こちら向きの渋い男性がLuc Simonである。
Lancelot du Lac : Wikipedia
Lancelot du Lac : imdb
Lancelot du Lac : 13 customer reviews Amazon

・・・・・追記:2010年3月15日・・・・・
参照:Ceci n'est pas une pipe :Luc Simon : Art Works
参照(写真):Barbaraの「Madame」の舞台美術を担当した制作中のLuc Simonと、初主演舞台「Madame」の大失敗を「L'aigle Noir」の大ヒットで吹き飛ばした驚くほど若い40歳のBarbara
「Madame」の舞台衣装を着て
(この鋭い目をみて思い出したが、67歳のBarbaraは片方の目の白内障の手術を終え、もう一方の目の手術の予約をいれたまま亡くなっている)

上はCorrespondances(2010年3月15日)にBruxellesが書いた記事をこちらに移動したものです。


BarbaraとPicassoの子供達との繋がり(3)

Barbara et Picasso

写真解説
Luc Simon and Francoise Gilot, Tunisia, 1956
(この時Francoise Gilotのおなかの中には二人の子供が宿っている)
・・・・・・・
1954:In the spring, Gilot and Luc Simon meet by chance at the La Hune Bookstore in Paris, shortly after Simon’s return from a sojourn in Madrid. After years of working so near Picasso, a man of vast intelligence but with a titanic nature, Gilot now finds herself in the company of a man who encourages her more poetic nature and her quest for lyricism in her work.
1956: In May around the Easter holidays, Gilot and Simon travel for a month in Tunisia. Although she is several months into a difficult pregnancy and is experiencing some discomfort in traveling, the cultural, the colors, the children and the quality of light enchant Gilot. October 19: Though there are difficulties during the delivery, Gilot gives birth to her third child, Aurelia.

引用部分の出典)
Francoise GilotはPicassoのもとを去った後、Artを通じた昔の友人Luc Simonと再会、結婚しAureliaという子供を産んだのだった。この時点でLucとFrancoiseには3人の子供がいることになる。二人が協議離婚をするまで、Luc SimonはClaudeとPalomaの父親だった。離婚後もClaudeとPalomaにとっては、認知はされたが既に新しい女性と暮らしているPicassoより、母とLuc Simonこそが、最も親しい家族だったのだろう。一人になった母は羽ばたき後にPicassoにも劣らない著名人と結婚してさらに名声を高めていく。ClaudeとPalomaがPicassoの名を名乗り始めた直後、あるいは遅くともその1,2年後に、Monsieur H..を通してLuc SimonはBarbaraに出会ったのだった。このとき既にLuc SimonにはAureliaと言う子供がFrancoise Gilotとの間に存在していた。
Aurelia and Water Lilies 1969 by Francoise Gilot
・・・・・・・・・・


参照:Francoise Gilot 詩集「2N世代」
リンクにある日本語によるFrancoise Gilotの人生解説の両ペイジに於いてLuc Simonへの言及は「ジローは若い頃の画家仲間リュック・シモンと結婚し、娘オーレリアをもうけている。」の一行のみである。前後の男性があまりに偉大すぎて、Francoise Gilotの人生を外から見た場合、Luc Simonが話題になることは、このようにほとんど無い。一方Barbaraの人生を取上げる場合も、Luc Simonに特に着眼するのは今回のこのCorrespondances(PLANETE BARBARA)が日仏両国を通して初めてだろう。こう書いた以上は、BarbaraとLuc Simonとの出会い及びその恋愛関係にも、出来るだけ早急に筆をあてがわねばならない、と言う気がしてきた。


上はCorrespondances(2010年3月12日)にBruxellesが書いた記事をこちらに移動したものです。

(続)Picassoの息子と娘 (2)

Barbara et Picasso 2

この写真は1989年に出たBarbaraの楽譜集。昨日書いたように資料ではこの写真はPaloma Picassoと記されていた。偶然この本を友人のRoseに買ってもらって送ってもらっていたので、夕べ確認するとこの写真もClaud Picassoとなっていた。お詫びと訂正をいたします。

Claude Picassoを調べたところカメラマン修行をしているので、おそら くPicassoの息子とBarbaraの写真撮影者は同一人物とおもわれる。

Paloma PicassoがLuc Simonの助手をしていて、Barbaraの「Madame」の舞台にかかわったことも確認しました。80年代にPaloma Picassoは自分のブランドを立ち上げ香水やアクセサリーを多数創作している。2001年スイスのLausanneに移住そこにPaloma Picasso Foundationを設立し、特に母親(Francoise Gilot)の作品の紹介に力を入れている。PicassoがPalomaの顔を描いた作品が次のサイトで見える。Palomaの紹介も出ている。
こちら
アーティストというよりスイス在住のBusiness Womanのカテゴリーでようやく見つかった。
以上は2005年10月15日の記事をTopに移動したものです。
・・・・・・・・・・・

・・・・・・・追記:2010年3月12日・・・・・・・
Picassoとの間に息子Claudeと娘Palomaを産んだFrancoise GilotはPicassoの女としては例外的な行動をとる。Picassoの抑圧や浮気に耐えかねてPicassoの元を去る。この時のPicassoの心境は女三の宮に浮気された光源氏ほど、わが身の老齢化を実感しショックに打ち震えたことだろう。高齢ゆえの完全自信喪失である。
Picasso was not long in finding another lover, Jacqueline Roque.  The two remained together for the rest of Picasso’s life, marrying in 1961. Their marriage was also the means of one last act of revenge against Gilot. Gilot had been seeking a legal means to legitimize her children with Picasso, Claude and Paloma. With Picasso’s encouragement, she had arranged to divorce her then husband, Luc Simon, and marry Picasso to secure her children’s rights. Picasso then secretly married Roque after Gilot had filed for divorce in order to exact his revenge for her leaving him. (Wikipedia)
PicassoはFrancoise Gilotに仕返しをする。ClaudeとPalomaの認知を望んでいたFrancoise Gilotに現在の夫との離婚を要求、自分との入籍を暗示しながら、Francoise Gilotが子供の認知のために夫との協議離婚の手続きを踏むや否や、自分は最後の女Jacqueline Roqueと密かに結婚しFrancoise Gilotから安定していた結婚生活を奪ったのだった。

