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Dalida 丸裸 (1)

なんだかスキャンダラスなタイトルをつけてしまった。たまには週刊誌的な内容の記事を書きなぐってみたくなった。読んだ後すぐに忘れてくだされば、Dalidaも許してくれるだろう。えぇ?第一日本語は読めないって?
とにかく偉大な歌手である。生涯七か国語で歌い、2000曲近くを録音している。
"Bambino","Come Prima","Gondolier","Les enfants du Pirée","Gigi l'Amoroso",子供の頃からずっと聞いていたような気がする。


"Il venait d'avoir 18 ans":この曲私はドーナツ盤で持っていて、歌う練習もした。A面がフランス語、B面はDalidaが日本語で歌っていた。本国では"Gigi l'Amoroso"のB面で1973年に出た。以前にも書いたが、Pascal Sevran作詞である。Pascal Sevran同様Dalidaにとっても、忘れられない曲となった。1967年、Dalidaは18歳の学生の子どもを身籠った。堕胎を決意したが、フランスでは法的に禁止されている。イタリアまで行き手術を受けたが、子供の産めない体になってしまった。この事実を知ればあの歌の解釈が違ってくるような気がする。


1987年5月2日から3日にかけての夜、「人生は耐え難い。許してください」という有名な遺書をファンにあてて、自殺した。遺書はあと2通あって、一通はマネージャーで弟でもあるOrlandoに、もう一通はFrançois Naudy氏にあてたものだった。そう言えば、この夜彼女は恋人の到着を待っていたのだが、彼は来なかった。その恋人がFrançois Naudy氏であったのかどうか、後で調べることにする。
調査結果:1985年に知り合った医者、次第に遠のきつつあった最後の恋人、待ちくたびれて、耐えられなくて薬を飲んだ。何日も考えあぐねた末だったのか、発作的な死への誘惑に駆られたのかはわからない。遺書の言葉から判断すると原因は前の方だと思われる。下に二人の楽しそうな写真)


"J'attendrai":Rina Kettyのこの曲をDalidaはdisco風にしてリバイバルさせた。弟のOrlandoのアイデアだった。他に"Besame Muchoなど40年代の古い曲を全部disco風にして歌った。私はこの時期のDalidaにはウンザリだ。Dalida自身はどうだったのだろう。売れ線を目指して、無理やり時流に乗るために弟に言いくるめられたと、勝手に思っていたのだが。


"Paroles, Paroles":Alain Delonとこの曲をデュエットしたのは1973年だ。この時期のAlain Delonはバリバリの世界的大スターで、この曲のヒットは初めから約束されたも同然だった。DalidaがAlain Delonを知ったのは1955年、rue Jean-Mermoz à Parisのアパルトマンに住んでいたAlain Delonはまだ無名で、DalidaもAlainにとっては単に、隣のアパルトマンの住人に過ぎなかった。因みにAlainの最初の映画出演は1957年、Dalidaの最初のレコードは1956年である。なんか、いい話でしょう?後に大スターになる無名の若い男女が隣同士に住んでいたなんて。

上の写真はDalidaが1976年Porto-Vecchioに立てた6部屋プール付きの豪華別荘。家族や友人たちと楽しいひと時を過ごしたのだろう。建設は自殺の11年前である。人生の何が耐え難かったのだろう?等と思うのはひとり増えてもひとり減ってもわからないような庶民の庶民的感性、ということか。

Orlando, 姉Dalidaを語る

来年公開されるDalidaの自伝映画でDalidaを
演じるのは、Nadia Farès。

こちらは2005年Dalidaを自伝TV映画で演じた

Sabrina Ferilli。     ↑
ルイジ・テンコと共演した問題のサンレモ音楽祭の場面
ルシアン・モリスと出会った場面 初めは髪の毛黒かった:
・・・・・・・・・・
Film de l'exposition DALIDA UNE VIE à la Mairie de Paris 2007 partie 1
Film de l'exposition DALIDA UNE VIE à la Mairie de Paris 2007 partie 2
Film de l'exposition DALIDA UNE VIE à la Mairie de Paris 2007 partie 3


・・・・・・・・・・
Dalida - Emission spéciale ( partie 1 )
Dalida - Emission spéciale ( partie 2 )
Dalida - Emission spéciale ( partie 3 )
Dalida - Emission spéciale ( partie 4 )
Dalida - Emission spéciale ( partie 5 )

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Dalida 丸裸 (2)


上の写真はMontmartreのDalidaの家、1962年から
亡くなるまで(自殺)ここに住んでいた。↑


Dalidaの曲で好きなものを挙げると4,50曲を下らない。どうしても外せないものでも軽く2,30曲を超える。そこを清水の舞台から飛び降りて3曲に絞ると私の場合は以下の曲となる。

DALIDA. Il pleut sur Bruxelles
DALIDA Mein lieber Herr
Dalida - Voila pourquoi je chante

JA2 20H : EMISSION DU 04 MAI 1987
亡くなった翌日のTVの特別番組 NEWSの後

Dalida En Memoire 3 Videos

最初の結婚はLucien Morisse
スターに育ててくれた恩人でもあり愛し合って結婚したのだが
結果的にはDalidaがLucien Morisse を捨て
当時画家であったJean Sobieskiに走った。
Jean SobieskiとDaliadaのことは写真を出して以前に書いたことがある。
確かに美男子でDalidaを満たす術も知っていてそして
そのための自由な時間も持っていた。
1961年から1963年まで生活を分かち合った。
Dalidaと関わった男性で珍しく自殺しなかった男として記憶されている。
Jean Sobieski  et  Daliada ↓



Moi La Chanteuseの過去記事でも
Correspondancesの最近の記事でも

Mike Brant(25/04/1975 自殺)を書きながら、Dalidaとのことを
忘れていた。二人は短い関係であったが(1969年)
恋人同士であった。シルビー・バルタンにテヘランで発見され
フランスにやってきたイスラエル人のMike Brant、は
フランスシャンソン界でまずDalidaの愛を得たのだった。
お互いフランス語を母国語としない異邦人である。
そう言えばJean Sobieskiもポーランド人であった。



サンレモで自殺したLuigi TencoとDalidaは結婚を約束していた。
Luigi Tenco et Dalida : le drame de San Remo
才能もスリルもあり女性を痺れさせる要素を充分に備えた
なるほど魅力的な男性である。何故自らの頭をピストルの弾で
打ち砕いたのだろう(26/01/1967 自殺)?
1か月後の同年2月26日、Dalidaが
後追い自殺
試みた気持ちは手に取るように理解できる。
死に損なった絶望のDalidaを見舞い励ましてくれたのは
最初の夫Lucien Morisseだった。二人は
1956年から1961年まで5年間婚姻関係にあった。
死の淵に横たわるDalidaに再び生きる気力を
与えたLucien Morisseも3年後(11/09/1970)に
自ら命を絶った。
なおこのLucien MorisseはDalidaをスターにした
だけでなく、じつはBarbaraのキャリアにとっても
かけがえのない存在であった。そしてこの際言ってしまうと
Barbaraの人生を彩った男性でもある。

今朝目を覚まして、昔(8年前)記事にしたDalidaのある言葉を
思い出した。さすが恋愛の名人である。
なかなか凡人には気づかない言語上の発見でもある。
参照:Music Cross Talk 過去記事


(つづく)

Dalida 丸裸 (3)

Place Dalida - Montmartre - 1997


Dalida & RICHARD CHANFRAY
(Et de l'amour..de l'amour)
私生活ではこの年、リシャール・ド・サン・ジェルマン(リシャール・シャンフレ)と名乗る錬金術師まがいの人物が彼女の生活に入り込んでくる。と
薮内久氏の「シャンソンのアーティストたち」には書いてあった。以来ずっと「錬金術師まがい」とはどういう意味だろうとこの人物には興味を持っていた。
Richard Chanfray Wikipedia
子供の頃からそしてDalidaと付き合ってからも刑務所体験があり、「錬金術師まがい」と言うほかはない人物のようだ。鉛を金に変えたり、マインド・リーディングをしたり、ある種の魔術師なのだが、本人は
サンジェルマン伯爵と名乗っている。サンジェルマン伯爵は伝説的な人物で、日本で言うと永遠の命を持つ弓削道鏡か、はたまた時と空間を自在に動ける役行者その人だと名乗り出てくるようなものだろうか?実際DalidaとDalidaの家族を信用させるに充分な魔術が出来たようだ。
この時点(1972年)ですでにLucien MorisseやLuigi Tencoに自殺され、しかも堕胎手術の失敗で子供の産めない体になっているDalidaにしてみれば、これくらい強烈に現実乖離している男でないと、自分を委ねることは出来なくなっていただろうと思われる。80年に二人の関係は終わりを迎え彼は彼女のもとを去る。しかし考えてみれば一番長く続いた恋人であり、もしかしたら、最も必要とした恋の高揚を存分に与えてくれる最後の男性だったと言えるかもしれない。Dalidaと別れて3年後に
Richard Chanfrayは自分に似たような新しい女を道連れにして自殺する。Dalidaと愛の日々を体験した男性、3人目の自殺者である。
(1975年に飛び降り自殺したMike Brantを数えると4人目。但しLuigi Tencoを除けば、皆別れて数年後の自殺であり、恋が燃え上がった真っ最中に一人で死んだのはLuigi Tencoのみである。Luigiはその遺書に於いてDalidaには一切触れていない。Luigiの自殺はDalidaにとっても不信を伴う謎だっただろう。しかも自分の目で彼の死体を発見したショックはいかばかりだったろうか)