上はCorrespondances(2010年3月12日)にBruxellesが書いた記事をこちらに移動したものです。


Picassoの息子と娘?(1)

Barbara et Picasso

 これがFrancoise GilotPablo Picassoの間にできたClaude Picassoと思われる人が撮影したBarbaraの写真。明日は二人の間の娘と思われる、Paloma Picassoが撮影した写真を載せます。Paloma Picassoは1970年Renaissance劇場の「Madame」の舞台構成をした、Barbaraの友人Luc Simonの助手をしていました。
以上は2005年10月14日の記事をTopに移動したものです。

・・・・・追記2010年3月12日・・・・・
Luc Simonについていつか詳しい記事を書こうと思っていた。これはまだ調査の必要ありのことだが、「Attendez que ma joie revienne」はLuc SimonにBarbaraが贈った曲ではないかと考えている。Luc SimonはMonsieur H...とBarbaraの仲をとりもった人物なのだが、結果として後にBarbaraの恋人になった人物である。上に書いたように「Madame」の舞台美術を担当し、またBarbaraのPrecyの家の室内デザインも手がけたArtistである。Luc Simonの手になる「Barbaraよ、眠れ」という絵画作品も見た記憶がある。友人のJeanneに貰った比較的新しいCD付きBarbara本のイラストはLuc Simonが担当している。BarbaraサイトのArticleとしてLuc Simonを書くにはまだまだ多くの時間をかけた資料調べが必要なので、いつ頃脱稿できるかは完全に未定である。
上の記事を書いた2005年10月14日の時点では、BarbaraのジャケットにPicassoの名前を発見して、オヤッと思って記事にした段階であるが、昨日BarbaraとPicassoの子供達の繋がりの理由を発見した。

上はCorrespondances(2010年3月12日)にBruxellesが書いた記事をこちらに移動したものです。

Une autre lumiere

Texte et musique de Marie Paule Belle

Tu aurais du attendre un peu
Avant de partir
Qu'on se connaisse un peu mieux
Le temps de se dire
Des choses qui ne servent à rien
Mais qui font rêver
Quelques mots dont on a besoin
Pour pouvoir chanter

Rappelle toi Barbara
Nous a dit Prévert
Le soleil de ta voix
N'aura pas d'hiver

Ta folie ta vivacité aidaient notre vie
Et ta voix même un peu cassée
Comme elle manque ici
Vêtue de noir pour l'extérieur
Tu virevoltait
Tout était blanc à l'intérieur
Mais tu le cachais

Rappelle toi Barbara
Nous a dit Prévert
Le soleil de ta voix
N'aura pas d'hiver

Aujourd'hui loin des projecteurs
Une autre lumière
Enveloppe ton âme et ton coeur
Plus fort et plus clair
Et ses mots que tu as chanté
Donne moi la main
Je le envoie sans m'arrêter
Ca me fait du bien

Comme toi je ne sais pas dire je t'aime
Mais à ma façon
J'ai voulu te le dire quand même
Dans une chanson

///////////

去ってしまう前にもう少し待ってほしかった
もう少しよくお互いを知り合えるように
話し合う時間がほしかった
現実に役立たない話でも
きっとそうすることで夢見ることができた
歌うために必要な言葉を
語り合えたかも知れない

「Rappelle-toi Barbara」とJacques Prevertは詩に書いたわよね
そうよBarbara rappelle-toi(思い出してね)
太陽の素晴らしさを持つあなたの声に
冬という季節はなかった

あなたの快活さ、そして時々する悪戯
私たちの人生を支えてくれたわ
そしてあなたのあの声、少しかすれていたけれど
もう直に言葉を受け取れないのが悲しいわ
外側は黒い服
でも、あなたがくるりと回ると
内面は真っ白
でもその白さを
あなたは黒い色で隠していたわ

「Rappelle-toi Barbara」とJacques Prevertは詩に書いたわよね
そうよBarbara rappelle-toi(思い出してね)
太陽の素晴らしさを持つあなたの声に
冬という季節はなかった

今はもう照明からは遠いところにいるあなた
でも、もうひとつの光が
あなたの魂とあなたの心を
照らしているわ、より明るく、よりはっきりと
あなたが歌った
「Donne moi la main 手をかして」という言葉
私は絶え間なくその言葉を呟くわ、あなたに
そうすると気持ちが安らぐの

あなたが「Je ne sais pas dire je t'aime (愛していると言えない)」と歌ったように私も
「Je ne sais pas dire je t'aime」
でも私は私のやり方で
歌の中に思いを込めて
あなたにBarbara,あなたに
「愛しています」と言いたかったの


/////////////////////

追記:
1964年Barbaraが作詞作曲した「Je ne sais pas dire」という曲は、このように始まる。曲想もすでにBarbara世界の片鱗を見せている。