Richardと別れた翌年Dalidaはオランピアでデビュー25周年記念リサイタルを行い華々しい余力を示したが、Richardまでもが自殺した年あたりからは、自分を支えきれなくなって苦しんでいたのかもしれない。自らの薬物自殺はその4年後である。

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Dalida. Biographie-1
Dalida. Biographie-2
Dalida. Biographie-3
Dalida. Biographie-4
Dalida. Biographie-5
Dalida. Biographie-6
Dalida. Biographie-7

DALIDA Pour toujours-1
DALIDA Pour toujours-2
DALIDA Pour toujoursー3
DALIDA Pour toujours-4
DALIDA Pour toujours-5
DALIDA Pour toujours-6
DALIDA Pour toujours-7
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étérnelle dalida
Décembre 1967 : Enceinte d'un étudiant romain Claudio agé de 22 ans, elle décidera d'avorter mais l'opération échoue et la condamne à n'avoir plus jamais d'enfant.

Dalidaの映画を見ていたら、彼女を妊娠させた「18歳の彼」の名前がわかった。上のサイトの引用にも書いてあるが、名前はClaudio,イタリア人の学生、出会ったときは18歳だったのか、上のサイトの記事によると、妊娠当時は相手は22歳と書かれている。上のfilmにはClaudioも登場したが、なかなかの美男子。うまい具合にそういうfilmがあったのか、俳優が演じているのかはわからない。Dalidaの映画の中に登場するClaudio(俳優)とは別人。
追記:ルイジ・テンコが亡くなったのが1967年、ClaudioはボロボロになったDalidaの心に若さゆえの強引さで飛び込んできたのだから、出会った年に妊娠したことになる。従って18歳は曲のプロモーション用の話で、実際は22歳であったのだろう。
追記:思い出した。この曲の作詞家の
Pascal Sevranの生涯の恋人、Pascalがその恋人に出会ったのが相手の少年18歳、つまり「18歳の彼
」の18歳は作詞家の実人生のお話だったと、判断したほうがよさそうだ。
(ややこしいのだが、作詞は18歳の彼に、実際に出会う前に書かれている。Pascal Sevranをクリックすると、Pascalが生涯愛し続けた「彼」の歌うシーンへのリンクもあるし、幸せそうな二人の写真もある)

Dalida 「18歳の彼」 & カラオケ
思い出した。これも当時買いました、聞きました。
若くて知らない人にはお勧めです。
18歳の彼(岩下志麻):

Dalida 丸裸 (4) 

disparition de dalida (05/1987) :

Dalidaが驚異的数のヒットを飛ばしたのは
一国に拘束されない身にまとったその国際性
具体的に言うとエジプトとイタリアにあると思う。
歌手にとっての恋愛は政治家にとっての票
実業家にとっての仕入れのようなもので(?)
恋なくして何の人生かな
実人生にドラマなくして歌など歌えるわけがない。
実人生は破綻していた、などとは言わせない。これでいいのだ。




Mina & A. Lupo _ Parole parole _ Live 1972:
Dalida & Alain Delon - Paroles, paroles
中村晃子 細川俊之 / あまい囁き(1973) :
ダリダとドロンの関係、気になるところだと思うが
2007年にドロンが告白している。1960年ローマでたまたま二人とも
それぞれ別の映画の撮影があって再会
短い期間ではあったけれど激しく情熱的な男と女だったことがあったと。
60年と言えば二人はまだ若い、しかも昔からの知り合いである。
美男美女、そうならないほうがおかしい。

今回私が一番驚いたのはこの関係だ。↓
友情だったとも言われているが(言い訳が必要だったということ)
そういうのに限って出来ている。まさかの関係。



誰だかわかるだろうか?
この男、Francoise Saganの身も心もとらえていた。


闘争する男、男の権力は女にとって
やはり計り知れない魅力となりえるのだろうか?
これらの関係に関しては写真だけでなく証言も多い。
1981年Barbaraも赤いバラを手にして
この人の元に駆けつけた。
自作の素晴らしい曲まで捧げている
BARBARA - Regarde
Mitterrandはある時期対独協力者だった過去まで
暴露されているのだが、Barbaraにとって、そんなことは
「Et Alors」だったのかもしれない。
フランスの被占領期の歴史解釈は日本と同じで簡単ではない。
参照・過去記事:Du Soleil Levant : Mitterrand et Barbara:

・・・・・追記:2012年6月26日・・・・・
タイトル「Dalida丸裸」に因んで
仰天の丸裸Artを紹介します。
笑っちゃいます?それとも?
Spencer Tunick: Installation  :

Dalida 丸裸 (5)


そう言えば、エジプトの南部、ナイル河の近くにこういう観光客用のロバ(仔馬?)がいた。場所・年代の特定はできないが、エジプトを外国人として楽しんでいるDalida。.

Dalidaの男たちー追記


Christian de La Mazière

Après sa rupture avec Jean Sobieski, Dalida connut Christian de La Mazière (décédé en 2006), journaliste au passé trouble - il avait combattu dans les Waffen SS, alors âgé de 17 ans - leur histoire prenant fin en 1966, il resta un ami fidèle pour la chanteuse.

Dalida enjoyed Christian de La Maziere (d. 2006), a journalist with a troubled past - he had fought in the Waffen SS, who was 17 years old - their story ending in 1966, he remained a faithful friend for the singer.
時期的にはJean Sobieskiとの破局の後に現れた男性で、1966年に破局。しかし生涯友情が続いたと記されている。出会ったときはjournaliste であったが、ヒトラーの武装親衛隊員であった過去を持つ。この過去は重い。
Christian de La Mazière : wikipedia
Interview de Christian de La Mazière :
Christian de la Mazière - Gallic Shrug Olympian :
フランス人であるにも関わらずSS隊員であったということは
ナチス末期、有無を言わさず強制入隊させられたのだろうか?
末期のナチスの隊員として戦い
ポーランドで捕虜になる。その後ロシアに引き渡され
またしても捕虜。フランスに帰国後は
裁判にかけられ売国者として刑務所生活をおくった。
Marcel Ophulsのドキュメンタリー映画
「 The Sorrow and the Pity」に登場して
当時の自分の果たした役割について語っている。
また自身「The captive dreamer」と言う本を書いて
Fresnesの刑務所生活を含めた戦後の時代そのものを
自らの手で明らかにしているらしい。(未読)
(日本にはこのあたりを理解できるだけの研究はない。)
戦争に負けるということは、戦勝国の命令に従わなければ
ならない。意思に関わらずナチスとして戦ったフランス人も多い。
Christianは幸運が重なって辛うじて処刑を免れた。
後にアフリカのトーゴの政治に深くかかわった。
敗戦国イタリア人のダリダにはこのフランス人
が理解できたのかもしれない。
このあたりの理解が困難な原因は一言で言うと
ファシスト、共産主義、社会主義などの言葉の意味するものと
その実態が乖離しすぎていることに原因がある。
ファシズム対コミュニズムとして対極に置くことも
今となってはそもそもの間違いである。
参照:国家社会主義ドイツ労働者党について
参照:ナチス・ドイツ 隠された真実

DalidaはJean Sobieskiにないずば抜けた知性
と拭い去らなければならなかったChristianの
暗い過去を愛したのではないだろうか。
Dalidaと出会った頃の彼は芸能界にすでに充分な名声を
築いた、歌手の女友達もたくさんいる、実力派Journalistであった。