Je ne sais pas dire "je t'aime",
Je ne sais pas, je ne sais pas,
Je ne peux pas dire "je t'aime",
Je ne peux pas, je ne peux pas,
Je l'ai dit tant de fois pour rire,
On ne rit pas de ces mots-là,
Aujourd'hui que je veux le dire,
Je n'ose pas, je n'ose pas,
Alors, j'ai fait cette musique,
Qui mieux que moi te le dira,

「愛しています」なんて言えない、言えない
「愛しています」なんてどういえばいいのか知らない、知らない
おちゃらけでは何度でも言ったことあるけど
普通それで人は笑わない
でも今日その言葉を言いたいの
でも思い切れない、思い切れない
だから、この曲を作ったの
私が口に出して言うより
うんと上手に気持ちが伝えられると思うの。


今回この曲を取り上げたのはある方のリクエストにお応えしたものです。

・・・・・・・・・・・・・・
追記(2)
歌詞の中の「Rappelleーtoi Barbara」はJacques Prevert作詞Joseph Kosma作曲、イヴ・モンタンやレ・フレール・ジャックの歌でよく知られている曲「Barbara」からの引用。
歌詞の中の「Donne-moi la main」は言わずと知れた「Nantes」からの引用。「Donne-moi la main」「助けて」というのはナントの駅に一人で降り立って、暗い空、そぼ降る雨に直面したBarbaraの偽らざる心境に違いない。「助けて」と当てもなく呟く状況を経験することによって、人は人生の過酷さと自分の非力さを知る。その経験を通して、初めて人は寛大にも謙虚にも、そしてやさしくもなれる。

上の記事は2005年9月28日の記事
2010年3月6日:追記
Une Autre Lumiere par Marie Paule Belle:

L’atelier: Bruxelles 1954 (4)

Barbara not 1954.

2008-04-11記


Barbara à l’Atelier (publié par Les Greniers de la mémoire-France Musique et Le Chant du monde-Harmonia Mundi), enregistrement mythique du 1er octobre 1954, qui marque peut-être le tout début d’une vraie carrière. Ce jour-là, devant deux cents spectateurs tassés dans le vaste atelier du peintre Marcel Hastir à Bruxelles, elle gagne ses premières critiques de presse et son premier contrat discographique avec Decca-Belgique.

参照: Le Figaroの記事:2007年11月24日

L’atelier Bruxelles 1954 を紹介したLe Figaroの記事を探し出した。上はその抜粋。
この記事によると、かなり大きいMarcel Hastirのアトリエ、ぎっしり200人はいったようだ。1954年10月1日。ここにあるように翌日新聞記事に取り上げられた。Barbaraが初めてメディアに歌手として登場したことになる。(その報道記事も、リサイタルポスターも入手済み)そして客席にDecca-Belgiqueの関係者がいて、これをきっかけにレコード契約も整った。また11月にはAngèle Gullerのラジオ番組「 La vitrine aux chansons 」に招かれBarbaraはベルギーで初ラジオ出演を体験する。そして1955年の
レコード発売に合わせて、le Palais des Beaux-Arts de Bruxelles 、ブリュッセルの名門劇場への出演をはたす。Barbaraが言うようにL’atelier Marcel Hastirでのリサイタルは大きくBarbaraの歌手人生を浮上させる。

Ce n’est pas ce récital qui est enregistré par un de ses amis qui vient d’acheter un magnétophone à bande, mais son ultime répétition, au cours de l’après-midi. S’accompagnant au piano, elle interprète ses seize chansons
16曲の弾き語り、とある。レクリューズ時代でも下手だ下手だといっていたピアノをこの時期にすでに弾き語りをしていたのは驚きだ。とすればBarbaraに歌えるまでのピアノの手ほどきをしたのは、グルジア人のEthery Rouchadzeだということになる。前にも書いたが、録音はリサイタルそのものではなく、同日午後の最終リハーサル。録音は(1)で紹介したJacques Vynckier氏。彼はMarcel Hastirの生徒でもあった。自分の歌の反省材料にでもしようと思ったのか、Barbaraがリハーサルの録音を誰かにしてもらいたいとJacques Vynckier氏に依頼した。数日前にアメリカ製の前年に発売になったばかりのEkotape Websterというオープンリールのテープレコーダーを所持したJacques Vynckier氏、それをヨーロッパ仕様に電圧調整?して、急遽自分が録音係を引き受けることにした。録音がこのように全くの素人であること、そしてマイクがピアノの上に直接置かれていたこのなどが、声の歪の最も明らかな原因だと言える。(しかしCDでは、これを21世紀の録音技師プロのDjengo Hartlap氏がここまで出来るのかと思うほど修復してみせている)


Son répertoire est à l’époque très composite, mêlant les classiques intemporels (À Saint-Lazare d’Aristide Bruant, Madame Arthur d’Yvette Guilbert) et les succès du moment (Mon pote le gitan, Viens gosse de gosse), mais aussi des chansons originales... qui ne sont pas d’elle. «La Promenade» et «L’avenir est aux autres» sont l’œuvre d’Andrée Olga et de son mari Claude Sluys, fils de famille tenté par la poésie et la vie de bohème.
FigaroもLe Mondeも、結構こういうミスをする。Claude Sluysを夫と紹介しているのに、Andrée OlgaをBarbara自身と見抜けないなんて、フランスの評判の一般紙はBarbaraに関しては時々目を覆うほどいい加減だ。


Sur la place par Jacques Brel :