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参照:詩集「2N世代」
The sorrow and the pity by Marcel Ophuls
この映画に登場するChristian de La Maziereに関しては
以下のように簡単に紹介されている。
French aristocrat and former Nazi Christian de la Mazière is also engaging as he frankly answers all of André Harris’squestions and discusses his past political choices and involvement with the Waffen S.S. with
impressive clarity.
この映画は1969年に制作されている。1968年5月がなかったらおそらく誕生しえなかったdocumentaryではないだろうか。何故ならそれまでフランスは過去をそうでありたいように捏造してきたからだ。ある種の人たちを英雄とし、ある種の人たちを裏切り者として、それこそ国体維持のために(国としての誇りを失わないために)まやかしの裁判官となって、真実の歴史を追求しようと一切してこなかったからだ。
このあたりははっきり言って日本人には手が出ない難解さである。フランス史に興味のある方は上記をクリックして、とりあえず入口の隙間から中を覗いてみては、いかがでしょうか。
参照:入口の隙間:ここからが一番見やすい
吃驚するような一行はこれだ↓
In fact, in the first section, one of the interview subjects says flat out that anti-Semitism became a point of agreement between many Frenchmen and Germans.
・・・
This film was first shown on French television in 1981 after being banned for years. It is frequently assumed that the reason was French reluctance to admit the facts of French history. While this may have been a factor, the principal mover in the decision was Simone Veil, a Jewish inmate of Auschwitz who became a minister and the first President of the European Parliament, on the grounds that the film presented too one-sided a view.
このfilmはTV放映用に制作されたものであるが、放映が禁止されていて、フランスのTVで最初に放送されたのは、1981年。ユダヤ人であるSimone Veilが内容に偏りがあるとして放送を許可しなかったためだとも言われている。



Dalida 丸裸 (6) 



Dalidaの男たちー追記 : Arnaud Desjardins


Moreover, Dalida lived with philosopher Arnaud Desjardins between 1969 and 1971, but this being married, they chose to end the connection.
Par ailleurs, Dalida vécut avec la philosophe Arnaud Desjardins entre 1969 et 1971, mais celui-ci étant marié, ils préfèrèrent mettre fin à cette liaison.
先のChristian de La Mazièreも、戦後フランス史にはまり込んで非常に苦労したけれども、今回も負けず劣らず、手ごたえがありすぎて、軽く触るだけでも七転八倒。Arnaud Desjardins は東洋の宗教哲学を最初にフランスにfilmと実践で紹介した、フランスを代表する東洋宗教哲学者のようだ。東洋宗教哲学そのものよりも東洋宗教哲学がフランス人にはどう見えるのか、そこにむしろ興味を抱いたのだが、そんなことに気を取られていては、いつまでたってもDalidaに行き着かないない。相手が既婚者だったので、話し合いの末別れた、と上には書いてあるが、この妻までが大変な人物で、Dalidaが結局は身を引かざるを得なかったのもよくわかる。深い宗教哲学世界に導かれはしても、二人の強烈に同調する形而上世界に、歌手であるDalidaはやはり割り込めずはじき出された、そんな印象を持った。


Arnaud Desjardins et Dalida ↑

♪ Dalida : S'aimer, pour te dire je t'aime: ♪

Arnaud Desjardins - Récit d'un itinéraire spirituel 1-2
Arnaud Desjardins - Récit d'un itinéraire spirituel 2-2
Rencontre avec Arnaud Desjardins 1/2
Rencontre avec Arnaud Desjardins 2/2
Arnaud DESJARDINS :これが一番わかりやすいかもしれない。
Dalida, une vie brûlée:Une vie de gloire et de drames, restituée grâce aux témoignages inédits d'Arnaud Desjardins, son amour secret, qui lui fit découvrir la philosophie de l'Inde...


Dalida en Inde avec ARNAUD DESJARDINS

Dalidaもこのようにインドに行き、実際仏教やヒンズー教
の聖者や修行者にも会っていたようだ。
「聖なる予言」で精神世界に入った人も多いと思うが
Dalidaはその一世代前に「インドの不思議」をフランス最高の
宗教哲学者に導かれて精神世界を深く体験していたことになる。
これがDalidaかと思えるほどshow businessの世界を離れて
完全に素の、あるがままの彼女がここにいる。

ARNAUD DESJARDINS
The Message of the Tibetans 1.- Buddhism
The Message of the Tibetans 2 - Tantrism
ZEN Japon -1 Arnaud Desjardins
ZEN Japon - 2 Arnaud Desjardins
DALIDA et Arnaud DESJARDINS - interwiew
DALIDA et Arnaud DESJARDINS (suite)

Dalida 丸裸 (7) 未完

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Dalida et Mitérrand (éléction présidentiel) 1981
・・・・・・・・・・・・
♪ MONTMATRE 2012  & Dalida - Bravo  ♪
 Dalida - Les hommes de ma vie (私の人生の男たち)♪
Dalida et Julio Iglesias : La Vie en Rose
Après sa rupture avec Richard Chanfray, Dalida aura dans sa vie Bertrand Bidault, un assistant ingénieur du son, puis un certain Max, avocat, durant l'année 1982, puis Karim Allaoui, un pilote de ligne égyptien, en 1983-1984. Enfin, au moment de son décès, Dalida avait pour compagnon François Naudy, un médecin, rencontré en 1985.
Dalidaの男たちー追記:といきたいところだが、弁護士、パイロット、医者などなど肩書が揃うけれども、深く刺激を受けるものではなかったようだ。年齢的にもRichard Chanfrayが恋愛的な意味合いに於いては最後の男性とみていいだろう。
まさに恋に生きたDalidaだけれども、その心を覗くと次の歌が一番ぴったりと来るような気がする。
Dalida "Pour Ne Pas Vivre Seul"
一人で生きないために

・・・・・・・・・・
Dalidaを書くときに忘れてはならない男性がもう一人いる。
ずっと寄り添いDalidaを支え続けてきた、Bruno Gigliotti
Dalidaの弟である。エジプトにいるときはヒット曲もある歌手
だった。Parisに来てからは歌手を諦め、姉Dalidaの
プロデューサー兼マネージャー、会社にしてからは社長である。
歌手時代のこの弟のhit曲であるが、聞いて驚く懐かしい曲であった。日本でも坂本九で大hitした。その時代に子供だった日本人ならおそらく誰でも歌えるだろう。
♪ ORLANDO_ Ya Mustapha_ 1962.♪
ダニー飯田とパラダイス・キング:坂本九
映画「悲しき60歳」
Orlando(Bruno)のLPの他の曲も懐かしい。
藤木孝 24000のキッス - YouTube
ビキニスタイルのお嬢さん:田代みどり
・・・・・・・・・・

Barbara - The Inner Voice of France

Barbara - The Inner Voice of France
という番組がなんとイギリスのBBC3で2011年の12月18日に放送されたという情報を、後の祭りでつかんだ。何時間もかけて放送の実際を探したのだけれど、すでに時遅し。
それで、なんとか文字情報でもと思って、あきらめずに探してみました。
BARBARA ?  a portrait by Norman Lebrecht on BBC radio
La Belle Dame Sans Publicite
Barbara Images from Lebrecht Music & Arts Photos:
Why is Nana Mouskouri on classical BBC Radio 3?
Barbara sur votre radio
Like Piaf, tragic
Barbara is the true voice of France
出演は
Valerie Lehoux、Jacques Attali, Marie Chaix,
Bernard Serf, Norman Lebrecht, Nana Mouskouri,
Roberto Alagna ,Martha Wainwright、Didier Millot
 という豪華メンバー。
BBCがBarbaraの特集を組むとは、見逃したことが残念!

その代わりと言っては何だが、前から探していた
音楽誌Chorusに掲載された
まだ駆け出しのBarbaraが大御所Marie Dubasを
病院に見舞う写真を入手した。こういうことが可能なのは
ユダヤ系つながりのフィクサーがシャンソン業界に存在した
ということだ。

//////////////

Barbaraに関する著作もある
Didier Millot 氏のBarbaraサイトをみていたら、
日本語が出てきた。この書き方は私だと直感した。
Music Cross Talkを調べると
同じ文章がそっくりみつかった。
「discographieがある」、と続くので「本には」で
正しい日本語なのだが、後ろをカットしているので
「に」が余分のおかしな日本語になっている。
Didier Millot氏の書いた「Barbara J'ai traverse la scene」
という本は全世界で発売されている
discographieがある。
(Didier,全世界で発売されてないよ。)

・・・・・以上は2012年2月29日・・・・・
・・・・・以下は2013年6月9日・・・・・
今頃になってコメントに気づいた。とても貴重な情報なのでTOPに上げることにした。情報有難う御座いました。残してくれたBBC3にも感謝。
素晴らしい放送だ。