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2008-04-19 : 追記
「吃驚仰天」と言う言葉で、曙の結婚問題のときの高見山を思い出してしまった。とにかく吃驚仰天!
ーとすればBarbaraに歌えるまでのピアノの手ほどきをしたのは、グルジア人のEthery Rouchadzeだということになる。ー
と上の文中に書いている、そのEthery RouchadzeがNet上に顔出しで登場した。この情報は今日届いたLes amis de Barbaraの会報No.33から入手したもの。1952 BruxellesにおけるBarbaraを語る、当然のことながら、吃驚するほどのおばあさん!とても天才Pianisteだった女性とは思えない。(ただし若き日の面影はある)。
Le Expressのweb記事上にある。
LEXPRESS.fr du 20/11/2007
Rencontre avec
Ethery Rouchadzé, première pianiste de Barbara:


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この記事はBlog Correspondances(2008-04-19),にBruxellesが記入したものをこちらに移動したものです。

L’atelier: Bruxelles 1954 (3)

Marcel Hastir 1954

画家Marcel Hastir氏は現在100歳を超えている。1937年以来彼のアトリエは若いアーティスト達の発表の場となっている。なんと70年を越える劇場である。若手日本人アーティストの中には、この場でコンサートを行った人も何人かいる筈だ。演目に関する規制は無い。1998年からは、2年毎に賞金2000ユーロのMarcel Hastir賞も制定されている。作曲家に与えられるこの賞に応募するには、国籍や年齢に関する制限は無い。作品演奏時間12分から20分までの弦楽四重奏曲が応募の対象となっている。


ただ逃げたかったためにBruxellesに行ったBarbaraに、友人も知人も、そして何かの当てがあったわけではない。最初のBruxelles行きは、八方塞がりの、絶望の果ての、どん底の”家出”なのだった。2度目のBruxellesでさまざまな才能や重要人物との、人生の第一転換とも言える出会いがあり、、幸運が重なって、しかも織物のように運命の糸が絡み合って、半世紀と数年を経て、2007年のCD「A L'Atelier Barbara 1954」が完成した。つまり歌手Barbara, une femme qui chante,の埋もれてもはや存在しないも同然だった原点が、夜のような雲を引き裂いて、物理的にCDという形をかりて立ち現れた、と言えるだろう。


Les Amis de Barbaraでは当初からBarbaraの人生を追調査するという目的のひとつを持っていた。数年前から現地、この場合はBruxellesに飛んで様様なインタビューや資料収集を独自に行っている。
会報18号(2004年夏号)では、このL'Atelierの主、Marcel Hastir氏をそのL'Atelierに訪ねてMarie Avilesがインタビューを試みている。


「僕のアトリエでのコンサートにいつも来ていた医者がいたんだ。その医者と知り合いになってね。彼の家の近くに若い女の子が住んでいて、確かポーランドかユーゴスラビアから来た子だったかなぁ」
「遠くから来た子で仕事を探していた。で、その医者が彼女を掃除や整理係に雇ったんだ。Sluysの家には実験室があった。彼は癌の専門医でね、本当にその実験器具を洗ったりする使用人が必要だったんだ。その子はとても感じのいい子で、住み込むようになって、実験室の整理整頓をしていた。つまりは、そうして医者の手伝いをしていたから、看護婦みたいな仕事にありついたわけだね」
「その子はね、ある特徴があって。ここにコンサートを聞きにやってきた医者が、ある日こう言ったんだ。『変わった子だよ、あの子。一日中ずっと歌を歌ってるんだよ』ってね。歌ばかり歌っている子で、声もいいのなら、このアトリエでその子のために何か企画してあげてもいいね、ってその医者に言ったんだ」
ーM.A.「じゃあ、此処での彼女のコンサートはあなたが言い出したんですか」ー
「そうそう。で彼が『じゃ、そうしようか』って言った。すんなり決まったよ。で、ある日僕が彼女に会いに行って彼女が歌うのを聞いた。彼女の部屋、つまり彼の実験室に行ったんだ。彼女はこんな風に歌った...。黙って聞いて、いける、と思った。とても素晴らしい声を持っていたからね。それで、リサイタルの準備をすることにしたんだ。パリにFerrierresと言う奴がいて、そいつはこういうシャンソンのリサイタルの準備の専門家でね、彼が準備万端、手筈を整えた。そのFerrieresをパリからブリュッセルに呼び寄せて、彼はここに一ヶ月いた。その一ヶ月間女の子も、ここに毎日やって来て彼と一緒にリハーサルやら何やらしたんだ。選曲やら曲順やらプログラムづくりやら。そして成功した。そうだね、その一ヶ月
の間に、その女の子はその医者の息子と恋に落ちたんだよ」