・・・・・・・・・・・・

Francois Wertheimer plus BARBARA

habitrouge.jpg

Habit Rouge L'Eau de Guerlain - Making Of
・・・・・・・・・・・・

まず二人で歌うこの激しい愛の歌をおききください。
Barbara François Wertheimer - Je t'aime
Barbaraの特番「Top a Barbara」にゲスト出演したFrançois Wertheimer
こちらはMusic Cross Talk (PLANETE BARBARA)の過去記事に登場したFrançois Wertheimer :かなり早い時期にマークしていたことになる。
François Wertheimer : wikipedia

次にBARBARA論を書くとしたらFrançois Wertheimerをまず最初に取り上げようと考えてから、何もしないですでに5,6年が過ぎてしまった。François WertheimerとBARBARAの関係を浮かび上がらせたのはValerie Lehouxだった。Music Cross TalkにBARBARA論の下書きとしてとりあえず書いている。今回全く偶然だが、記事の中の間違いに気づいた。「Guerlainの服を、赤い服を僕のために買って、着させたんだよ」ではなくて、Barbaraが与えたのは「赤い服」という香水だった。訂正しておく。上の写真はその香水のCM写真、一番上のリンクはCMの撮影風景である。「Guerlainの服?」でちょっと引っかかったのだが、それもありかも、とスルーしてしまった。この本に書かれたFrancois Wertheimer とBarbaraの関係は、そう知れ渡ることもないだろうと何年も油断していたが、なんとFrancois Wertheimer のwikipediaが出来ていてその中で、1973年彼がBarbaraの愛人であったことがズバリ書かれている。「赤い服の男」というBarbara作詞の曲は別れたFrancois WertheimerにBarbaraが捧げた曲だということも今では公に分かっている、ということだ。勿論Francois Wertheimerのwikipediaを見る人はそう多くはないだろうし「赤い服の男」という曲自体ほとんど知られていないので、公とは言え、記憶の中にしまっている人はValerie Lehouxの本を熱心に読んだ人に今までは限定されていたことだろう。そうそう今年の夏の9回に渡るBarbaraの特番では、何回目の誰だかは忘れたが、「BarbaraがWertheimer を新居に誘拐した」と表現していて、少し驚いたのを思い出す。彼はBarbaraが誘拐するに値する才能を持つ若者で、彼の作品には難解だが音的にも美しく、重厚な詩的香りが漂う。並みの才能ではない。さらに驚くのはその詩を極限まで引き立てる本当に素晴らしい旋律をBarbaraがその詩に当てたことだ。どうすればこのような神業ができるのかと、驚嘆するしかない。愛の相乗作用が双方の秘めていた天才的神業を引き出したのではないだろうか。ただ日本人にとってはWertheimerの歌詞は詩的すぎて、言葉が豊穣で高級すぎて口の動きやイメージが捉えづらい。そもそも二人の愛の形、才能のぶつかり、高揚、激しさ、が日本人にはどうもわかりにくいのではないかとも思う。

L'enfant laboureur,Le Minotaure, Là bas,Les hautes mers,Marienbad ,La louve,Monsieur Capone,Ma maison,Je t'aime、どれをとっても完成度が高い。私の好きな曲を特に太字にした。レコードまたはCDをお持ちの方は、今夜お聞きになってはいかがでしょう。特別なBarbaraに出会えるかもしれません。

今日Francois Wertheimer を書こうと思ったのはDiscorama出演の以下のYou Tubeを見つけて、いろんなことを思い出したからでした。
Discorama avec François Wertheimer - Partie 01
Discorama avec François Wertheimer - Partie 02
Discorama avec François Wertheimer - Partie 03
Discorama avec François Wertheimer - Partie 04
以下は別のWertheimerのYou TUbe
Fenêtre sur : François Wertheimer 1 sur 2 
Fenêtre sur : François Wertheimer 2 sur 2
以下は別のWertheimerのYou Tube
Mi fugue mi raison: 詳細は不明
Part-1Part-2Part-3Part4Part-5Part-6,

最後にFrancois WertheimerのYou TubeまとめとValerie Lehouxがこしらえた最高に素晴らしいBarbaraサイトを紹介しておきます。

Barbara Chanson pour une Absente

Chanson pour une Absente、または Le 6 Novembreというこの曲はアルバム「La Louve-1974」に収録されている。1992年の13CD-Boxには「Musique pour une Absente」というタイトルに変更されている。歌詞がないのでそのほうがいいだろう。長い曲(4分53秒)なので、You Tubeに出るとは思わなかった。LPに付された永田文夫氏の解説によると
ー「居ない女のために」では、作曲法の秘密を打ち明けてくれる。ピアノに向かって情景を語るうち、心に浮かぶメロディーは、歌詞のない歌声となって流れだし、オーケストラを伴って、堂々と盛り上がっていく。ーと記述されている。
11月6日(1967年)は彼女の母、Ester Brodsky (またの名をMadeleine、家でBarbaraは「ユダヤ人の女の人」と呼んでいた)が62歳で亡くなった日である。したがってこれは「亡くなった母のために」というタイトルが最もふさわしい。EsterはモルダビのTiraspolで1905年に生まれBarbaraと同じ Bagneuxの墓地に眠っている。
Barbaraには2歳年上のJeanという優秀な兄がいて、母の愛(叔母の期待も)は兄にのみ注がれ、勉強嫌いのBarbaraは比較されからかわれ馬鹿にされ無視され、愛情をひたすら祖母に求めるしかなかった。祖母の死を予感したり、死んだ祖母を幻視したりするのはそのためである。また母に疎まれる悲しみの隙間に、父が優しさを装って彼女の心の空白を埋めるのである。彼女が端からあからさまな拒絶が出来なかった理由はここにある。あの日が始まるまで幼い彼女は父が大好きだったのである。時代が父Jacquesを不幸にしたこともまた事実だった。母Esterは最も不幸であった。だから、希望と夢のすべてを長男のJeanにかけたのだ。父JacquesはEsterの夫として、Jeanの父としても居場所をなくす。戦争が彼を家族から引き離したこともそれに輪をかけた。死んだ父の港湾労働者の仲間たちはBarbaraに言う。「自分のことはほとんどいわなかったが、上の娘のことは、よく言っていたよ。歌手になったって。TVを見て、あれが俺の娘だ、って言ったこともあるよ」...
父の死の連絡の電話を受けたBarbaraが、母に相談もせずに、書置きを残しただけで、たった一人でNantesに向かうことの説明はこれでつくだろう。歌にも歌われたように、この世を去る前にたったひとつ父が求めたものは「私の微笑」だと「私の許し」だと、Barbaraは確信していたのだ。既に死んだ父に対面したBarbaraは「あなたを許します」と伝えることが出来なかった。それが唯一かつ最大の後悔だとBarbaraは言う。
母Esterの夫Jacquesにとって、Barbaraは女であり、娘でもあった。人生の前半の大部分を共に暮らした母、最も不幸だった「ユダヤ人の女の人」に死なれて、娘としてその悲しみを母への愛を壮大なメロディーに表現し追悼することはできても、その感情はどうしても言葉には、歌詞にはならなかった。

「亡き母のために」 作曲 BARBARA:

・・・追記:2012年4月29日(上記は4月16日記入)・・・
この素晴らしい音付けは編曲はWilliam Shellerの手になる。
それからイントロでBarbaraがぶつぶつ言っているように聞こえる部分は
FrancoisのPassion Barbaraから書き起こしをお借りしてきた。
以下の如しである。
"Bon faites la cette chanson, oui. C'est si tu veux je voudrais moi c'est une chanson qui s'appellera Chanson pour une absente ou le 6 novembre. Enfin je sais pas encore. Je voulais faire une chose qui est absolument sans texte. Enfin y avait un texte, bon, j'arrive pas à écrire. Et ce que je voudrais, bon disons que c'est Paris c'est un matin de Novembre, c'est encore ensoleillé mais c'est quand même frileux. Et c'est un matin de Novembre avec un temps de Mars. Y a un petit soleil comme ça, une petite pluie et c'est dans Paris. C'est une marche très lente , c'est noir, c'est comme une file, une grappe, tu vois, lourde de gens, enfin pas de gens tu vois. Bon, ça s'écoule comme ça très lentement. Enfin c'est sombre tout ça tu vois. Je voyais une chose qui ferait comme ça, tu vois, comme une espèce de lente prière."