ーM.A.「クロードですか」−
「そうだ。それで、その女の子と彼の息子は結婚した。その後二人でパリに行ってしまった。息子はプロデューサーみたいになってね。彼は、彼女のために何か役立ちたかったんだよ。でもプロデューサーとして彼はいい仕事人とは言えなかった。とっても心の優しい子でね。彼女のプロデューサーとしては、ふさわしくなかった。二人は仲違いして、そして別れた。彼女だけParisに残った。彼女は、そうだね、早かったよ、その後すぐに成功したよ」
ーM.A.「Barbaraの思い出は、特に何かお持ちですか」ー
「大きな髪の黒い美人だったね。私の妻ともとても仲がよかった。本当に仲が良くて小さなビストロでOrval(ベルギービール)を飲むために二人でよく出かけたよ。彼女はそれが好きだったんだ。なんでもかんでもしゃべってたよ。ここで準備や練習をしていた頃、夕方になると時々ね、みんなで、ちょっとお出かけしたりしてね。短かったよ、そういう時期は。彼女はParisに行ってその続きをしたんだろうね。Bruxellesには戻らなかったんだからね」
ーM.A.「戻ってますよ。Bruxellesに」−
「そうだね。でも彼女はParisを選んで、そこで歌手としての生活を続けていった。いつも、彼女には才能があると思っていたよ。その才能は開いていった。でも一番最後には、ついに声がつぶれてしまっていたね。その後は声は元に戻らなかった。自分の作品を歌うことに関しては、特別な才能があった。知性もとりわけ、優れている娘だったね、彼女は」
ーM.A.「連絡はずっと取りあっていたのですか」ー
「いいや、Parisに去って、それからそのままになった。例外として一日だけ彼女はBruxellesに戻って来て、パレ・デ・ボザールでリサイタルをしたね」
「パレ・デ・ボザールは普通は流行歌のコンサートはしないし、厳しい演目の選択をするところなんだ。Barbaraは例外だった。Barbaraを例外的に暖かく無条件で迎え入れた。やってきた彼女も立派だった。こんなことを言ったんだよ。『親愛なる皆様、私はここに来ました。それも私をあのアトリエで歌わせてくださったHastir御夫妻のおかげです。歌手としてBruxellesに戻ってきてこの大劇場に立てるのは、あの時のご夫妻のお力添えのおかげです』と。優しいことを言ってくれたね。」
ーM.A.「そうですね。でも本当に彼女の成功の最初のきっかけをつくったのは、あなた、Hastirさんなのですね」ー
「そうだね」
ーM.A.「アトリエでは20曲ほど歌ったんですね」−
「そうだね。たくさん歌ったね。Ferrieres氏とMon pote le Gitanを何度も練習していたよ。素晴らしい歌手だとずっと思っていたよ。うん、素晴らしい女の子だったよ。あの子はね、ちょっと変わっていて、一人の時は全く一人なんだ。人々と共に生きるという生き方をしなかったね。...ホールを見せましょうか」


Marie AvilesはMarcel Hastirとのインタビューの後、会場に行きピアノ、座席、楽屋などを見ている。Marcel Hastirに会い、Barbaraの話を聞き、その思い出のAtelierを見て彼女がどれほど感動したか、私には良くわかる。しかし、この出会いがCD「A L'Atelier Barbara 1954」のスタートになるとは、この時まだ誰も知らない。

Marcel Hastirのアトリエでは2004年のこのインタビューの少し前には、Amnesty Internationalの支援の元BIRMANIE Ce que cachent les pagodasと言うミャンマーの亡命者や政治囚救済のための集いを行っている。ここはレジスタンスの時代から多くの政治的被害者をかくまってきた砦でもある。

参考資料  : Les amis de Barbara 会報 
2004年夏、第18号
L’atelier: Bruxelles 1954 : PLANETE BARBARA 過去記事
・・・・・・・L’atelier: Bruxelles 1954 (3) par Bruxelles・・・・・・・


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追記: 4月10日
2005年にTV放映されたChristian Mesnilの Les chemins de Barbara を見ていたらMarcel HastirのL'Atelierの内部が映し出されていた。それだけでなくMarcel HastirがBarbaraを語る映像も流れたので吃驚した。このLes chemins de BarbaraはBarbaraの生前からすでに企画されていたが、Barbaraが自伝を書いてからと希望したので、着手がストップしていた。Barbaraが突然死したのでChristian Mesnilは、改めてBarbaraの兄Jean Serfに許可を取らなければならなくなった。その辺のことはまた機会を改めて「Les chemins de Barbara」について触れる時に詳しく書いてみたい。


追記: 4月11日
この辺が追調査の難しいところだが、ClaudeとBarbaraの出会いに関して、Marcel Hastirの発言と正統と判断されている資料の間に幾分食い違いがある。BarbaraとClaudeは1953年に既に結婚しているのだ。
この初めてのリサイタルでBarbaraはBrelのSur la placeを歌っているが、1954年、つまり同年のこれより少し前にBarbaraはBrelと初めて出合って、そしてこのSur la placeをBrel自身から「もらって」いる。1954年1955年と言う年は「Chaval Blanc」閉鎖後、ClaudeとBarbaraがParisとBruxellesをしきりに行ったり来たりする慌しい時期なのだ。
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この記事はBlog Correspondances(2008-04-09),にBruxellesが記入したものをこちらに移動したものです。


L’atelier: Bruxelles 1954 (2)

BARBARA à l'Atelier, Bruxelles 1954
を入手した。Merci Jacques !
その内容の16曲はこちら。
Francois Faurant. free.fr
Marie Avilès と Bernard Merle 
(どちらもLes Amis de Barbaraの重鎮)が書いた
34ペイジの小冊子が付いている。
Marcel Hastirの有名なアトリエで行われた
最初のほとんど幻のBarbaraデビュー・コンサート。
場所は51 rue du commerce à Bruxelles
これを録音して今回のレコード化に貢献したのは
Jacques Vynckier氏。
古い古いオープンリールのテイプレコーダーで
Jacques Vynckier氏が録音した。
もしこのテイプが保存されていなかったら今回のこのCDは
そしてそのコンサートは、存在しなかったことになる。
聴いてみると音は驚くほどよい。
Barbaraの声はまだBarbaraではない。
レクリューズで撥ねられた、声楽を学びました、という発声である。
しかし、栴檀(センダン)は双葉より芳し、
の片鱗は、その声に充分感じられる。
Jacques Vynckier氏についてはすでに
Correspondancesで紹介済み。
Correspondances 2007-11-06 ;
Marcel Hastirのアトリエでは現在も
様様なコンサートや展覧会が行われている。
Les Amis de Barbaraでは、3,4年前に
このMarcel Hastir氏の独占インタビューを
行っているので、その資料もある。
Barbaraの自伝にその名が登場した時から
その正体を必死に探してきた
Angèle Guller
果たした役割も次第に明らかになってきた。
このコンサートにはClaude Sluysも勿論深くかかわっている。
全く無名のBarbaraが1955年に
Bruxellesで78回転の幻のとも言える
レコードデビューが出来たのも
実はこのコンサートがきっかけとなったのだった。
このレコードデビューには
Angèle Gullerが深くかかわっている。
Barbara幻の最初の78回転モノラルは
Francois FaurantのSiteで。
2曲歌っている中の1曲「 L'œillet blanc 」は
レクリューズの共同経営者の一人Brigitte Sabouraud
作詞・作曲の作品である。
先に紹介した
Christian MesnilのFilm「Les Chemin de Barbara」
では多くの人が顔出しでインタビューに応じている。
Les Amis de Barbaraにはそれらを文字化した資料も多い。
今回のこのCDを軸にしたBarbaraのBruxelles時代を
Music Cross Talkに記事化したいと思っているが
資料が多くて資料の読み込みに時間を要するので
書き始めるのは再び枯葉の散る頃になりそうだ。

・・・・・
この記事はBlog Correspondances(2008年02月15日),にBruxellesが記入したものをこちらに移動したものです。

L’atelier: Bruxelles 1954 (1)

Jacques 1


≪ BARBARA A L’ATELIER. BRUXELLES 1954 ≫
Un livre-disque comprenant un livret de 32
pages illustrees et un CD de 14 titres enregistres
lors d’une repetition de 1954. La plus ancienne
archive sonore connue de Barbara.
Sortie le 9 novembre

写真の人物はJacques Vynckierという。BarbaraがClaude Sluysと結婚していたBruxelles時代、二人はよくこのJacques Vynckierの家で食事した。BarbaraがMarianne OswaldやEdith Piafの曲と出会って、彼女の歌の世界を少しずつ広げていったのは、このJacquesの家でだった。ベルギーに来たころのBarbaraにはレパートリーも1,2曲しかなかった。
Barbaraは画家のMarcel Hastirのアトリエで1954年小さなコンサートを開いた。1954年10月1日のそのコンサートのリハーサルの模様をこのJacquesが密かに録音していた。半世紀以上たった今、そのJacquesの秘蔵録音が今回CDとなる。
14曲入りのCDと小さな32頁の書物がついて17ユーロ、11月9日発売になる。
表紙のBarbara,1954年,ふっくら顔のBarbara
勿論、Barbaraの音声記録としては、最古のものである。

前頁に書いている、Monsieur MurataにParisで
買ってきていただいた本の中には、Ethery RouchadzeとBarbaraとこのJacques Vynckierが三人仲良く微笑んでいる1953年の写真が掲載されている。Barbara同様、言うまでもなくこのJacques Vynckier氏も上の写真とは違って物凄く若い。

・・・・・

この記事はBlog Correspondances(2007年11月06日),にBruxellesが記入したものをこちらに移動したものです。


Barbara初来日

Barbara初来日の第一回国際歌謡音楽祭の記事を発見しました。
ざっと見て1970年がどんなに昔かということがよくわかる。
Barbaraは21日のショータイムに出演している。同日の出演はほかにイタリア人のGianni Nazaro,そしてなんとザ・ピーナッツ。ヤマハの
貴重な記事をご覧ください。
グランプリはHedva and Davidの「ナオミの夢これは大ヒットした。


・・・・・追記 2008年6月19日・・・・
上の記事は2005年7月26日の記事としてCorrespondancesに編入したものだが、もともとはそれ以前にPLANETE BARBARAに書き込んだもの。覚えている方はほとんどいないと思うので再録してみた。
場所は日本武道館大ホール
このときBarbaraは3曲ほど歌ったという記録があるのだが、タイトルは何だったのだろうか。葦原英了氏がこのときの様子を書き留めておられる。「長身と鋭角な顔に物を言わせて」という表現が強く印象に残っている。「堂々と歌い、1万人以上の聴衆をうならせてしまった」とある。葦原英了氏の「シャンソンの手帖」(1985年3月31日発行)によると同じ日の晩、IBM主催のリサイタルが読売講堂で行われている。ここでは30曲以上も歌ったとある。彼女の魅力にすっかり捉えられてしまった。全聴衆がそうだったと言える。と書いておられる。その30曲あまりはどんな曲であったのだろうか?もしこの時の録音があれば、今のBarbaraの勢いからすればすぐにでもCD化は可能だろう。


・・・・・・・・・・
ナオミの夢」 Hedva ve-David
この第一回大会にフランスからはFrida BoccaraHerbert Leonardが参加している。これだけの歌手を世界中から集める力が日本にあったのは、おそらく1970年の万博の勢いに違いない。
/////////

これはBlog Correspondancesの2008年6月19日の記事をこちらに移転したものです。

Sophie Makhno (=Francoise Lo)

Sophie Makhno

上の写真はとても若い1967年の Sophie MakhnoとRicet Barrier。Ricet BarrierもL'Ecluseの歌手だったので、5 septembre 2009のFrance Musiqueの番組Les Greniers de la mémoireの「Au cabaret de L'Ecluse」に登場して「La Servante du château」を歌っている。(既に紹介済み)
・・・・・・・・・