Luc Simon est mort

 
上の絵はLuc SimonがBarbaraのために描いた「眠れBarbara安らかに」

Luc Simonに関しては画家なので
日本のシャンソン界ではほとんど知られていない。
Barbaraに関する書物を目を皿のようにして読んでいる人のみが、心に留めている存在であるだろう。その死(2011年11月8日)も日本では全くフランスでもほとんど報道されていない。彼はPicassoを捨てた唯一の女、Francoise Gilotを受け止めて結婚、子供もできている、そういった意味では美術界では有名かもしれない。しかしあくまでもFrancoise GilotはPicassoとの間の二人の子供にPicassoの名を継がせたくて、認知を求めた。嫉妬に狂ったPicassoは自分もすぐ後に内緒で再婚するにもかかわらず、認知の条件としてFrancoise GilotにLuc Simonとの離婚を求めた。二人のこどもは、再婚したPicassoには懐かず、Luc Simonとの親子関係の方が良好だったようだ。もう一つ、ここでLuc Simonの死を取り上げる理由は、彼がBarbaraの恋人だったからだ。
Luc Simon: wikipedia
Luc Simon : Ceci n'est pas une pipe: Artist として
Francoise Gilot Picasso:詩集「2N世代」
Barbara's lover, Picasso's rival, is dead
従ってこういう報道↑になる。
Francoise Gilotの50年代
・・・・・・・・・・

必死にさがしたので思いもよらない映像を見つけることができた。しかし若き日のLuc Simonをメディアを通して間接的にではあるが知っているゆえに、これはショッキングな映像だった。彼は87歳で亡くなったのだが、死の3年前からアルツハイマー病を患っていた。若き日は映画に主演したこともある、カッコいい男性であった。この映像を見ると、老いること、に激しいショックを感じた。そう言えば、抽象表現主義画家のWillem de Kooningもアルツハイマー病を晩年に患った。あのWillem de Kooningがである。
Luc Simon 晩年の映像


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Luc Simonに関してはいつか書こうと思っていた。すでにどこかに書いたかもしれないが私は「
Attendez que ma joie revienne」はBarbaraがLuc Simonにあてて書いた曲だと思っている。その辺の肉づけをしたいと思っていた。今日フランス人のBarbaraサイトの一つにいくと「Je ne sais pas dire je t'aime」が、BarbaraがLuc Simonに書いた曲だとあった。この歌詞そのものをBarbaraは手紙にしてLucに書き送っているそうだ。心情的には「Attendez que ma joie revienne」と非常に似ている。しかも時期的に何故BarbaraがAttendezと言っているかもわかっている。その時Barbaraには心からどうしても消えない人がいたのだ。名前も勿論わかっている。そしてそもそもLucはその人物と知り合いで、彼に頼まれて、ParisでBarbaraに近づいたのだった。話すと長くなるので今日はこの辺で。

参照:
BarbaraとPicassoの子供達との繋がり(3)
参照:
Luc Simon:BarbaraとPicasooの子供達(4)
参照;
Picassoの息子と娘?(1) Music Cross Talk


Barbaraの一発ギャグ

Poisson Rouge

出典:「Barbara」par Valerie Lehoux P.103
証言者:Claude Vinci
場所:La Boule d'Or : Francesca Solleville, Pia Colombo, Christine Sevres, Marc OgeretそしてBarbara等の溜まり場
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Barbara: "Quelle est la couleur des petits pois?"
(グリーンピースの色は何色?)
Barbara: "Non,c'est pas vert, c'est rouge. Parce que les pois sont rouges!"
(緑じゃないわよ、答えは赤。だってポワソンルージュ(=グリーンピースは赤い)ポワソンルージュ(=金魚)って言うでしょ)

日本語は金魚なので、このギャグは不可。日本でも赤い金魚が一般的なのに。昔は金色だった?!上の写真は16ヶ月ほど前から準備していたのだが、この話を打ち込む時間が無くて、今日になってしまった。


・・・・・・・・・・・・


Je crois que le rire etait pour nous ( Barbara, Sagan, Greco) la meilleure facon d'exorciser la douleur, l'inquietude .
(私達にとって笑いは辛さや不安感を追い払う最良の手段でした)
L'humour de Barbara etait une defense, une fenetre ouvert sur la liberte.
(バルバラのユーモアはある種の自己防衛でした、自由・解放に向かって開かれた窓でした)
「Barbara」par Valerie Lehoux P.104 :
Greco
Juliette Grecoが単なるシャンソン歌手ではない、ことの論拠となりえるほどの素晴らしい分析だ。

上はCorrespondances(2009年8月9日)にBruxellesが書いた記事をこちらに移動したものです。


Roland ROMANELLI

Roand Romanelli

Roland ROMANELLI 56min
・・・・・・・・・
Le 22 mars dernier Yves Calvi dans son émission
radio Nonobstant sur France Inter invitait Roland Romanelli

・・・・・追記2010年4月18日・・・・・
Barbaraの自殺騒ぎがあった時、結局Barbaraがかけた間違い電話から、その電話を受けた見知らぬ人が救急車を呼んでくれて、Barbaraは死を免れたのだった。睡眠薬の飲みすぎ。魔がさしてうっかり間違えて飲んだのだと、Barbaraは自殺説を完全否定している。眠れない苦しさから、ちょっとばかりアルコールを飲みすぎるような勢いで飲んでしまったのだろう。Dalidaを初めシャンソン歌手には実際驚くほど自殺者は多い。あのJohnny Hallydayでさへ、自殺未遂経験がある。「魔がさす」というのは、説明を拒否するためのジョーカーだ。今朝ふと思い出したのだが、この間違い電話をかける前に、私の記憶ではBarbaraはRoland Romanelliに電話している。が留守だったのだ。睡眠薬が致死量に近づく前に、BarbaraはRolandを相談相手に選んだ。ある時期Rolandは間違いなくそういうポジションにいたのだ。そしてもう一度Rolandにかけようとして意識が混濁して番号を間違えたのだろう。(結果としてはそれが命を救ったのだが)・・・
上の放送でRollandは五月蝿いほどしゃべりにしゃべっている。Planete Barbaraでは既に書き記したことばかりなので解説は省略する。繰り返しになるがひとつだけ、やはりBarbaraらしさを感じるので再記しておく。BarbaraとRolandはLily Passionの稽古中の諍いが元で、ぶち切れたRolandが稽古場を飛び出し、そのまま永遠に去ってしまうことになる。後はお互いの意地の張り合いだ。(Lily Passionで目も当てられない程あの俳優と目の前でいちゃいちゃされたら、Rollandでなくてもぶち切れるだろう-Bruxelles発言)「その後は一度も会っていないのですか?」の問いにRolandは答えている。「一度だけBarbaraから電話がありました。すぐに僕はBarbaraだと分かったのですが、Barbaraはこう言ったのです。『Jean Michel Jarreさんのお宅ですか』?ってね」「それで?」「それで僕はこう言いました。いいえ、違います。番号のおかけ間違いですよ、ってね」
どちらの気持ちも非常に良く分かる。こういうシチュエーションの経験は誰にでもあるだろう。「久しぶり、よく電話をかけてきてくれたね」ってRollandが言えたら、二人はすぐに再会しただろう。あなたがRolandなら、どう対応しただろうか。私がRolandなら、私がRolandなら、同じようにもうBarbaraの元には戻らないだろう。

上はCorrespondances(2010年4月18日)にBruxellesが書いた記事をこちらに移動したものです。

Luc Simon:BarbaraとPicasooの子供達(4)

Luc Simon

とりあえずLuc Simonの個人資料をなくさないように置いておく。
Francois Faurant Site  :
Luc Simon :
Luc Simon was born in Reims in 1924, where his father was a master
glassworker; Simon himself has designed stained glass windows for a number of churches, including the church of Saint Remi in Reims. Luc Simon studied at the Ecole des Arts Decoratifs in Paris. Although chiefly a painter, Luc Simon has also made sculptures and designed tapestries. Among his prizes are the Prix de la Casa Velasquez in 1950, the Prix Feneon in 1954, the Prix de la critique de la Ville de Paris in 1963. He has works in the National Gallery of Modern Art in Tokyo, and the Musee National d'Art Moderne in Paris. Between 1955 and 1962 Simon was married to the artist Francoise Gilot (between her partnership with Picasso and her later marriage to Jonas Salk). There is a 1973 film about his work, Le peintre Luc Simon, by Denise Glaser; Simon also appears as Sir Lancelot in the classic 1974 film Lancelot du Lac, directed by Robert Bresson.
・・・・・・・
○1973年にDenise GlaserCorrespondances過去記事Je suis mort.com
によってLe peintre Luc Simon, 「画家、リュック・シモン」という映画が製作されている。
○Robert Bresson監督の映画Lancelot du Lac (1974) 「湖のランスロット」で主演のランスロットを演じた。上の写真こちら向きの渋い男性がLuc Simonである。
Lancelot du Lac : Wikipedia
Lancelot du Lac : imdb
Lancelot du Lac : 13 customer reviews Amazon

・・・・・追記:2010年3月15日・・・・・
参照:Ceci n'est pas une pipe :Luc Simon : Art Works
参照(写真):Barbaraの「Madame」の舞台美術を担当した制作中のLuc Simonと、初主演舞台「Madame」の大失敗を「L'aigle Noir」の大ヒットで吹き飛ばした驚くほど若い40歳のBarbara
「Madame」の舞台衣装を着て
(この鋭い目をみて思い出したが、67歳のBarbaraは片方の目の白内障の手術を終え、もう一方の目の手術の予約をいれたまま亡くなっている)

上はCorrespondances(2010年3月15日)にBruxellesが書いた記事をこちらに移動したものです。


BarbaraとPicassoの子供達との繋がり(3)

Barbara et Picasso

写真解説
Luc Simon and Francoise Gilot, Tunisia, 1956
(この時Francoise Gilotのおなかの中には二人の子供が宿っている)
・・・・・・・
1954:In the spring, Gilot and Luc Simon meet by chance at the La Hune Bookstore in Paris, shortly after Simon’s return from a sojourn in Madrid. After years of working so near Picasso, a man of vast intelligence but with a titanic nature, Gilot now finds herself in the company of a man who encourages her more poetic nature and her quest for lyricism in her work.
1956: In May around the Easter holidays, Gilot and Simon travel for a month in Tunisia. Although she is several months into a difficult pregnancy and is experiencing some discomfort in traveling, the cultural, the colors, the children and the quality of light enchant Gilot. October 19: Though there are difficulties during the delivery, Gilot gives birth to her third child, Aurelia.

引用部分の出典)
Francoise GilotはPicassoのもとを去った後、Artを通じた昔の友人Luc Simonと再会、結婚しAureliaという子供を産んだのだった。この時点でLucとFrancoiseには3人の子供がいることになる。二人が協議離婚をするまで、Luc SimonはClaudeとPalomaの父親だった。離婚後もClaudeとPalomaにとっては、認知はされたが既に新しい女性と暮らしているPicassoより、母とLuc Simonこそが、最も親しい家族だったのだろう。一人になった母は羽ばたき後にPicassoにも劣らない著名人と結婚してさらに名声を高めていく。ClaudeとPalomaがPicassoの名を名乗り始めた直後、あるいは遅くともその1,2年後に、Monsieur H..を通してLuc SimonはBarbaraに出会ったのだった。このとき既にLuc SimonにはAureliaと言う子供がFrancoise Gilotとの間に存在していた。
Aurelia and Water Lilies 1969 by Francoise Gilot
・・・・・・・・・・


参照:Francoise Gilot 詩集「2N世代」
リンクにある日本語によるFrancoise Gilotの人生解説の両ペイジに於いてLuc Simonへの言及は「ジローは若い頃の画家仲間リュック・シモンと結婚し、娘オーレリアをもうけている。」の一行のみである。前後の男性があまりに偉大すぎて、Francoise Gilotの人生を外から見た場合、Luc Simonが話題になることは、このようにほとんど無い。一方Barbaraの人生を取上げる場合も、Luc Simonに特に着眼するのは今回のこのCorrespondances(PLANETE BARBARA)が日仏両国を通して初めてだろう。こう書いた以上は、BarbaraとLuc Simonとの出会い及びその恋愛関係にも、出来るだけ早急に筆をあてがわねばならない、と言う気がしてきた。


上はCorrespondances(2010年3月12日)にBruxellesが書いた記事をこちらに移動したものです。

(続)Picassoの息子と娘 (2)

Barbara et Picasso 2

この写真は1989年に出たBarbaraの楽譜集。昨日書いたように資料ではこの写真はPaloma Picassoと記されていた。偶然この本を友人のRoseに買ってもらって送ってもらっていたので、夕べ確認するとこの写真もClaud Picassoとなっていた。お詫びと訂正をいたします。

Claude Picassoを調べたところカメラマン修行をしているので、おそら くPicassoの息子とBarbaraの写真撮影者は同一人物とおもわれる。

Paloma PicassoがLuc Simonの助手をしていて、Barbaraの「Madame」の舞台にかかわったことも確認しました。80年代にPaloma Picassoは自分のブランドを立ち上げ香水やアクセサリーを多数創作している。2001年スイスのLausanneに移住そこにPaloma Picasso Foundationを設立し、特に母親(Francoise Gilot)の作品の紹介に力を入れている。PicassoがPalomaの顔を描いた作品が次のサイトで見える。Palomaの紹介も出ている。
こちら
アーティストというよりスイス在住のBusiness Womanのカテゴリーでようやく見つかった。
以上は2005年10月15日の記事をTopに移動したものです。
・・・・・・・・・・・

・・・・・・・追記:2010年3月12日・・・・・・・
Picassoとの間に息子Claudeと娘Palomaを産んだFrancoise GilotはPicassoの女としては例外的な行動をとる。Picassoの抑圧や浮気に耐えかねてPicassoの元を去る。この時のPicassoの心境は女三の宮に浮気された光源氏ほど、わが身の老齢化を実感しショックに打ち震えたことだろう。高齢ゆえの完全自信喪失である。
Picasso was not long in finding another lover, Jacqueline Roque.  The two remained together for the rest of Picasso’s life, marrying in 1961. Their marriage was also the means of one last act of revenge against Gilot. Gilot had been seeking a legal means to legitimize her children with Picasso, Claude and Paloma. With Picasso’s encouragement, she had arranged to divorce her then husband, Luc Simon, and marry Picasso to secure her children’s rights. Picasso then secretly married Roque after Gilot had filed for divorce in order to exact his revenge for her leaving him. (Wikipedia)
PicassoはFrancoise Gilotに仕返しをする。ClaudeとPalomaの認知を望んでいたFrancoise Gilotに現在の夫との離婚を要求、自分との入籍を暗示しながら、Francoise Gilotが子供の認知のために夫との協議離婚の手続きを踏むや否や、自分は最後の女Jacqueline Roqueと密かに結婚しFrancoise Gilotから安定していた結婚生活を奪ったのだった。

上はCorrespondances(2010年3月12日)にBruxellesが書いた記事をこちらに移動したものです。


Picassoの息子と娘?(1)

Barbara et Picasso

 これがFrancoise GilotPablo Picassoの間にできたClaude Picassoと思われる人が撮影したBarbaraの写真。明日は二人の間の娘と思われる、Paloma Picassoが撮影した写真を載せます。Paloma Picassoは1970年Renaissance劇場の「Madame」の舞台構成をした、Barbaraの友人Luc Simonの助手をしていました。
以上は2005年10月14日の記事をTopに移動したものです。

・・・・・追記2010年3月12日・・・・・
Luc Simonについていつか詳しい記事を書こうと思っていた。これはまだ調査の必要ありのことだが、「Attendez que ma joie revienne」はLuc SimonにBarbaraが贈った曲ではないかと考えている。Luc SimonはMonsieur H...とBarbaraの仲をとりもった人物なのだが、結果として後にBarbaraの恋人になった人物である。上に書いたように「Madame」の舞台美術を担当し、またBarbaraのPrecyの家の室内デザインも手がけたArtistである。Luc Simonの手になる「Barbaraよ、眠れ」という絵画作品も見た記憶がある。友人のJeanneに貰った比較的新しいCD付きBarbara本のイラストはLuc Simonが担当している。BarbaraサイトのArticleとしてLuc Simonを書くにはまだまだ多くの時間をかけた資料調べが必要なので、いつ頃脱稿できるかは完全に未定である。
上の記事を書いた2005年10月14日の時点では、BarbaraのジャケットにPicassoの名前を発見して、オヤッと思って記事にした段階であるが、昨日BarbaraとPicassoの子供達の繋がりの理由を発見した。

上はCorrespondances(2010年3月12日)にBruxellesが書いた記事をこちらに移動したものです。

Une autre lumiere

Texte et musique de Marie Paule Belle

Tu aurais du attendre un peu
Avant de partir
Qu'on se connaisse un peu mieux
Le temps de se dire
Des choses qui ne servent à rien
Mais qui font rêver
Quelques mots dont on a besoin
Pour pouvoir chanter

Rappelle toi Barbara
Nous a dit Prévert
Le soleil de ta voix
N'aura pas d'hiver

Ta folie ta vivacité aidaient notre vie
Et ta voix même un peu cassée
Comme elle manque ici
Vêtue de noir pour l'extérieur
Tu virevoltait
Tout était blanc à l'intérieur
Mais tu le cachais

Rappelle toi Barbara
Nous a dit Prévert
Le soleil de ta voix
N'aura pas d'hiver

Aujourd'hui loin des projecteurs
Une autre lumière
Enveloppe ton âme et ton coeur
Plus fort et plus clair
Et ses mots que tu as chanté
Donne moi la main
Je le envoie sans m'arrêter
Ca me fait du bien