はじめの頃さんざん紹介した、Sophie MakhnoことFrancoise Loの動画がYou Tubeに登場している。ちょっとした発言がBarbaraの遺族の逆鱗に触れ、責任をとってLes amis de Barbaraを自分からやめていったこともあった。数年前に亡くなっている。
Barbaraの秘書としても最高の働きをし、その後も自ら歌手にもなり、プロデューサーにもなり、そしてBarbara時代から引き続き作詞家としても、いずれの分野においても大成した。Barbaraの伝記には欠くことのできない存在である。
Sophie Makhno "Un Gros Calin" Discorama 07/11/1971
私の記憶ではこの人は来日もしている。日本では、Barbara関連と言うより、Piafを失った後一時霞んでしまったCharles Dumontを再生させた存在としての方が、関係者には知られているかもしれない。歌手としてのCharles Dumont最大のヒット曲「Ta Cigarette Apres l'Amour」をDumontに提供したのが彼女である。
Sophie Makhno自らがYou Tubeで「Ta Cigarette Apres l'Amour」を歌っている。それが彼女の死後にこうして日本で見られるなんて、物凄い時代になったものだ。Charles Dumontの歌うものも、勿論探し出した。
Ta Cigarette Apres l'Amour:Sophie Makhno 1980
Ta Cigarette Apres l'Amour: Charles Dumont

参照: Music Cross Talk
Sophie Makhno (=Francoise Lo): Barbara関連
参照:Toi Le Poete
Ta Cigarette Apres l'amour: 歌詞和訳 
参照 : Correspondances過去記事
No.1
Barbara et Charles Dumont
No.2 Ta cigarette apres l'amour:
No.3 Ta cigarette apres l'amour :
No.4 Quel Joli Temps:
No.5 Monsieur H... : Les Amis de Barbara:

L'Ecluse-6 : Marc et Andre (未完)

L'Ecluse-6

Planete Barbara過去記事: L'Ecluse (1)
Planete Barbara
過去記事: L'Ecluse (2)
André SchlesserとMarc Chevalier はMarc et Andreという二人組みで活躍した。まず彼らの「Trois petites notes de musique」を。
Marc Et Andre のChansons de l'ecluseというアルバムは2007年にCD化されている。信じられないほど有り難いことに40曲全部聞ける。こちらがDeezer.comのMarc et Andreの元サイト。
上の写真はL'ECLUSEでなくコクトーの映画オルフェ」(1950)ではないかと怪訝に思われているかもしれない。この大女優Maria CasaresがAndré Schlesserの妻なのです。初めて知った時は吃驚しました。そしてAndré Schlesserには息子がいて名前をGilles Schlesserと言い「左岸のキャバレー」(PODIUMにリンク)という本を書いています。PODIUMの本の紹介の中にAndré SchlesserとBarbaraのことを書いています。


L'Ecluse-5 et Leo Noel 

L'Ecluse-5

Music Cross Talk過去記事
現在のL'Ecluseの内部でBarbaraを語る濃厚な人たち
(4,5,6場面にMarc Chevalier 氏が登場している)

Leo Noël et son orgue de barbarie - trois chansons
L'Ecluseの共同経営者の一人で、司会者でもあった Léo Noëlは1966年に亡くなっている。彼の死とともに、L'Ecluseの人気にも時代的な陰りも見え始めた。ここでは50年代の曲を3曲歌っている。タイトルは」「
Sur le pont du Nord 」(Jacques Plante et Michael Felkermann作) 「Mon pot' le gitan 」(Jacques Verrières et Marc Heyral作:Yves Montand や Mouloudjiでヒットしたが、最初に歌ったのはBarbara)「 Tout le long des rues」(Robert L'Herbier作)。当時の78回転や45回転のレコードから。音源は Marc Chevalier氏の提供。 Léo Noël に関しては現在のところCD化されたものは存在しない。

Leo Noelが得意とした楽器 Orgue de Barbarie
手回しオルガンの音を聞いてみるペイジ。

Sous les ponts de Paris: Interprète-Léo Noël [1914-1966]
Compositeur : Vincent Scotto [1822-1947]
(Tino RossiでSous les ponts de Paris)
Leo Noelで特筆すべきは交通事故で瀕死の重傷を負ったSerge Lama の復帰に尽力したこと。その際Barbaraを含む多くの歌手や音楽関係者がSerge Lama の再起に協力した。

Léo Noël - Tout ça parce qu'au bois de Chaville
(Pierre Destailles et Claude Rollands作、1953年:Odette Laure, Jacques Pills, Henri Decker, Jean Lumière, Caroline Cler, Luc Barneyらに歌われて大ヒットした。)
 「Tout ça parce qu'au bois de Chaville」を
作詞者のPierre Destaillesで、聞く。

Léo Noëlは戦前から歌っていた。Francis Lemarqueは兄弟のMaurice Lemarqueとコンビで歌っていたがMauriceが抜けてLéo Noëlと入れかわった。従ってLéo Noëlは1938年1939年とFrancis Lemarqueと二人組みだった。戦後手回しオルガンで歌うようになり、それらしい独自のファッションを確立した。いわゆる街角のシャンソン歌手のスタイル。Agnès Capriの店やLapin AgileでMac Orlan, Charles Trénet, Kurt Weil, Kosma等の作品を歌った。1951年のL'Ecluseオープンから彼の死の1966年まで経営者歌手兼司会者としてL'Ecluseの雰囲気、左岸のシャンソニエらしき雰囲気をこのLéo Noëlが作り出したともいえるだろう。すでにLéo Noëlで5曲聞かれたと思うが、さすがに古きよきParisが立ち昇ってくるような暖かな歌唱である。


//////////////


この歌手もL'Ecluseでデビューした。Barbaraが去った後誰も手を触れなかったL'EcluseのPianoに最初に触れたのがMarie Paule Belleだった。
36年前のMarie Paule Belle,さすがに大変若い!
Marie Paule Belle,TV初出演。数年前に来日した彼女を思い出される方も多いだろう。すでにBarbaraの妹のような雰囲気がある。
Wolfgang et moi - Nosferatu - télévision 1973

こちらは1964年のBarbara
Barbara chante Trenet - J'ai ta main
Enrégistrée pour l'emission 'Deux par deux',
le 2ième avril 1964.