Comme toi je ne sais pas dire je t'aime
Mais à ma façon
J'ai voulu te le dire quand même
Dans une chanson

///////////

去ってしまう前にもう少し待ってほしかった
もう少しよくお互いを知り合えるように
話し合う時間がほしかった
現実に役立たない話でも
きっとそうすることで夢見ることができた
歌うために必要な言葉を
語り合えたかも知れない

「Rappelle-toi Barbara」とJacques Prevertは詩に書いたわよね
そうよBarbara rappelle-toi(思い出してね)
太陽の素晴らしさを持つあなたの声に
冬という季節はなかった

あなたの快活さ、そして時々する悪戯
私たちの人生を支えてくれたわ
そしてあなたのあの声、少しかすれていたけれど
もう直に言葉を受け取れないのが悲しいわ
外側は黒い服
でも、あなたがくるりと回ると
内面は真っ白
でもその白さを
あなたは黒い色で隠していたわ

「Rappelle-toi Barbara」とJacques Prevertは詩に書いたわよね
そうよBarbara rappelle-toi(思い出してね)
太陽の素晴らしさを持つあなたの声に
冬という季節はなかった

今はもう照明からは遠いところにいるあなた
でも、もうひとつの光が
あなたの魂とあなたの心を
照らしているわ、より明るく、よりはっきりと
あなたが歌った
「Donne moi la main 手をかして」という言葉
私は絶え間なくその言葉を呟くわ、あなたに
そうすると気持ちが安らぐの

あなたが「Je ne sais pas dire je t'aime (愛していると言えない)」と歌ったように私も
「Je ne sais pas dire je t'aime」
でも私は私のやり方で
歌の中に思いを込めて
あなたにBarbara,あなたに
「愛しています」と言いたかったの


/////////////////////

追記:
1964年Barbaraが作詞作曲した「Je ne sais pas dire」という曲は、このように始まる。曲想もすでにBarbara世界の片鱗を見せている。

Je ne sais pas dire "je t'aime",
Je ne sais pas, je ne sais pas,
Je ne peux pas dire "je t'aime",
Je ne peux pas, je ne peux pas,
Je l'ai dit tant de fois pour rire,
On ne rit pas de ces mots-là,
Aujourd'hui que je veux le dire,
Je n'ose pas, je n'ose pas,
Alors, j'ai fait cette musique,
Qui mieux que moi te le dira,

「愛しています」なんて言えない、言えない
「愛しています」なんてどういえばいいのか知らない、知らない
おちゃらけでは何度でも言ったことあるけど
普通それで人は笑わない
でも今日その言葉を言いたいの
でも思い切れない、思い切れない
だから、この曲を作ったの
私が口に出して言うより
うんと上手に気持ちが伝えられると思うの。


今回この曲を取り上げたのはある方のリクエストにお応えしたものです。

・・・・・・・・・・・・・・
追記(2)
歌詞の中の「Rappelleーtoi Barbara」はJacques Prevert作詞Joseph Kosma作曲、イヴ・モンタンやレ・フレール・ジャックの歌でよく知られている曲「Barbara」からの引用。
歌詞の中の「Donne-moi la main」は言わずと知れた「Nantes」からの引用。「Donne-moi la main」「助けて」というのはナントの駅に一人で降り立って、暗い空、そぼ降る雨に直面したBarbaraの偽らざる心境に違いない。「助けて」と当てもなく呟く状況を経験することによって、人は人生の過酷さと自分の非力さを知る。その経験を通して、初めて人は寛大にも謙虚にも、そしてやさしくもなれる。

上の記事は2005年9月28日の記事
2010年3月6日:追記
Une Autre Lumiere par Marie Paule Belle:

L’atelier: Bruxelles 1954 (4)

Barbara not 1954.

2008-04-11記


Barbara à l’Atelier (publié par Les Greniers de la mémoire-France Musique et Le Chant du monde-Harmonia Mundi), enregistrement mythique du 1er octobre 1954, qui marque peut-être le tout début d’une vraie carrière. Ce jour-là, devant deux cents spectateurs tassés dans le vaste atelier du peintre Marcel Hastir à Bruxelles, elle gagne ses premières critiques de presse et son premier contrat discographique avec Decca-Belgique.

参照: Le Figaroの記事:2007年11月24日

L’atelier Bruxelles 1954 を紹介したLe Figaroの記事を探し出した。上はその抜粋。
この記事によると、かなり大きいMarcel Hastirのアトリエ、ぎっしり200人はいったようだ。1954年10月1日。ここにあるように翌日新聞記事に取り上げられた。Barbaraが初めてメディアに歌手として登場したことになる。(その報道記事も、リサイタルポスターも入手済み)そして客席にDecca-Belgiqueの関係者がいて、これをきっかけにレコード契約も整った。また11月にはAngèle Gullerのラジオ番組「 La vitrine aux chansons 」に招かれBarbaraはベルギーで初ラジオ出演を体験する。そして1955年の
レコード発売に合わせて、le Palais des Beaux-Arts de Bruxelles 、ブリュッセルの名門劇場への出演をはたす。Barbaraが言うようにL’atelier Marcel Hastirでのリサイタルは大きくBarbaraの歌手人生を浮上させる。

Ce n’est pas ce récital qui est enregistré par un de ses amis qui vient d’acheter un magnétophone à bande, mais son ultime répétition, au cours de l’après-midi. S’accompagnant au piano, elle interprète ses seize chansons
16曲の弾き語り、とある。レクリューズ時代でも下手だ下手だといっていたピアノをこの時期にすでに弾き語りをしていたのは驚きだ。とすればBarbaraに歌えるまでのピアノの手ほどきをしたのは、グルジア人のEthery Rouchadzeだということになる。前にも書いたが、録音はリサイタルそのものではなく、同日午後の最終リハーサル。録音は(1)で紹介したJacques Vynckier氏。彼はMarcel Hastirの生徒でもあった。自分の歌の反省材料にでもしようと思ったのか、Barbaraがリハーサルの録音を誰かにしてもらいたいとJacques Vynckier氏に依頼した。数日前にアメリカ製の前年に発売になったばかりのEkotape Websterというオープンリールのテープレコーダーを所持したJacques Vynckier氏、それをヨーロッパ仕様に電圧調整?して、急遽自分が録音係を引き受けることにした。録音がこのように全くの素人であること、そしてマイクがピアノの上に直接置かれていたこのなどが、声の歪の最も明らかな原因だと言える。(しかしCDでは、これを21世紀の録音技師プロのDjengo Hartlap氏がここまで出来るのかと思うほど修復してみせている)


Son répertoire est à l’époque très composite, mêlant les classiques intemporels (À Saint-Lazare d’Aristide Bruant, Madame Arthur d’Yvette Guilbert) et les succès du moment (Mon pote le gitan, Viens gosse de gosse), mais aussi des chansons originales... qui ne sont pas d’elle. «La Promenade» et «L’avenir est aux autres» sont l’œuvre d’Andrée Olga et de son mari Claude Sluys, fils de famille tenté par la poésie et la vie de bohème.
FigaroもLe Mondeも、結構こういうミスをする。Claude Sluysを夫と紹介しているのに、Andrée OlgaをBarbara自身と見抜けないなんて、フランスの評判の一般紙はBarbaraに関しては時々目を覆うほどいい加減だ。


Sur la place par Jacques Brel :


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2008-04-19 : 追記
「吃驚仰天」と言う言葉で、曙の結婚問題のときの高見山を思い出してしまった。とにかく吃驚仰天!
ーとすればBarbaraに歌えるまでのピアノの手ほどきをしたのは、グルジア人のEthery Rouchadzeだということになる。ー
と上の文中に書いている、そのEthery RouchadzeがNet上に顔出しで登場した。この情報は今日届いたLes amis de Barbaraの会報No.33から入手したもの。1952 BruxellesにおけるBarbaraを語る、当然のことながら、吃驚するほどのおばあさん!とても天才Pianisteだった女性とは思えない。(ただし若き日の面影はある)。
Le Expressのweb記事上にある。
LEXPRESS.fr du 20/11/2007
Rencontre avec
Ethery Rouchadzé, première pianiste de Barbara:


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この記事はBlog Correspondances(2008-04-19),にBruxellesが記入したものをこちらに移動したものです。

L’atelier: Bruxelles 1954 (3)

Marcel Hastir 1954

画家Marcel Hastir氏は現在100歳を超えている。1937年以来彼のアトリエは若いアーティスト達の発表の場となっている。なんと70年を越える劇場である。若手日本人アーティストの中には、この場でコンサートを行った人も何人かいる筈だ。演目に関する規制は無い。1998年からは、2年毎に賞金2000ユーロのMarcel Hastir賞も制定されている。作曲家に与えられるこの賞に応募するには、国籍や年齢に関する制限は無い。作品演奏時間12分から20分までの弦楽四重奏曲が応募の対象となっている。


ただ逃げたかったためにBruxellesに行ったBarbaraに、友人も知人も、そして何かの当てがあったわけではない。最初のBruxelles行きは、八方塞がりの、絶望の果ての、どん底の”家出”なのだった。2度目のBruxellesでさまざまな才能や重要人物との、人生の第一転換とも言える出会いがあり、、幸運が重なって、しかも織物のように運命の糸が絡み合って、半世紀と数年を経て、2007年のCD「A L'Atelier Barbara 1954」が完成した。つまり歌手Barbara, une femme qui chante,の埋もれてもはや存在しないも同然だった原点が、夜のような雲を引き裂いて、物理的にCDという形をかりて立ち現れた、と言えるだろう。


Les Amis de Barbaraでは当初からBarbaraの人生を追調査するという目的のひとつを持っていた。数年前から現地、この場合はBruxellesに飛んで様様なインタビューや資料収集を独自に行っている。
会報18号(2004年夏号)では、このL'Atelierの主、Marcel Hastir氏をそのL'Atelierに訪ねてMarie Avilesがインタビューを試みている。


「僕のアトリエでのコンサートにいつも来ていた医者がいたんだ。その医者と知り合いになってね。彼の家の近くに若い女の子が住んでいて、確かポーランドかユーゴスラビアから来た子だったかなぁ」
「遠くから来た子で仕事を探していた。で、その医者が彼女を掃除や整理係に雇ったんだ。Sluysの家には実験室があった。彼は癌の専門医でね、本当にその実験器具を洗ったりする使用人が必要だったんだ。その子はとても感じのいい子で、住み込むようになって、実験室の整理整頓をしていた。つまりは、そうして医者の手伝いをしていたから、看護婦みたいな仕事にありついたわけだね」
「その子はね、ある特徴があって。ここにコンサートを聞きにやってきた医者が、ある日こう言ったんだ。『変わった子だよ、あの子。一日中ずっと歌を歌ってるんだよ』ってね。歌ばかり歌っている子で、声もいいのなら、このアトリエでその子のために何か企画してあげてもいいね、ってその医者に言ったんだ」
ーM.A.「じゃあ、此処での彼女のコンサートはあなたが言い出したんですか」ー
「そうそう。で彼が『じゃ、そうしようか』って言った。すんなり決まったよ。で、ある日僕が彼女に会いに行って彼女が歌うのを聞いた。彼女の部屋、つまり彼の実験室に行ったんだ。彼女はこんな風に歌った...。黙って聞いて、いける、と思った。とても素晴らしい声を持っていたからね。それで、リサイタルの準備をすることにしたんだ。パリにFerrierresと言う奴がいて、そいつはこういうシャンソンのリサイタルの準備の専門家でね、彼が準備万端、手筈を整えた。そのFerrieresをパリからブリュッセルに呼び寄せて、彼はここに一ヶ月いた。その一ヶ月間女の子も、ここに毎日やって来て彼と一緒にリハーサルやら何やらしたんだ。選曲やら曲順やらプログラムづくりやら。そして成功した。そうだね、その一ヶ月
の間に、その女の子はその医者の息子と恋に落ちたんだよ」

ーM.A.「クロードですか」-
「そうだ。それで、その女の子と彼の息子は結婚した。その後二人でパリに行ってしまった。息子はプロデューサーみたいになってね。彼は、彼女のために何か役立ちたかったんだよ。でもプロデューサーとして彼はいい仕事人とは言えなかった。とっても心の優しい子でね。彼女のプロデューサーとしては、ふさわしくなかった。二人は仲違いして、そして別れた。彼女だけParisに残った。彼女は、そうだね、早かったよ、その後すぐに成功したよ」
ーM.A.「Barbaraの思い出は、特に何かお持ちですか」ー
「大きな髪の黒い美人だったね。私の妻ともとても仲がよかった。本当に仲が良くて小さなビストロでOrval(ベルギービール)を飲むために二人でよく出かけたよ。彼女はそれが好きだったんだ。なんでもかんでもしゃべってたよ。ここで準備や練習をしていた頃、夕方になると時々ね、みんなで、ちょっとお出かけしたりしてね。短かったよ、そういう時期は。彼女はParisに行ってその続きをしたんだろうね。Bruxellesには戻らなかったんだからね」
ーM.A.「戻ってますよ。Bruxellesに」-
「そうだね。でも彼女はParisを選んで、そこで歌手としての生活を続けていった。いつも、彼女には才能があると思っていたよ。その才能は開いていった。でも一番最後には、ついに声がつぶれてしまっていたね。その後は声は元に戻らなかった。自分の作品を歌うことに関しては、特別な才能があった。知性もとりわけ、優れている娘だったね、彼女は」
ーM.A.「連絡はずっと取りあっていたのですか」ー
「いいや、Parisに去って、それからそのままになった。例外として一日だけ彼女はBruxellesに戻って来て、パレ・デ・ボザールでリサイタルをしたね」
「パレ・デ・ボザールは普通は流行歌のコンサートはしないし、厳しい演目の選択をするところなんだ。Barbaraは例外だった。Barbaraを例外的に暖かく無条件で迎え入れた。やってきた彼女も立派だった。こんなことを言ったんだよ。『親愛なる皆様、私はここに来ました。それも私をあのアトリエで歌わせてくださったHastir御夫妻のおかげです。歌手としてBruxellesに戻ってきてこの大劇場に立てるのは、あの時のご夫妻のお力添えのおかげです』と。優しいことを言ってくれたね。」
ーM.A.「そうですね。でも本当に彼女の成功の最初のきっかけをつくったのは、あなた、Hastirさんなのですね」ー
「そうだね」
ーM.A.「アトリエでは20曲ほど歌ったんですね」-
「そうだね。たくさん歌ったね。Ferrieres氏とMon pote le Gitanを何度も練習していたよ。素晴らしい歌手だとずっと思っていたよ。うん、素晴らしい女の子だったよ。あの子はね、ちょっと変わっていて、一人の時は全く一人なんだ。人々と共に生きるという生き方をしなかったね。...ホールを見せましょうか」


Marie AvilesはMarcel Hastirとのインタビューの後、会場に行きピアノ、座席、楽屋などを見ている。Marcel Hastirに会い、Barbaraの話を聞き、その思い出のAtelierを見て彼女がどれほど感動したか、私には良くわかる。しかし、この出会いがCD「A L'Atelier Barbara 1954」のスタートになるとは、この時まだ誰も知らない。

Marcel Hastirのアトリエでは2004年のこのインタビューの少し前には、Amnesty Internationalの支援の元BIRMANIE Ce que cachent les pagodasと言うミャンマーの亡命者や政治囚救済のための集いを行っている。ここはレジスタンスの時代から多くの政治的被害者をかくまってきた砦でもある。

参考資料  : Les amis de Barbara 会報 
2004年夏、第18号
L’atelier: Bruxelles 1954 : PLANETE BARBARA 過去記事
・・・・・・・L’atelier: Bruxelles 1954 (3) par Bruxelles・・・・・・・


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追記: 4月10日
2005年にTV放映されたChristian Mesnilの Les chemins de Barbara を見ていたらMarcel HastirのL'Atelierの内部が映し出されていた。それだけでなくMarcel HastirがBarbaraを語る映像も流れたので吃驚した。このLes chemins de BarbaraはBarbaraの生前からすでに企画されていたが、Barbaraが自伝を書いてからと希望したので、着手がストップしていた。Barbaraが突然死したのでChristian Mesnilは、改めてBarbaraの兄Jean Serfに許可を取らなければならなくなった。その辺のことはまた機会を改めて「Les chemins de Barbara」について触れる時に詳しく書いてみたい。


追記: 4月11日
この辺が追調査の難しいところだが、ClaudeとBarbaraの出会いに関して、Marcel Hastirの発言と正統と判断されている資料の間に幾分食い違いがある。BarbaraとClaudeは1953年に既に結婚しているのだ。
この初めてのリサイタルでBarbaraはBrelのSur la placeを歌っているが、1954年、つまり同年のこれより少し前にBarbaraはBrelと初めて出合って、そしてこのSur la placeをBrel自身から「もらって」いる。1954年1955年と言う年は「Chaval Blanc」閉鎖後、ClaudeとBarbaraがParisとBruxellesをしきりに行ったり来たりする慌しい時期なのだ。
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この記事はBlog Correspondances(2008-04-09),にBruxellesが記入したものをこちらに移動したものです。


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