L'Ecluse-4 et Brigitte Sabouraud

L'Ecluse-4
L'Ecluseは1951年Brigitte Sabouraud (1922-2002), André Schlesser, Marc Chevalier , Léo Noëlの4人のArtistsの共同経営でスタートした。ここではBrigitte Sabouraud の曲を2曲本人が1曲をBarbaraが歌っている。Brigitte Sabouraud はアコーディオンの弾き語りをする歌手であり作詞作曲家でもある。Babarの創造者であるJean de Brunhoff の姪。Suzy Solidorの店でデビューしている。
1曲目は"La marchande de fleurs"(L'Ecluse 1958)
2曲目は"Complainte d'une jeune nonne contre son coeur"
(L'Ecluse 1958)いつか紹介したことのあるYvonne Schmitt がピアノで参加している。
3曲目は"L'œillet rouge"
 Jack SayのオーケストラをバックにBrigitte Sabouraud の曲をBarbaraが歌っている。録音は1954年10月、1昨年Les amis de Barbaraが実現させた例の l'Atelier de Bruxelles における無名のBarbaraの初コンサートから。(3曲全部で8分23秒)
最初の2曲は1998年CD化されたCD "Un soir à l'Ecluse"に収録されている。

Brigitte Sabouraud et Barbara
chantent Brigitte Sabouraud 


Claude Vinciの証言 (3)

Claude Vinci (3)


(2) Gottingen
RemusatのBarbaraの家にはよく行った。彼女は僕にGottingenを歌わせたかったんだ。La Mouffでの僕の最初のリサイタルでGottingenを歌った。その頃Barbaraは他の歌手に曲を与えていたんだ。たとえば、Jean-Claude Pascalとか、Cora Vaucaireとか。65年にChant du Mondeからレコードを出す時、僕はGottingenを入れるつもりだった。BarbaraとFrancoise Loがダメだと言ってきたんだ。Barbaraが録音するから、録音はBarbaraだけがしたほうが良いからと。
でも今、CDの話があって、そこにGottingenが入るかもしれない。
そう、そうなんだ、BarbaraもFrancoise Loも僕に歌えといったのは、僕がレジスタンスの活動家だったから。初めの彼女らの提案には、そういう根拠がちゃんとあったんだよ。
僕の新しいCD?おそらくEPMから出ると思う。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


BarbaraとFrancoise Loからの反対が無ければClaude VinciはCora Vaucaireが「Dis quand reviendras-tu?」でそうであったように「Gottingen」を歌った最初の歌手になっていただろう。最初歌わせておいて、途中からレコード収録はダメ、なんてBarbaraの中に川内康範が入り込んでいたのか?


 参照:「Music cross talk」 : Gottingen :

「Gottingen」は最初はGottingenのCMソングかと思われたくらいに評判は良くなかった。じわじわと評判が高まった曲だ。そのあたりがひとつの原因かもしれないが、決定的な理由は、1964年にClaude VinciのPhilipsとの契約が切れて、65年になっても更新されなかったためだと思われる。Barbaraの中に川内康範が入り込んでいたわけではない。
L'EcluseをやめてからのClaude VinciのエージェントはFrancoise LoとNadine Laikで、同じ時期にBarbaraと両者を共有している。
CBSで「Barbara chante Brassens」「Barbara chante Brel」を出したBarbaraがClaude Dejacquesに連れられてPhilipsにやってきたのはClaude Vinciが1963年にPhilipsから最初のアルバム「Eluard」を出した、少し後だ。Claude VinciもPhilipsでは「Dejacquesのチーム」の一員となり、BarbaraとClaude Vinciは、一時ほとんど同一家族のような身近さにいたことが窺がえる。
彼の最初のアルバムが「Eluard」であったことは注目に値する。Barbaraのあの美しい「Printemps」もEluardの詩作品だ。Claude VinciはEluardを直接知っていたから、その作品の紹介があったのかも知れない。


Eluardについて:
社会思想社刊,現代教養文庫,「帰ろう愛の天使たち」から引用
ー僕はといえば、エリュアールよりブルトンが好きだ。ハハンなんて知る人はすぐに気づくと思うけど、今まで書いた僕の体質の嗜好から何故かは明白だと思うーp.207
「シュールレアリズム宣言」を書いたブルトンの極めて身近にいたエリュアール。内的探求の思考に向かったブルトンと社会的政治思想に向かったエリュアールとは、後に袂を分かつ。Claude VinciとBrabaraが後に疎遠になったのも、似たような経緯があったのではないだろうか。

もっと非文学的に言えば、60年代後半のYeYeの到来と共に、ベビーブーマーの到来と共に、左に傾いていた社会思想そのものが、大衆化し、同時に実は政治色を亡くし、気づかぬままに、大きく変質していったのだ。
憧れと理念の喪失から、行動と幻滅とを経て、ソ連の崩壊にまで到る流れの中で「こんな筈ではなかった」Claude Vinciはずっと浦島太郎のままだったのではないだろうか。(「ハートは左、財布は右」のフランス人の中にあって、それはClaude Vinciの潔癖さに由来することを忘れないでおきたい)


(注):上の写真向かって左がPaul Éluard、右がAndré Breton。Surrealismeの元祖だったお二人。

これはCorrespondances 2008年4月29日の記事をこちらに移動したものです。(Bruxelles記)

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